このブログにとって9月は節目の月。
ノラたちとの付き合いが始まったのは3年前の9月、家族そのものだった3匹時代が終焉したのは2年前の9月でした。
ハナを亡くし、くもを亡くし、最後に残ったテツの介護をしているときに出会ったノラがソトチビとポン。それがきっかけでみうやニャー、ダイフク、年が明けてチビやシャッポに出会った。そのチビを事故で失ったのが2年前の9月。その無念さが、ノラのために何かをしたいという衝動となってこのブログを始めた。しかしその2日後に今度は自分の分身とも言うべきテツを亡くした。今日はテツの2回目の命日です。あのときは、正直ここまで続けられるとは思っていなかった。
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おいおい、テツの命日にニャーの写真でいいんかい
ところがノラの保護というのは、始めたら止められないところがある。ノラたちから期待されると裏切れなくなるからです。期待といっても人間のように下心を持って期待するわけじゃなく、信頼した相手にはその生活や生き様、運命まで、猫生(人生)そのものを下駄預けにしてくるのです。ノラだから必死? いや、一緒に暮らせばもっとそうなる。猫がそういう動物なのだ。ツンデレの奥に持つその帰依感情こそが、保護者をデレデレにさせる所以なんだろう。そして「この子のために頑張ろう」と、保護者は強くなっていく・・。
このブログでは随分「ノラの幸せ」という言葉を使ってきた。シリーズ「ノラたちとの共存をめざして」でも次回はその"幸せ"がテーマ。このテーマは難しい。答えがひとつじゃないからです。しかも猫ともなれば、幸せを自覚したり望むこともないだろう。彼らは今と昔を較べたり、他の生活と較べたりしない(できない)からです。
人間的に考えれば、怪我や病気に無縁で不安なく暮らせれば、ノラ暮らしよりははるかにましだ。いやもっと原点の話だな。世の中には1、2ヶ月のかわいい盛りに捨てられて、食べ物もなく冷たい雨に打たれて人知れず果てていく子猫が沢山いるのだから。今日のご飯をもらえるだけでも、ノラにとっては幸せだろう。
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なんだ、回顧録か(ハリーを見張るうちに居眠りのニャー)
この話を持ち出すと根源的すぎて他の話ができなくなるので、今日はブログ2周年を機にわが家のニャンコたちの「幸せ度」を上げる方法について考えてみました。すると、どうだろう、それは彼らに最も影響を与えている自分の問題だと気付いたのです。
ハナ、テツ、くもの3匹時代は、いろいろトラブルもあったけどわが家はいつも穏やかで平和だった。それは専らハナとテツのやさしさによるものだったが、とにかく怒ったり怒られたりはあっても喧嘩というものがなかった。だから荒んだ気持ちで仕事から帰宅しても、直ぐにくつろぐことができたのです。あの時代、3匹の世話と躾の担当は妻だった。
ハナを亡くしその3ヶ月後にくもを亡くしたとき、自分は一念発起してテツの介護を一手に引き受けた。目標はテツを長生きさせること。そこまでしなくても、と言う妻を叱咤してテツのためならと何でもしてきた。テツは自分の期待に最大限応えてくれた。でもテツを看取ったとき、ふとある思いが過ぎった。テツは誰のために頑張ったんだろうと。
わが家の新しい時代はテツを亡くしてから2ヵ月後、その日の朝まで思ってもいなかったニャーの(店からの)お迎えという形で始まりました。本当は自分としてはテツの余韻にもっと浸りたかったし、家裏で生活していたテツの忘れ形見、みう(当時おかあさん)のお迎え算段もしていた。それから半年経ってようやくみうを迎え、今年になってからは次々と増えて今は7匹です。
その7匹を見ていると、前の3匹組とは何かが違う。一見くつろいでいるようには見えても、何とも言えない緊張感が張り詰めている。 「ノラだったんだから仕方ないよ」と妻。しかしその緊張感は全員に等しくあるわけではなく、その中心にいるのがニャーなのです。そう、ニャーはみうを迎えたときからピリピリした猫に変わってしまった。ちび太も相変わらず誰彼なく追い回すけど、ニャーのように相手を排除しようとするほどの執拗さはない。
