風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『西門豹』 (第2章 - 1)

2011年04月02日 20時03分27秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 慌ただしい日々を送った。
 連日、長老たちや大店の商人や工場経営者といった地元の有力者が入れ換わり立ち換わり挨拶にやってくる。西門豹は、彼らとの面会に追われた。
 志を同じくする地元の協力者が欲しかったが、おもねり媚《こ》びて取り入ろうとする者ばかりで、これはと思える人物には出会えない。彼らは、西門豹を都へのパイプ役として利用したいだけだった。彼らとのやりとりはどうにも退屈でひまわりの種でもかじりながら適当にあしらいたかったが、そうもいかない。訪問客が差し出す近づきの印の品をやんわり断り、退屈も仕事のうちと割り切って折り目正しい県令を演じた。
 そんなある日、気になる客が西門豹を訪《おと》なった。
 書記官が大巫女《おおみこ》の訪問を告げた。
 巫女は、農村では知識階級であり、医師であり、神々と民衆を取り結び、民間の信仰を司るものとして農民の尊敬を集める存在だ。巫女の頭である大巫女は重要な客人だった。例の河伯祭についても、事情を聞き出さなくてはならない。
 西門豹は母屋の中央の間へ通すよう言いつけ、いつもより念入りに衣冠を整えた。
 部屋へ入ると、龍をあしらった銀細工の髪飾りをつけ、絹の白装束に身を包んだ若い娘がひれ伏していた。この白装束は一般人が葬式で身にまとう衣服であり、つまり死人=霊魂と向かい合う時に着る喪服が巫女の制服だった。
 西門豹は、前任者が遠い蜀《しょく》の国からわざわざ取り寄せたという最上質の漆塗りに精巧な螺鈿《らでん》をちりばめた座椅子へゆったり腰かけた。巨躯《きょく》と独特の顔つきのために、西門豹は常に峻厳《しゅんげん》な印象を与えがちだが、よくよく見てみれば、しっかりと結んだ口許は人を包みこむ大海のような穏やかさを帯びている。たおやかな陽光が窓から射しこむ。その光に螺鈿がきらめく。
「ようこそ参られた」
「恐縮にございます」
 女の声は凛と澄んでいた。岩間からこんこんと湧き出す甘露《かんろ》を想い起こさせる声だった。俗物の応接に明け暮れていた西門豹はどこか心を洗われた気持ちになり、さっぱりとした麻布で束ねた女のおろし髪を見つめた。
「面を上げられよ」
 大巫女は、恭《うやうや》しく顔を上げた。
 髪飾りの両端に吊るした翡翠《ひすい》がわずかに揺れている。深くしっとりとした色合いのよほどの上玉だった。それが頬にかかる丁寧に切りそろえられた漆黒の髪と、純白と形容したくなるほどのまぶしい肌とのあざやかなコントラストに涼しいアクセントを添えていた。大巫女は瞬きもせず、じっと西門豹を見つめる。
 ――神々の高級娼婦。
 西門豹の脳裏にそんな言葉が閃《ひらめ》いた。
 大きすぎるほどの黒目がちな瞳が、人のたどり着けない深い山奥にある沼のようで不思議な静けさをたたえている。それは、神々に仕える者だけが持つ揺るぎない確信と完璧な無垢からくるものなのかもしれない。だが、服の上からもそれとわかる豊満な肉体は、まるで秘密の花園でもぎ取った極上の白い果実のような、甘く強い色香を放っている。これ以上丸みを帯びれば崩れそうな、これ以上細くなってもなにかしら物足りないような、そんな危うい均衡《きんこう》を保つ腰から尻へかけての稜線《りょうせん》は、若葉に浮かぶ朝露の表面張力にも似たみずみずしい緊張感に溢れている。柔らかくみなぎった清楚な綾衣《あやごろも》の胸元に、桃色の頂上と小さな乳輪がかすかに透けていた。
 色気にあてられたのか、湿った生温かさに胸を締めつけるようだったが、
「名は?」
