日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

「だれも知らないレオ・レオーニ展」に行ってきました(2020.10/27)@板橋区立美術館(2020.10.24~2021.1.11)

2020年10月29日 | イタリアの美術館・博物館
「だれも知らないレオ・レオーニ展」に行ってきました(2020.10/27)@板橋区立美術館(2020.10.24~2021.1.11)


いつも暑い夏に原画展に行っていた板橋区立美術館に 涼しい秋にレオ・レオ―ニ展を見に行ってきました♪
事前予約の上で行きましたが バスも少ないことだし あまり予約時間は厳格にしなくとも人数が少なければ入れるみたいです
レオ・レオ―ニ(1910~1999)の一生がわかる展示会で 年代順・テーマ別に全館展示されていました

レオは1910年 アムステルダムにて ダイヤモンドカッター工の父ルイス・レオニと母エリザベト(後にオペラ歌手として活躍)との間に生まれました
家はユダヤ人の裕福な家庭で コレクターの叔父の影響で ピカソやパウル・クレーなどの芸術に囲まれて育ちました
14才でジェノヴァに移住し チューリッヒ大学にて経済学を学びました 

1. 旅のはじまり

黒いテーブル」シリーズ 晩年のレオが子供の頃を回想して描かれた絵から始まりました
絵本原画「フレデリック」 人はパンのみで生きられない というメッセージです

2. ミラノ時代


1931年 21歳のレオは当時18歳のノーラ・マッフィーと結婚します 
同時期にイタリア共産党の党員マリネッティと出会い「飛行画家」として認められ 未来派グループに一時期参加しますが 1932年の展覧会以降は ファシズムに傾倒した未来派とは距離を置くことになります 

3.エイヤー時代


1939年 29才の時 イタリアのファシスト政権誕生と人種差別法公布によりユダヤ系オランダ人のレオは アメリカ合衆国に亡命します
フィラデルフィアの広告代理店NWエイヤーに就職します ここはヨーロッパの前衛芸術を使った数少ない会社のひとつでした

ニューヨークで複数の新聞社で美術担当編集者 グラフィックデザイナーとして働きながら 美術学校や大学で講義を行い 各都市での巡回展も開きました
1945年アメリカ国籍を取得し 1953年にはアスペン国際デザイン会議の初代会長を勤めます
8年間勤め 第二次大戦終結後1年の休暇を取ってイタリアに戻り 油彩やモザイクを制作したのち アメリカに戻り退社を決意したとのこと


4. ニューヨーク時代

雑誌フォーチュンのアートディレクター オリベッティ社  MoMA等で働き 1954年 MoMAの広告デザイン展で数々の賞を受賞します


5.政治風刺

妻の父がイタリア共産党創立メンバーでありその影響を受けたため アメリカ政府からマークされていました 

今回のこの展覧会では1940~50年代の未発表作品が発見されたとのこと そのひとつ「空気の抜けたヒトラー」(1945年頃)という作品は ヒトラーを痛烈に批判した作品でした 

6. 油彩画
ここに展示されている「空気」シリーズは 早逝した二男パオロの魂の形とのこと

7. 想像肖像とプロフィール
実在の人物と架空の人物の肖像画です

8.絵本 ← このコーナーが一番充実していてじっくり鑑賞しました💛

1959年 孫のために作った絵本『あおくんときいろちゃん』で絵本作家としてデビューを果たしました 
その時のエピソード: 外で泣き止まない孫に たまたまそこにあった雑誌の青と黄色の紙をやぶいてお話を即興で語ったのが 誕生のきっかけなのだそうです💛
この作品には人種差別へのメッセージが込められていますね 
あおくんときいろちゃんが やがては重なると みどりいろになるのですね...

1962年 52才で再びイタリアに戻ります 20年間務めたアートディレクターの仕事に疑問を持ち 人道的メッセージを伝える絵本製作と 絵画を制作するためにイタリアに戻ったとのこと 

そしてイタリアで 自身の本のイラストレーターや彫刻の活動を始め 以後およそ40冊の絵本を発表します レオは物語絵本を29冊描き そのうちの12冊はねずみが主人公でした

文字とイラストの「明確な一貫性」が大切であり 絵本を通して平和や友情 自分らしくあることの大切さ 自ら考えて行動する重要性を こどもたちに届け続けていたのですね

絵本原画「スイミー」 これは原画は実は行方不明なのですね 5点現存するのはあとから描いたものです モノタイプという すりガラスに1枚ずつ絵の具を乗せる版画のスタイルが取られました 1枚ずつすべて違っています

絵本原画「ペツェッティーノ」(小さな小片という意味) 自分とは何かをテーマにしたモザイク表現です 自分のパーツが色々変わっても どこからが自分といえるのだろうか?

絵本原画「せかいいち おおきな うち」 見栄を張って大きなものを背負うと身動きが取れなくなる というメッセージ カタツムリの親子が主人公です 
移動を運命づけられたユダヤ系オランダ人であるレオの人生哲学ですね 

絵本原画「ぼくのだ!わたしのよ!」けんかばかりの3匹のカエルが仲直り いがみ合う無意味さを伝えています

絵本原画「6わの からす」 自然のものはみんなのもの 最後は話し合いでけんかを解決した6わのからす 

9. 平行植物(彫刻)


トスカーナの広大な自然にめぐまれた自宅で生まれた 植物をモチーフにしたブロンズ 彫刻群でかなり大きいです 板橋区立美術館にも この後寄贈されるそうです 
1970年以来 想像上の植物の構想を練り始め 1976年に「平行植物(Parallel Botany)」の題で学術書の体裁で出版されました

一階のビデオコーナーでは 自宅の庭に様々なブロンズのオブジェがあり 晩年のレオがひとつひとつについて語るシーンが収録されていました 

1999年 イタリアのトスカーナ州で89才で死去
ラッダ・イン・キャンティでは名誉市民となり 街の各所に彫刻作品が寄贈・展示されていたそうです
アトリエはボルニャーノの自然豊かなところにありました

10.鳥シリーズ

11. レオの絵本作り

12. レオのアニメ

フレデリック」 アーティストの使命とは? 英語版にはなかった イタリア語版のラストの言葉: 「僕は拍手はしない 他の人にもしない それぞれが自分の仕事しているだけだ」 

スイミーの絵本を 晩年のレオが子供たちに話してきかせるシーンが印象的でした 「この黒い魚は 絵を描く人に似ていると思わない?」というのですね また 何を描いているかを子供に当てさせる問いかけのシーンも興味深かったです