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やや、何だか雲行きがこっちに向いてきたような・・
店時代のニャーは利発な平和主義者と評判も上々だった。人との接し方を体得しているように見えたし、よそ猫が近づけば先に察知して避難した。ポンに追い払われたときもうまく避け続けたし、チビ亡き後にシャッポとの関係が微妙に変化したときもうまくかわした。しかしシャッポの攻撃が執拗さを増して逃げ切れなくなって、やむを得ずの応戦そして流血の惨事を経て、ニャーをわが家に非難させたのでした。
ひと月半ほど前に書いた「愛猫との距離」の中で、自分に対するニャーの微妙な変化を危惧しました。「怒るに怒れん・・」では怒ることの効果弊害を考察した。思えばみうを迎えた頃、みうを睨みつけては襲いかかるニャーを随分本気で怒った。あの頃からニャーの中にはわだかまりが溜まっていったのだろう。表には出さなくても、猫にも複雑な心境ってのがあるのに違いない。
しかし今ではニャーだけの問題じゃない。自分が怒れば全員が怖がり、不安になる。ニャーはどんなときに怒られるのかわかっている。でも他の連中にとっては、いつ怖くなるのかわからない保護者が問題なのだ。今ではニャーの排他的行動の矛先はリンとハリーに限られる。それはこの2匹がニャーに睨まれても逃げないからだ。一方でむしろ全員が恐れているのは、保護者の突然の豹変だった。
さて、また悪い癖が出てとりとめのないことをぐだぐだ長々と書いてしまった。要はそんなこんなで、これからは怒らないやさしい甘々ちゃん保護者に変身することにしたのです。まあコラッくらいの注意はしますが。 名付けて、「ニャーの信頼取り戻し作戦・甘々編」 さてさて、ニャーはどうなるか。他の猫たちはどうなるか。はたまた保護者は続けることができるのか・・・。
?ヵ月後が楽しみです。
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ニャーにじゃれ付かれて困り顔のちび太
ノラたちとの付き合いが始まったのは3年前の9月、家族そのものだった3匹時代が終焉したのは2年前の9月でした。
ハナを亡くし、くもを亡くし、最後に残ったテツの介護をしているときに出会ったノラがソトチビとポン。それがきっかけでみうやニャー、ダイフク、年が明けてチビやシャッポに出会った。そのチビを事故で失ったのが2年前の9月。その無念さが、ノラのために何かをしたいという衝動となってこのブログを始めた。しかしその2日後に今度は自分の分身とも言うべきテツを亡くした。今日はテツの2回目の命日です。あのときは、正直ここまで続けられるとは思っていなかった。
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おいおい、テツの命日にニャーの写真でいいんかい
ところがノラの保護というのは、始めたら止められないところがある。ノラたちから期待されると裏切れなくなるからです。期待といっても人間のように下心を持って期待するわけじゃなく、信頼した相手にはその生活や生き様、運命まで、猫生(人生)そのものを下駄預けにしてくるのです。ノラだから必死? いや、一緒に暮らせばもっとそうなる。猫がそういう動物なのだ。ツンデレの奥に持つその帰依感情こそが、保護者をデレデレにさせる所以なんだろう。そして「この子のために頑張ろう」と、保護者は強くなっていく・・。
このブログでは随分「ノラの幸せ」という言葉を使ってきた。シリーズ「ノラたちとの共存をめざして」でも次回はその"幸せ"がテーマ。このテーマは難しい。答えがひとつじゃないからです。しかも猫ともなれば、幸せを自覚したり望むこともないだろう。彼らは今と昔を較べたり、他の生活と較べたりしない(できない)からです。
人間的に考えれば、怪我や病気に無縁で不安なく暮らせれば、ノラ暮らしよりははるかにましだ。いやもっと原点の話だな。世の中には1、2ヶ月のかわいい盛りに捨てられて、食べ物もなく冷たい雨に打たれて人知れず果てていく子猫が沢山いるのだから。今日のご飯をもらえるだけでも、ノラにとっては幸せだろう。
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なんだ、回顧録か(ハリーを見張るうちに居眠りのニャー)
この話を持ち出すと根源的すぎて他の話ができなくなるので、今日はブログ2周年を機にわが家のニャンコたちの「幸せ度」を上げる方法について考えてみました。すると、どうだろう、それは彼らに最も影響を与えている自分の問題だと気付いたのです。
ハナ、テツ、くもの3匹時代は、いろいろトラブルもあったけどわが家はいつも穏やかで平和だった。それは専らハナとテツのやさしさによるものだったが、とにかく怒ったり怒られたりはあっても喧嘩というものがなかった。だから荒んだ気持ちで仕事から帰宅しても、直ぐにくつろぐことができたのです。あの時代、3匹の世話と躾の担当は妻だった。
ハナを亡くしその3ヶ月後にくもを亡くしたとき、自分は一念発起してテツの介護を一手に引き受けた。目標はテツを長生きさせること。そこまでしなくても、と言う妻を叱咤してテツのためならと何でもしてきた。テツは自分の期待に最大限応えてくれた。でもテツを看取ったとき、ふとある思いが過ぎった。テツは誰のために頑張ったんだろうと。
わが家の新しい時代はテツを亡くしてから2ヵ月後、その日の朝まで思ってもいなかったニャーの(店からの)お迎えという形で始まりました。本当は自分としてはテツの余韻にもっと浸りたかったし、家裏で生活していたテツの忘れ形見、みう(当時おかあさん)のお迎え算段もしていた。それから半年経ってようやくみうを迎え、今年になってからは次々と増えて今は7匹です。
その7匹を見ていると、前の3匹組とは何かが違う。一見くつろいでいるようには見えても、何とも言えない緊張感が張り詰めている。 「ノラだったんだから仕方ないよ」と妻。しかしその緊張感は全員に等しくあるわけではなく、その中心にいるのがニャーなのです。そう、ニャーはみうを迎えたときからピリピリした猫に変わってしまった。ちび太も相変わらず誰彼なく追い回すけど、ニャーのように相手を排除しようとするほどの執拗さはない。
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やや、何だか雲行きがこっちに向いてきたような・・
店時代のニャーは利発な平和主義者と評判も上々だった。人との接し方を体得しているように見えたし、よそ猫が近づけば先に察知して避難した。ポンに追い払われたときもうまく避け続けたし、チビ亡き後にシャッポとの関係が微妙に変化したときもうまくかわした。しかしシャッポの攻撃が執拗さを増して逃げ切れなくなって、やむを得ずの応戦そして流血の惨事を経て、ニャーをわが家に非難させたのでした。
ひと月半ほど前に書いた「愛猫との距離」の中で、自分に対するニャーの微妙な変化を危惧しました。「怒るに怒れん・・」では怒ることの効果弊害を考察した。思えばみうを迎えた頃、みうを睨みつけては襲いかかるニャーを随分本気で怒った。あの頃からニャーの中にはわだかまりが溜まっていったのだろう。表には出さなくても、猫にも複雑な心境ってのがあるのに違いない。
しかし今ではニャーだけの問題じゃない。自分が怒れば全員が怖がり、不安になる。ニャーはどんなときに怒られるのかわかっている。でも他の連中にとっては、いつ怖くなるのかわからない保護者が問題なのだ。今ではニャーの排他的行動の矛先はリンとハリーに限られる。それはこの2匹がニャーに睨まれても逃げないからだ。一方でむしろ全員が恐れているのは、保護者の突然の豹変だった。
さて、また悪い癖が出てとりとめのないことをぐだぐだ長々と書いてしまった。要はそんなこんなで、これからは怒らないやさしい甘々ちゃん保護者に変身することにしたのです。まあコラッくらいの注意はしますが。 名付けて、「ニャーの信頼取り戻し作戦・甘々編」 さてさて、ニャーはどうなるか。他の猫たちはどうなるか。はたまた保護者は続けることができるのか・・・。
?ヵ月後が楽しみです。
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ニャーにじゃれ付かれて困り顔のちび太
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