ピアノを弾く晩年のレオ 母がオペラ歌手だったから 音楽と絵の相似性に気づいた ピアノは幼い頃にやめてしまったけれど 今は楽しく弾いているとの言葉に 芸術は分野を超えて共通するものがあると感じました 

多様性」が大切で ものには多くの意味がある ブロンズの彫刻は芸術作品でありながら 時にはテーブル等の生活に溶け込んだものにもなる 知恵の庭は人間社会のようだ 

ものは人が作るからこそ美しい」 地下世界の根っこのオブジェを見せて 地下世界はパワフルだと語るレオ 地上の草も同時に見せなければならないとのこと 
閉じた口にハエは入らない」 含蓄の深い言葉ですね


作家も長く生きると作風もテーマも変わりますね レオの場合は 晩年は植物をモチーフにした「平行植物」というブロンズ彫刻群に行きつきますが 絵本から入った私にはあまり惹かれるものはありませんでした 
若い頃は広告イラストレーターとして活躍するも ファシズムの台頭等に疑問を持ち 政治批判を封鎖されたことから 絵本を作り始めて子供たちにメッセージを送り続けたレオの一生が俯瞰できる 貴重な展覧会で 行ってよかったと思います 



展覧会は こちら 2021.1.11まで開催されます

西新宿の損保ジャパン美術館の「みんなのレオ・レオーニ展」に行った時のリポート「みんなのレオ・レオーニ(Leo Lionni for everyone ー Reading Leo Lionni, again ー)」展に行ってきました(2019.7.24)@損保ジャパン日本興亜美術館(~9.29)」は こちら



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イタリア映画祭2020はリアル上映(2020.11.13,14)とオンライン配信(11.20~12.20)のハイブリッド形式で開催されます

2020年10月27日 | イタリア映画・映画
イタリア映画祭2020はリアル上映(2020.11.13,14)とオンライン配信(11.20~12.20)のハイブリッド形式で開催されます


「日本におけるイタリア年」をきっかけに2001年の春に始まり 毎年1万人を超える観客が訪れる恒例イベントとなったイタリア映画祭は 今年で20回目の節目を迎えました。
例年通りゴールデンウィークに開催を予定していたものの 新型コロナウイルスの影響で延期となっていましたが 今回 リアル上映&オンライン配信のハイブリット形式で開催することになりました

公式ホームページは こちら

今年はオンラインをメインに リアルとのハイブリッド形式で開催します。
リアル上映は入場無料、事前応募制で、各回100名様をご招待します。
オンライン配信の視聴方法などは、随時発表していきますので、今しばらくお待ちください。

リアル上映
会場:イタリア文化会館アニェッリホール

スケジュール:
11月13日(金) 14:00(開場 13:30) 「幸運の女神」(フェルザン・オズぺテク監督, La dea fortuna, 2019, 114分)
18:00(開場 17:30)「オール・マイ・クレイジー・ラブ」(ガブリエーレ・サルヴァトーレス監督, Tutto il mio folle amore, 2019, 97分)

11月14日(土)13:00 (開場 12:30)「きっと大丈夫」(フランチェスコ・ブルーニ監督, Cosa sarà, 2020, 101分)
17:00(開場 16:30)「幸運の女神」(フェルザン・オズぺテク監督, La dea fortuna, 2019, 114分)

料金:無料
イタリア映画祭公式HPから申し込みで抽選により当選。お申し込みは11月4日(水)まで。
*新型コロナウイルス感染症対策として、入場者数を制限して開催します。

<オンライン配信>
会期:11月20日(金)~12月20日(日)

*詳細は11月上旬(予定)に発表します。

作品紹介は こちら

*ようやく開催の運びとなり本当に感謝しております 倍率高そうですね~

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2020春のイタリア留学&旅行セミナー「小さな町の楽しみ方 ~アルベルゴ・ディフーゾとマッセリア~」に行ってきました(2020年3月)@(公財)日伊協会

2020年10月24日 | イタリア旅行・世界遺産
2020春のイタリア留学&旅行セミナー「小さな町の楽しみ方 ~アルベルゴ・ディフーゾとマッセリア~」に行ってきました(2020年3月)@(公財)日伊協会


アルベルゴ・ディフーゾの本を読んだりイベントに参加してきたので 今回も行ってきました イタリア留学&旅行セミナー!!

一言でいえば 「町(村)全体がホテル」 そして過疎化の町(村)起こし 地域活性化 持続可能な村の再生 というコンセプトから生まれたのですね

観光化された大都市ではなく 小さな町や村で そこの住民たちとともに その村ならではの丁寧で親切なサービスを受けながら 「暮らすように旅をする」という感じでしょうか

住民のように生活できて ホテルのような独立した宿泊空間がある 
B&Bと違うのはレセプションがあることですね

様々な条件をクリアしたところが認定されますが 新たに建物を建てるのではなく 既存の建物を使うこと 村全体がツーリストを迎える態勢があること 集落が魅力的であること等のハードルをクリアしなくてはなりません

また 200メートル圏内に レセプションやレストラン 宿泊施設などがあるのですね 買い物や食事等の最低限の生活サービスがあるそうです

アルベルゴ・ディフーゾ(分散型ホテル)の旅を日本に紹介してくださっているTutta Italia発行のパンフレットには イタリアに100程ある中から 特に意欲あるところとして選ばれたアルベルゴ・ディフーゾが載っています

TuttaItaliaのアルベルゴ・ディフーゾは こちら

アルベルゴ・ディフーゾ協会は こちら

     *    *    *

次に 担当の鎌田様より 実際に宿泊した体験も交えてお話いただきました

トスカーナの 「 ロカンダ・セニオ/ Locanda Senio」 (TOSCANA) です 

フィレンツェから車で2時間くらいで レトロなかつての保養地パラッツオーロ・スル・セーニオ (Palazzuolo Sul Senio)村にあり 最寄り駅から車で出迎えてくださるそうです (すべてのアルベルゴ・ディフーゾがそうではないので要チェックです)  
事前にオーナーさんにお願いして列車のお時間をお伝えする必要あり

村の人口は1,100人で 電車は一日に3~4本とのこと

ここのオーナーのエルコレ氏は アルベルゴ・ディフーゾ協会副会長さんです
都会から帰ってきた村人が開いたピッツェリアの話...「小さな村の物語イタリア」の世界だなぁ...
  
Tutta Italiaのアルベルゴ・ディフーゾのパンフレットの Nr. 7 ですね

アルベルゴ・ディフーゾ協会HPの ここの紹介ページは こちら

     *    *    *

次に 日本の「アルベルゴ・ディフーゾ」として 岡山県の「矢掛屋をご紹介いただきました
アルベルゴ・ディフーゾ協会会長のジャンカルロ・ダッラーラ氏も 2018年にここを視察に訪れたのですって

ちなみに私はこの方の講演を イタリア文化会館で聞いたことがあります 
日本で最も美しい村連合フォーラム2017でアルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Difuso)について聞きました(2017.11.15)@イタリア文化会館」は こちら

さてこの岡山県矢掛町は 2018年に世界初の「アルベルゴ・ディフーゾ・タウン」に認定されたそうです 
これは ここの宿泊施設「矢掛屋」が 日本で一番最初に「アルベルゴ・ディフーゾ」に認定されたことに併せて認定されたものです 

小さな町で 長屋 井戸 風情ある街並み 本陣跡 旧矢掛本陣石井家住宅等...

詳しくは こちら

アルベルゴ・ディフーゾ協会のHPの ここの紹介ページは こちら  ← 一番下をクリックすると 矢掛村のイタリア語版パンフレットがダウンロードできます♪

そぞろ歩いてみたくなりました...( *´艸`)

    *    *    *

次は南イタリアのマッセリアに話は移ります

プーリア州にある 農場の建物を改装した宿泊施設とのことで 農園がひとつのコミュニティになっており  アグリツーリスモとして運営されることも多いそうです

それらの「マッセリア」の中から 地元の食材を使った料理を味わえるレストランやスパも備えた ラグジュアリーなホテル 「トーレ・マイッツァ(Torre Maizza)」をご紹介いただきました

16世紀の農園領主の館をホテルにしたとのこと プライベートビーチ等もあるそうです 
2年前に開かれ 7~8月のハイシーズンは数泊以上必須とのこと まさに「暮らすように旅をする」ですね~

   *    *    *

アルベルゴ・ディフーゾでは トゥルッリやマテーラのサッシ等にも泊まれるのですね
やはり足は車が大切な手段で (中には徒歩も) 英語があまり通じないこともあります 

お湯が出ないとか色々ハプニングもつきものですが それらを総じて 「暮らすように旅を楽しむ」というわけですね

イタリアの小さな村へ アルベルゴ・ディフーゾのおもてなし」&「日伊協会会報CRONACA 161号 アルベルゴ・ディフーゾ特集」を読みました(2019.4.24)
」は こちら

イタリア留学&旅行セミナー開催のお知らせは こちら

2020年11月8日(日)14:00~15:30 に 「アルベルゴ・ディフーゾの魅力「初級編」サルデーニャ島Bisosのバーチャルツアー」がオンラインで開催されます@Tutta Italia

詳しくは こちら

* 貴重なイベントを開催してくださいました(公財)日伊協会様に心よりお礼申し上げます


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世界イタリア料理週間の「チーズのセミナー」でチーズの歴史のお話を聞いた思い出(2017.11.21)@イタリア文化会館

2020年10月21日 | イタリア料理・イタリアン食材
世界イタリア料理週間の「チーズのセミナー」でチーズの歴史のお話を聞いた思い出(2017.11.21)@イタリア文化会館


今年はイタリア料理週間は開催されませんが 代わりに2017年のリポートです

2018年の第3回イタリア料理週間では フレッシュチーズと 熟成チーズに分かれて開催されたチーズのセミナー 2017年の第2回の時はひとつにまとめられておりました ですのでそちらに参加した時のなつかしいリポートです:

世界イタリア料理週間」のチーズのテイスティングセミナーでは イタリアのチーズの歴史についてお話いただいたあとで 5種類のチーズのテイスティングをしました♡ 私は午後のクラフトビールのセミナーにも申し込んでいたので ランチをはさんで連続参加

何年も通い詰めたイタリア文化会館 まだ初級の人たちの会話が聞いていてなつかしい... 通り過ぎた青春って感じ(#^.^#) セミナーの超速のイタリア語をわりと聞き取れるようになり 長き道のりを思いつつ存分に味わってきました:

チーズの歴史について

チーズは太古から プロテインを含む完璧な栄養源として し好品というよりは重要な食品でした 
5000年以上前のメソポタミア イスラム アラブ諸国では重要な食料として 遊牧民族(食品保存ができないため)から 土地に定着し農耕民族に移る過程において チーズは保存食品として存在し 人類の文明を変えたのです

遊牧民族は ラクダ 馬 ヤギ 羊等の胃を その動物の乳を運ぶ袋として利用していた 幸福な偶然によって 人々はその動物の胃の中に お乳を凝固させる凝乳剤(酵素)があることを発見し 胃の中で乳は凝固したのです 
また初乳(子どもを産んだばかりの母のお乳)は完璧な栄養が含まれている(人間も同じですね)
高い温度 乳酸菌が繁殖する好条件 移動による動き等の好条件が重なり もともと傷みやすいお乳が 保存のきく何かに変化したのでした

カリアータ(凝乳, Cagliata) 
それは固まり始めた最初のお乳で「カード」のこと  そう チーズは民族定住化のための大切なキーポイントになったのです

お乳(latte) カリオ(凝乳剤) 塩(sale)
がその3要素 イタリアには550種類の フランスは300 スペインには250種類のチーズがある 

子どもの頃学校で習ったこと 古代ローマ帝国がなぜこんなにも広範囲にその領域を広げたのか? それは「塩のあるところを求めた結果だ」と言われたと

古代ローマには チーズ サラミ ハムもあった ワインもあった(今とは違うもの)
何千年も前に リグリア海からの温かい風が アペニン山脈そしてポー平野(pianura padana)に吹き チーズが熟成し乾かすのにちょうどよかった

熟成期間は9か月でも我々にとっては短い 何年も熟成されるものもあるのだから
ヤギ(capra) 羊(pecora) 南では水牛(buffara) ミックスチーズもある
雌牛(mucca)のチーズは古代ローマにはなかった この頃は羊のチーズ  そう ペコリーノ・ロマーノ(pecorino romano)だ
muccaは ローマを滅ぼしたバルバリ(barbari/蛮族)がもたらしたのだった

ペコリーノ・ロマーノは 戦いに行く兵士たちに 塩とともに供された あるいは報奨品として与えられたという 戦いのエネルギーの源だったのだ

ローマ帝国崩壊後たくさんの民族が入り それらの文化が持ち込まれた チーズ文化もしかり 西ゴート族がナポリに水牛(bufala)を持ち込んだことから モッツァレラチーズ(mozzarella)が生まれた なぜならこの地帯はマラリアがはびこり 湿地帯で(paludoso) 牛ではなくより強い水牛こそが適していたからだという...

それが イタリアのチーズの長い歴史なのです 

  *       *       *

次は チーズのテイスティングに入ります



1. ピエモンテのトーマ・ピエモンティ というミックスチーズ ピエモンテは最もチーズの種類が多い地域

2. 白カビ(muffa)のカマンベールチーズ crosta(硬い外皮)もいただく 繊細な味わい(fine)

3. カチェータ・ディ・ブファラ(Cacieta di bufala) 水牛のモッツァレラ ケルト人が持ち込んだチーズ クロスタ(外皮)は食べない(塩からい) サンジョヴェーゼ等が合う(abbinamento)

4. パルミジャーノ・レッジャーノ(parmigiano reggiano) 2年熟成もの ローストしたクルミのような香り ランブルスコの赤が合う

5. ゴルゴンゾーラ(gorgonzola) 青カビチーズ ラテン語の青緑の色 グラウドムという村で発見された ヴィンサント等と合う 

これらを 1. シチリアオレンジのマーマレード(紙皿の中心の3つのうちの上) 2. ひまわりのはちみつ(右) 3. ブドウのモスタルダ(辛子を加えたジャム)などとをつけていただく

  

チーズは鼻の前で割って香りをかぎ 半分はそのまま 半分は上のどれかをつけていただき 一つ味わったら必ず水を口にふくめて口の中を中立させる 等のテイスティングマナーを スローフード大学(ポッレンツォ食科学大学)の授業そのままに 教えていただきました

こんなに美味しいイタリアチーズをいただき 貴重なお話も聞けて 参加してよかったです♡ 素晴らしいセミナーを開催してくださいましたイタリア文化会館様に心よりお礼申し上げます 

* 写真はチーズのテイスティングの紙皿 上が1 時計回りに5まで 中心の3つは チーズをつけていただいたもの

開催のお知らせは こちら


 
またいつの日かイタリアのイベントが再開できることを祈りつつ...

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シンポジウム「エノガストロノミアとテリトーリオ - 日本とイタリアの農業文化の発展 - 」をzoomで聞きました(2020.10.10)@法政大学イノベーション・マネジメント研究センター

2020年10月17日 | イタリア料理・イタリアン食材
シンポジウム「エノガストロノミアとテリトーリオ - 日本とイタリアの農業文化の発展 - 」をzoomで聞きました(2020.10.10)@法政大学イノベーション・マネジメント研究センター


毎年11月になるとイタリア文化会館で「イタリア料理週間」が開催され 食文化のセミナーや試食・本の紹介セミナーや映画等があり 毎日のように足を運んでいました...懐かしい限りです ずっと行っていませんイタリア文化会館(涙)
なので日伊協会のHPで見つけたこのオンラインシンポジウムに参加しました:

エノガストロノミアとテリトーリオ - 日本とイタリアの農業文化の発展 -


エノガストロノミアとは ワインを中心とした美食術 テリトーリオとは 都市と農村の繋がりを包括的に捉え直す概念のことです
イタリアの農業・食品産業のありようは 生産活動以外にも 環境保護や食糧問題などの多機能性を持つことから 日本社会の在り方を考える上でより重要になってきています

まず最初に 「山梨のワイン産業はどう発展してきたか」というテーマで 「美味しんぼ」(第80巻)にも登場された山梨の観光推進機構理事長の仲田氏より 山梨ワインの歴史を紹介していただきました

日本で一番ワイナリーが多いのは山梨(81)  長野(35) 北海道(35)…と続き合計303カ所 
山梨の文化的景観は 世界農業遺産に登録申請中とのこと 
2000年に 和食と相性が合うワインとして認められました 
今もワインリゾート構想等様々な試みが続けられています
実ははこのあと うちにあった美味しんぼ第80巻を読み返してしまいました( *´艸`)

    *    *    *

次に 司会の木村先生から 「イタリア農業の底力: アミアータのテリトーリオ」とのテーマでお話いただきました

50年代は食糧自給もままならず(62%) 農業人口の流出に悩んでいたイタリアですが 1980年代からは 農業以外の活動が農村で活発化してゆきました

トスカーナ州グロッセート県のフランチジェーナ街道とアミアータ山のテリトーリオ(都市と農村を結ぶ社会・文化・経済的なまとまり)の試みについて紹介していただきました

19世紀末には水銀鉱山が発達し 1981年に閉山となってからは鉱山産業考古学公園や博物館となり 一方で山栗が採れます
栗は「貧しい人のパン」とも呼ばれ 栗の粉は小麦粉に代わる大切なものでした 
鉱山は消えましたが栗は残り トスカーナの栗栽培強化プロジェクトにより 栗の粉のカスタニャッチョ等の特産品や栗のお祭り等 様々な試みがなされてゆきました
生きるための農業から 高付加価値産品を生み出す農業へと変わりました
都市と農村のネットワークが生むイノベーションが次々と生み出されてゆき 既存資源を用いたテリトーリオ価値の回復が進められてゆきました


セッジャーノ(sessiano)のオリーブオイルの試みも紹介していただきました 
世界遺産となったオルチャ渓谷に後れを取りましたが ここではセッジャーノのオリーブオイルのブランド化等が進められました
Amiata Oleosという 統合型農業と食品のサプライチェーンプロジェクトです
知恵の根(radici intelligenti)という異業種コラボレーションの中で オリーブの木の根っこを貯水槽(cisterna)に吊るす試みが興味深かったです
また 分散型博物館(museo difuso)も 村全体が博物館という感じですね

アミアータ山のオリーブの黄金の盆地(Monte Amiata Oliveti Conca Oro)という景勝地では 圧搾の様子を見せながらコース料理をふるまったりなど…

次の事例です 生物多様性については 絶滅危惧種の乳でチーズを生産する「希少種のチーズ(Formaggi di Razza)
そして マレンマ牛 セルヴァの玉ねぎ アミアータの羊やロバなどをご紹介頂きました
体験型農村ツーリズムもあります 

トランスマンツァ(移牧/無形文化遺産)も非効率な牧畜として行われていますが イタリアの条件不利地域の酪農は CAP(共通農業政策)の補助金なくしては成り立たないそうです

イタリアでは テリトーリオの関連主体が協力して テリトーリオに埋め込まれた経済活動を実践し 一定の効果を上げています 

     *    *    *


次に 陣内先生による「文化的景観を活かしたテリトーリオの再生」のお話をいただきました

イタリアと日本は似ているというお話から centro storicoから territorio storicoへ とのお話
イタリアでは1980年代に それまでは近代化の時代に遅れていたものとされていた田園の再評価がなされ 最大のアドバンテージとなります

1985年に景観法が 1985年にアグリツーリズム法が そして1986年にスローフード運動が生まれました 2004年にオルチャ渓谷が世界遺産となり 2000年代は南イタリアが元気になります 
Centro storicoの保存から再生へとつながってゆくのですね
ルーラルツーリズム スローフード 地産地消 キロメトロゼロ cucina povera エノガストロノミアのことなど…

それにしても オルチャ渓谷は昔 人口流出に悩み 産業廃棄物候補にもなったことがあったとはショック…
住民が反対し 逆に自然公園を提案して攻めたのだそうです それが世界遺産に!!

プーリア州のValle d’Itriaの田園風景 ロコロトンドのマッセリア(農場を改装した宿泊施設)  オストゥーニの分散型レストラン チステルニーノの路上レストラン…
観光もまだなかった頃から 典型的な袋小路を歴史的都市空間の魅力を引き出す素敵な演出でもって 洗練された旧市街へと変身させた写真の数々にうっとり...💛

中でも廃墟から蘇ったトゥルッリの集落を改装した宿泊施設は魅力的でしたね💕

地域の唯一無二の資源を生かし また食文化は農村と都市を結びつけるものだ との熱い言葉がとても印象的でした
 
    *    *    *

次のクロストークでは 長本先生のクチーナ・ポベラ(庶民料理)とクチーナ・リッカ(貴族料理/記録に残る)のお話 何度聞いても感動的です(^.^)
それぞれの食材の起源と時代 歴史と郷土にまつわるお話を頂きました イタリア人の自己肯定感はすごい とのポジティブなお話も忘れられません

陣内先生の 壊して作る開発ではなく修復型まちづくりの大切さを とのお話も心に残り 「小さなまちの底力」「イタリアの街角から スローシティを歩く」の著書を読んでみたくなり 早速読み始めました(^.^) 
合計3時間もあったのに 最後のクロストークは5名もいらして 時間が短く感じてしまいました

すばらしいオンラインシンポジウムを開催してくださいました 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター様に心よりお礼申し上げます

昨年まではイタリア文化会館に出向いて イタリア料理週間での様々なシンポジウムに参加したり試食したりしていましたが オンラインであってもこうして貴重なお話が聞けて 本当に嬉しいです



シンポジウムのお知らせは こちら


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ローマのティベリナ島の病院を取り上げた「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症(Syndrome K)」を見ました(2020.8.12放映)@NHKドキュランド

2020年10月13日 | イタリアの歴史

ローマのティベリナ島の病院を取り上げた「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症(Syndrome K)」を見ました(2020.8.12放映)@NHKドキュランド


K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症」(NHKドキュランド)を録画で見ました

イタリア語を学び始めた14年前 ある大学の講座でローマのティベリナ島について聞きましたが ここにはカトリック系のファーテベネフラテッリ (よい行いをせよ という意味)病院があって 今もまだやっていると聞きました(当時の語学力は乏しくて覚えていません)

それがこのコロナ禍にあって 第二次大戦中にイタリア人医師たちが謎の伝染病を創り上げ ユダヤ人たちをナチスから救ったという事実があらためて注目を浴び 映画にもなったそうです

イタリア人の 機転を利かせて苦境を乗り切るメンタリティー 不屈の反骨精神を感じました

       *       *       *

第二次世界大戦中 ローマのユダヤ人コミュニティも ナチスによるユダヤ人迫害の標的となっていました

ユダヤ人たちを救うため ローマのティベリナ島(テヴェレ川の中州)にあるカトリック系の「ファーテベネフラテッリ病院」((Ospedale San Giovanni Calibita Fatebenefratelli) )の医師とスタッフたちが 偽の感染症「シンドロームK(K症候群/Syndrome K)」を作り出し 数々のユダヤ人を救ったというドキュメンタリーです

1943年7月 ムッソリーニ政権が倒れたあと 新イタリア政府は連合国側と協力して 以前の同盟国であったナチスドイツに宣戦布告しましたが 北部とローマはイタリア社会共和国(サロ共和国)としてナチスの支配下にありました 

また当時の教皇ピウス12世は ナチスのユダヤ人迫害に対し明確な非難をしておらず 戦後も批判を受けてきました 

1943年10月16日 ローマのユダヤ人コミュニティ・ゲットーへのナチスによる手入れが始まり 数百人がアウシュヴィッツに送られました
1938年 イタリアでは人種法が認められましたが この一斉検挙でもってようやく命の危険を身近に感じた一握りのユダヤ人家族たちが 居住区であるユダヤ人地区からはわずか200メートルにあるティベリナ島にあるこの病院に助けを求めたのです

医師たちは彼らを患者として受け入れ 実在しない感染症「シンドロームK(K Syndrome)」を病名としてカルテに記して 特別病棟を作ってユダヤ人を保護したのです

この「シンドロームK」は 筋金入りの反ファシスト活動家のジョバンニ・ボッロメオ医師によって名づけられました

暗号名のKは ドイツ軍のイタリア戦線司令官アルベルト・ケッセルリンク ナチスローマ警察長ヘルベルト・カプラーの頭文字ですが 2人は後に戦犯として有罪となっています 
また結核(Koch Syndrome)その他の病名もKであることからKという文字が使われたそうです

1944年6月5日に連合国軍がローマを解放 ナチスによる迫害は終わりますが このファーテベネフラテッリ病院の使命と医師たちの機転は ナチスの恐怖に対する勇敢な行為として高く評価され 2019年にはドキュメンタリー映画『Syndrome K』が製作され 2020年1月に公開されました

番組よりピックアップ:

ファーテベネフラテッリ病院では 3人のイタリア人医師が命の危険をかえりみず ユダヤ人たちを保護していたのです 自分にどんな運命が待っていようとも…

「最後に勝つのは 勇気です」

米ホロコースト記念博物館 フレミング女子のインタビュー:  ユダヤ人がたよりにできる施設がたくさんあるローマのような街は珍しかったのです

教皇ピウス12世は 当時中立を保とうとしていました

ジョヴァンニ・ボロメオ(Giovanni Borromeo)内科医長は 反ファシストでした

アドリアーノ・オッシチーニ(Adriano Ossicini)医師は反ファシスト活動家であり ナチスに逮捕され拷問を受けました

ヴィットリオ・サチェルドーティ(Vittorio Sacerdote)医師は ユダヤ人だったためアンコーナの病院を解雇され 縁あってここで働くことになったのです

これは架空の病気であり 病院の一部を完全な隔離病棟にしました
きわめて高い感染力があり 重い神経疾患をひきおこすというものでした 
病院内に秘密の無線基地を作りレジスタンスと連絡を取り 印刷機も備えて秘密のビラも印刷していました
偽造カルテや書類は完璧で  50人ほどの患者たちはずっと入院はせず 数人ずつ退院させ 修道院に入れさせ 患者は入れ替わりました

1943年10月16日 一斉検挙が始まりナチスがユダヤ人をとらえにきました 病院にあった無線機を地下の暖房器具の中に隠しました  

ローマで暮らすユダヤ人は約13,000人 みな結束が固かったのです
修道院や近隣住民が手を差し伸べました 
この一斉検挙のあと ユダヤ人たちが入院させてほしいと頼みにきたのです

医師たちは 偶然できた30分の空白時間の間に にせ患者たちにドイツ兵の前で咳をするように言いました 感染症の恐怖に無敵のSSも怖れをなしました

ボッロメオ医師の息子のインタビュー:
10月末にナチスが病院にユダヤ人と反ファシストを探しにやってきた時 父は「シンドロームK」の病棟に一行を案内し いかに恐ろしい病気であるかを説明し 病棟内の捜索を許可したのですが 
大変感染力が強く神経障害をもたらすと聞くと ナチスは中に入ることを拒否し去って行ったそうです

1944年6月4日  北上する連合国軍によりローマはようやく解放され ナチスはローマから撤退しました
ローマのユダヤ人の8割が生き延びました イタリア人の善意のおかげでした

ボロメオ医師の息子にインタビュー: 「父は言った 私たちは人類というひとつの人種だ 
医師になったのは天職だと
怖くなかったかと尋ねると母は言った すごく怖かったけど あれが私たちの運命だったの と」

サチェルドーテ医師: 「勇気を持ち 誠実でいれば 人生は美しいものになる そう信じています」
オッシチーニ医師:  戦後も勤務し続け本を執筆し 2019年没 


「最後に勝つのは 勇気です」

ナチスのローマ占領後 4,500人以上のユダヤ人が 教会や修道院などバチカン所有の施設に身を隠しました
そのほとんどが ナチス占領下を生き延びたのです...

ユダヤ人を救った架空の感染症「シンドロームK」(2020.9.10)は こちら

映画「Syndrome K」(2020)は こちら (trailerが見られます/英語)

* 写真は ローマのティベリナ島 うしろの茶色の建物がファーテベネフラテッリ病院です


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Giovanni先生の「サルデーニャ講座」に行ってきました(2020.3.7)@高円寺ピアッツアイタリア

2020年10月09日 | サルデーニャ・シチリア

Giovanni先生の「サルデーニャ講座」に行ってきました(2020.3.7)@高円寺ピアッツアイタリア


久々にお会いしましたGiovanni Pilliarvu先生!! サルデーニャ講座は盛況で 私はこのために前回のリポートを読み返して準備しました ^^) _旦~~

Giovanni先生は日本サルデーニャ協会会長でもいらして 今までにも様々な協会(通称: Isola)のサルデーニャイベントでもご一緒させていただきましたっけ...

Sardegna al centro del Mediterraneo  地中海の中心のサルデーニャ


サルデーニャはちょうど四国くらいの大きさで ざっと言えばコルシカ島の下です(笑) 人口は167万と少なく自然が豊か

国旗は クアトロ・モーリ (Quattro mori/4人のムーア人)」)の旗です 4つの顔は北アフリカ出身の祖先の顔を表しており 前は右向きではなく左向きで目隠しをしていたそうです

サルデーニャ語はラテン語から来ています サルデーニャ語の方言の地図を示しながら 北はコルシカ語(lingua corsa) 南はサルデーニャ語(lingua sarda)各種 そして北西のアルゲーロ(Alghero)はカタルーニャ語(Catalano)  南西の小島はリグーリア語(Ligure)...これはジェノヴァから流刑者が流れたためとのこと
 
「イタリア全土で公用語とされているのはイタリア語だが、サルデーニャではサルデーニャ語(Sardu)が広く使われている。サルデーニャ語はイタリア語の方言(言語変種)ではなく、ラテン語を起源とするロマンス語に属する言語である」(Wikipedia)

テレビの普及により全サルデーニャ人がイタリア語を話せるようになったとのこと
若い世代の先生ご自身は サルデーニャ語は話せないが 聞いてわかるそうです
  
サルデーニャ語にはイタリア語にはない X (ジ) Su Nuraxi (ス ヌラージ)という文字がありこれはフェニキア語から来ています
THARROS のH もフェニキア語からですって 

        *       *       *

まずはサルデーニャの歴史から:

 
    ↑
  いただいた資料 年表 言語分布地図 行政区地図

Popolazioni nuraghiche 1500 a.C.~  ヌラーゲ人 紀元前1500年~

サルデーニャ人の起源はさまざまありますが ヌラーゲ人は紀元前1500年頃からいて 紀元前238年に ポエニ戦争終結のあと ヌラーゲ文明は途絶えたそうです

「新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。」(Wikipedia)

そのヌラーゲ時代のDomus de janas について説明してくださいました 40以上の墓があり ドアは異世界に通じるとされていました 
女は月と水と そして男は太陽 闘牛とつながっていたそうです 
ここでは水の道があり 最古のワイン作りの痕跡がヌラーゲで見つかっているそうです


Sardegna pre-nuraghica  サルデーニャ プレ・ヌラーゲ  


最初のそして重要なヌラーゲは Nuraghe Santa Antine  これは  sa domo de su re (イタリア語で「王の家」 "la casa del re") とも呼ばれていました

ヌラーゲは砦(fortezza)であった時代もあり  避難所(rifugio)として敵が来れば村人たちが中に住めたし 宗教施設として使われた時代もありました 井戸があり 女神に捧げられたもので 小さな入口をくぐり(神へのリスペクト)  中には死後の世界で使うものが置かれています

Santuario nuragico di Santa Cristina は 三角形の入り口をしたヌラーゲで聖なる井戸(pozzo sacro)でした 女神(la dea Madre)に捧げられ 春分・秋分の日に上の穴から光が入ります 水が今もあります

そして サルデーニャ唯一の世界遺産である スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ(Su Nuraxi di Balumini) 
詳しくは こちら

石の組み方も説明して頂きました 少しずつずらして乗せると崩れない 入口が弱いので大きな石で支えるそうです 

tomba dei giganti についても説明してくださいました  これは巨人が建てたかと思われるような重く大きな石で あの世のドアがあり 死後の世界を大切にしています
海に向かって建てられたそうで これは敵を威嚇するためですね

モンテ・プラ―マの巨人 これは紀元前6~9世紀に建てられた Oristano県Cabrasにある巨人の遺跡で 1970年代に発掘され カリアリの国立考古学博物館(il Museo archeologico nazionale di Cagliari)に展示されていますが 2~2,5メートルと 当初思っていたよりも大きくなかったそうです (足が短い)

サルデーニャは考古学ファンにはたまらないですね!!

      *       *       *

歴史: 先史時代 → 石器文化と黒曜石(ossidiana)の時代 → ヌラーゲ文化の時代 → サルデーニャにおけるフェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人 → 中世 → サルデーニャ王国の誕生から現代 (Wikipedia)

「エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしいが ノーラ遺跡の石碑は フェニキア人がこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。 」(Wikipedia)
サルデーニャ民族の起源を調べていると サルデーニャの国の名前の起源が 「シャルダナ」というアジアから来た最古の海洋民族につながっているとは...ロマンがありますね💛

また フェニキア人(i fenici)についても語ってくださいました 
紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出し 地中海全域を舞台に活躍し カルタゴの街を作ったのですね 
サルデーニャはそのフェニキア人と その前はギリシャ人(i grechi)と貿易していました 

フェニキア人のあとに 紀元前500年ごろカルタゴ人(Punici、ポエニ)がサルデーニャ周辺の地中海の覇権を確立しました カルタゴの影響はサルデーニャのほぼ全域に及んでいます 

紀元前238年 ローマ人がサルデーニャの島を獲得しました 
ローマはカルタゴとのポエニ戦争に勝利し 戦後にカルタゴの傭兵が反乱を起こしたため ローマはサルデーニャを占領しました その時点で既にサルデーニャには社会基盤と少なくとも平野部では)都市化された文化があったのですね

そしてサルデーニャはシチリアとともに エジプト征服までのあいだローマの穀倉地帯(granai di Roma)のひとつでありつづけたのです (エジプトは肥沃な土地があった)

「フェニキア・カルタゴ文化は ローマ人の支配下にあっても 紀元後数世紀まで根強く残lり Tharros(ターロス)、Nora(ノーラ)、Bithia(ビティア)、Antas(アンタス)、Monte Sirai(モンテ・シライ)は 建築と都市計画の重要な考古学遺跡となっている」 (Wikipedia)

ざっと年表にすると:

Fenici  フェニキア人  (700-200 a.C.)
Romani  ローマ人   (238-476)
Vandali ヴァンダル人 (476-533)
Bizantini  ビザンチン(東ローマ帝国)人 (533-827)
Giudicati (900-1323) 4つの領国 giudici 領主 「審判による統治」を意味するジュディカーティ(Giudicati)という制度 

giudicatiとは 自分たちを守るために勝手に作った国だ (普通はimperatore(皇帝)や神から権力をもらって国を作るが)とのこと

アラブ人に対抗するために 海洋共和国のピサとジェノヴァに守ってもらったのは 彼らも次はやられるのでということらしい
アラブ人(i arabi)だけはサルデーニャに入りませんでした スペインを通して来ただけとのこと

「ローマ帝国の滅亡後、サルデーニャは何度と征服の対象とされている
456年北アフリカのヴァンダル人に占領され  711年からはサラセン人による沿岸部の都市への攻撃を受け 1063年から 東ローマ帝国の政治行政組織を踏襲する形で 審判による統治を意味するジュディカーティ(Giudicati)という制度が形成された
同じ時代、アラゴン=カタルーニャ王国(Catalani Aragonesi )の影響が大きくなり、これはアラゴンによるサルデーニャ占領まで続いた。当時のスペインの影響の強さは、今でもアルゲーロ周辺でカタルーニャ語の方言が使われていることからも伺える」(Wikipedia) 

スペイン人(Spagnoli)がいた頃(700年間)は一番暗い時代だった 長い中世だった とのこと
スペインはサルデーニャをとろうとして 発展をストップさせた 700年もの間...
ロマネスク教会は多いそうです 1300年~ 他の新しい建築はあまり入っていない

そして引き続きサルデーニャ王国(Regno di Sardegna)の話に入りました
「スペイン継承戦争でサルデーニャがスペインからオーストリアに渡った後、1720年にシチリア島との交換によりサヴォイア家が領有してからイタリア統一の1861年まで、サルデーニャはピエモンテとサルデーニャ王国を形成していた。本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。
1861年にサルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改めた。」(Wikipedia)

これでサルデーニャの歴史はおしまい! 一番たいへんなところです(*ノωノ)


  *       *       *

次は伝統 Tradizioni

 
      ↑
   サルデーニャのお祭りの地図

お祭り(le feste):


1月16、17日 
 S.Antonio Abate (聖アントニオ・アバーテ祭り) Dorgali /ドルガーリ:
16日の夜 聖アントニオ・アバーテに献じるローズマリーで作った松明がともされ 17日は見学者に手作りパンや蜂蜜ベースのお菓子が配られます 聖アントニオは火あぶりの刑で亡くなりました

2月のオリスターノ(Oristano)でのSa Sartiglia 騎馬祭り 
村ごとに伝統があり これは子孫繫栄を願って 2人の騎手がアクロバットで馬を駆り 吊り下げた星の穴を刀で刺すという祭りです 服も自分で着てはならない シャーマンのようですね

5月の最期から2番目の日曜日 La Cavalcata sarda (Sassari) パレードのような祭りで 1000年にサラセン人に打ち勝った歴史を記念してパレードや歌 舞踏でにぎわいます 

カーニバルの時期の Mammuthones (Mamoiada) これは黒い仮面 背中に鐘を下げて鳴らしながら 自然を起こすダンスを踊り行列します けっこう不気味です...

ちなみに前に作った「サルデーニャのお祭りリスト(Il Calendario delle feste in Sardegna)」は こちら

   *       *       *

音楽 musica:

Canto a tenore ヌラーゲの時代から歌われており 1人がメロディー 3人がベース (低音は牛 中音は羊 高音は風) ユネスコ無形文化遺産ですね

ラウネッダス(launeddas) 頬の中で吸って吐いてを同時に行うという高度な技術 fiato continuo 目の前で聞いたことがあるのですがすごいです!
バグパイプを自分の口でやるという感じかも...

演奏は こちら (音が出ます)

       *       *       *

 
     ↑
   サルデーニャの工芸品の地図

Artigianato 工芸品


絨毯 金細工 家具 珊瑚 ナイフ 仮面等 村ごとに違います
儀式のパン(pane rituale)は 冠婚葬祭や祭り等でふるまわれるパン細工です

    *       *       *

Alimenti tipici  特産品



サルシッチャ・サルダ(Sarsiccia sarda)
 これはサラミのようですね プロシュートは最近です
ドルチェは 中でもセアダスカフェで食べられるテリッカスは ザザッパ(ぶどうの搾りかす)を使った 死者の日に作るお菓子とのこと

イタリアでからすみ(Bottarga)と言えば サルデーニャのからすみです シチリアがマグロですね

クスクスに似た粒状パスタ「フレグラ(fregra)」は今も手作りという これは南のみ
ニョッキ状の「マロレッドゥス」 (Malloreddus) もニョケッティ・サルディとして有名
堅く焼いた薄いパン「パーネ・カラザウ(Pane carasau)」は長期保存が可能な食材
パーネ・カラザウとトマトソース、ペコリーノ(羊乳のチーズ)とをラザニア状に重ねた「パーネ・フラッタウ」 (Pane frattau) があります

お酒(bevande alcoliche)/
ミルト酒は キンバイカで作られるリキュール
グラッパ ビネガー リモンチェッロ などなど...
ワインはマルバージァワインが有名 ヴェルメンティーノ・ガルーラ カノナウ... 

チーズ(formaggi)/

「サルデーニャ島では牧羊が盛んなことから、羊乳を用いたペコリーノが多く生産される、「ペコリーノ・ロマーノ」にはラツィオ州・トスカーナ州とともにサルデーニャ州も生産地域としての指定を受けている。「ペコリーノ・サルド(pecorino sardo)」(サルディニアのペコリーノ)はサルデーニャ産のペコリーノにのみ認められた名称である。

このほか、サルデーニャではカチョカヴァッロなども生産される。
サルデーニャ島のユニークなチーズとして、チーズバエの幼虫の働きでペコリーノの発酵をすすめたカース・マルツゥ(casu marzu)がある。」(Wikipedia)

    *       *       *

Turismo  観光

海が美しく シチリアは造りすぎたがサルデーニャの海は人工的ではない
8月は人がとにかく多い 海岸にはスペイン時代の砦もある

Sardegna Turismoは こちら

サルデーニャ出身の政治家ではアントニオ・グラムシエンリコ・ベルリンゲル ノーベル賞作家で グラツィア・デレッダ(Grazia Deledda)という女流作家がいます 女性では珍しいのですよね

山は1700メートルくらいで 動物もここにしかないものがいて 白いロバ 鷲 野生馬のジャーラ馬などがいるそうです

時間が過ぎてもずっと私たちの興味津々の質問に答えてくださいました Grazie💛 
帰りもGiovanni先生のサルデーニャ・ツアーの貴重なお話を伺いながら帰りました~ ^^) _旦~~


前回の講座のリポート『「ジョヴァンニ先生のまるごとサルデーニャ」のセミナーリポート ヌラーゲからフレグラまで盛りだくさん♪(2016.11.26)@高円寺piazzaItalia』は こちら

サルデーニャ講座のお知らせは こちら

* 魅力ある講座を開催してくださいましたピアッツアイタリア様に心よりお礼申し上げます

ちなみに 11月29日(日)13:00-15:00 zoomで 陣内秀信先生とGiovanni先生による サルデーニャのセミナー「サルデーニャ聖と俗の空間 風景から読む」が開催されます@朝日カルチャーセンター

詳しくは こちら




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「だれも知らないレオ・レオーニ展」開催のお知らせ(2020.10.24~2021.1.11)@板橋区立美術館

2020年10月06日 | イタリアの美術館・博物館
「だれも知らないレオ・レオーニ展」開催のお知らせ(2020.10.24~2021.1.11)@板橋区立美術館


コロナの影響で開催が遅れていた 板橋区立美術館の「だれも知らないレオ・レオーニ展」の会期が決定しました:

新会期:2020年10月24日(土曜日)~2021年1月11日(月曜日・祝日)
於 板橋区立美術館
オンラインでの日時予約(無料)が必要です。予約が定員に達していない場合は予約なしでも入場可能です。

小さな黒いさかなの『スイミー』、詩人のねずみ『フレデリック』。レオ・レオーニの絵本に登場する魅力的な主人公たちには、作者自身の姿が投影されています。レオーニは、ヨーロッパとアメリカ、グラフィックデザインとファインアートといった異なる世界を自由に行き来しながら、自分とは何者か模索し続けました。若いころから政治活動にかかわり、芸術家の社会的な役割を意識し、さまざまな葛藤の中で自分のやるべきことを見つけていきました。

今回の展覧会では人気の絵本原画はもちろんのこと、多数の油彩画や政治風刺イラスト、制作のためのスケッチなど、これまで公開されることのなかった作品も多数ご紹介します。「だれも知らない」レオーニの深く、魅力的な世界を知る貴重な機会です。

詳しくは こちら

西新宿の損保ジャパン美術館の「みんなのレオ・レオーニ展」に行った時のリポート「みんなのレオ・レオーニ(Leo Lionni for everyone ー Reading Leo Lionni, again ー)」展に行ってきました(2019.7.24)@損保ジャパン日本興亜美術館(~9.29)は こちら

*10/4の伊検が無事終わり 本当に嬉しいです!!


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イタリア 国会、議員数を3割超削減 国民投票で賛成多数(2020.9.22)

2020年10月03日 | イタリアのニュース
イタリア 国会、議員数を3割超削減 国民投票で賛成多数(2020.9.22)


イタリアで 国会議員の定数削減の是非を問う国民投票が9月20~21日に行われ 
賛成票が約7割となり 上下院あわせて945議席が 600議席に削減されます
「議会のスリム化」は 財政再建を進めるイタリアが抱えてきた重要課題の一つでした
投票率は51・1%

今後 下院は630議席から400議席に 上院は315議席から200議席に削減されます
現在の上下院の任期は2023年までで 次回の選挙から新たな定数が適用されます

議員定数の削減は コンテ政権で連立与党の一角となった市民政党「五つ星運動」が求めていました
今回の定数削減で 上下院合わせて年間約8200万ユーロ(約101億円)の経費削減になる一方
議員1人あたりの有権者数が増えて「地方の声が届きにくくなる」といった反対意見があります

ニュースは こちら


イタリアのニュースは こちら


Tre numeri per spiegare il referendum(国民投票) costituzionale (憲法の) sul taglio dei parlamentari

36,51%

Questa la percentuale di riduzione (縮小) dei componenti dei due rami del Parlamento (国会) italiano.
Nello specifico, gli eletti alla Camera dei Deputati (下院) passerebbero dagli attuali 630 a 400, mentre al Senato (上院) scenderebbero da 315 a 200, quota cui bisognerebbe comunque aggiungere i 5 senatori a vita.

同じ問題を抱えるドイツにも影響を与えそうです 日本は...?


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