 と、西門豹はそんな感情の揺れをおくびにも出さず、短く尋ねた。
「彩《さい》と申します」
 彩は、西門豹の目から視線を逸《そ》らさずに返した。
「ずいぶん若いと見受けるが」
「十九です」
 彩は、今日から大巫女を務めることになったと言う。
 先代の大巫女は、半月前に七十過ぎの老齢で他界した。大往生だった。通常なら比較的年齢の高い経験豊かな練達者が後継者になるところだが、まれにみる高い霊力を買われた彩は先代の遺志もあってとくに選ばれた。もちろん、河伯を鎮《しず》めるのを期待されてのことだが、そこまで語ったところで彩はそんな自信ありませんとつぶやき、困ったように瞳を伏せた。
「正直だな」
 西門豹は淡々と言った。
「ないものをあるとは申せません」
「いいのだ。別に責めているわけではない。それで、どうするつもりだ」
「祈りよりほかにありません。わたくしのすべてをかけて祈り、河伯さまを大切に祀《まつ》るのでどうか洪水を起こすのはやめていただきたいと、想いを伝えるよりほかにありません」
 彩は唇をかみしめる。ふっくらとしたあでやかな紅が押しつぶれる。
 西門豹は、意見と立場は違うものの彩のひたむきさに素直に共感した。魂の一途さを彼は好んだ。ふと、己の使命を一生懸命語る彼女を励ましたい心持ちにさえなったが、それはできない。彼には彼の使命があった。
「ところで、私は龍を見たことがないのだが、どのような姿をしているのだ? あなたの髪飾りには龍が彫ってあるが、そのような形なのかな」
「はい、さようでございます」
「どうしてわかる」
「何度も会っています。髪飾りの河伯さまは、わたくしが見た姿をもとにして作りました」
 彩の声は、あくまでも真摯《しんし》だった。
 予期しなかった答えに虚を衝かれた思いがして、西門豹は途惑った。書物の中で見知らぬ漢字に出くわした時のようにとっさに意味を掴めず、くぼんだ眼窩の両目をみはった。
 ――嘘をついているとも思えない。世の中には人知を超えたものがあるからな。神がかりの巫女ならあり得ることかもしれない。
 西門豹は思い直し、どんなに奇異に思えても、彼女にとっての真実を述べているものとして受けとめようと決めた。
「いつから会っているのだ」
「物心のついた頃からです。ついこの間、斎戒《さいかい》していた時にもこられました」
「龍神はどんな様子だった」
「激しておられます。痛々しいほどのお怒りようです。かわいそうでなりません。わたくしは何度も河伯さまを抱きしめようとしましたが、かないませんでした」
「抱きしめる?」
「さようです。抱きしめていたわってさしあげたかったのです。苦しみをやわらげてさしあげたかったのです。悲しゅうございます。昔は河伯さまのほうからわたくしを抱きしめ、情を交わしてくださったものでした」
「情を交わすとは、まさか――」
「男女の営みのことでございます」
 彩の瞳に光がはねる。完熟した甘い桃のような頬に滴が伝う。
 西門豹は思わず犬歯をむき出し、歯噛みした。
 髪を乱した彩が滑らかな雪肌の太股を開き、ぬらぬら光る龍の長い胴を両脚ではさみこみながら、胸いっぱいの吐息をつくありさまが心をよぎる。神話の一場面でも見るような光景だった。どこにでもありそうで、どこにもないような切ない怒りが胸の底に湧く。嫉妬だと、自分で気づいた。
「わたくしは嫌われたのかもしれません。ですが、河伯さまはまだ会いにきてくださいます。それが、唯一の望みです」
 彩はのどをつまらせ、白絹より白い指で目の端を押さえる。
 西門豹は、腰に帯びた韋《なめしがわ》を右手で何度も揉《も》みしごいた。自分の気性の激しさを心得ていた西門豹は、心が波立った時、いつもそうして気を鎮めた。
 ――若い巫女に懸想《けそう》している場合ではない。治水と開発が焦眉《しょうび》の急だ。
 自分にそう言い聞かせ、彩をなだめて話を続けようと試みたが、彩はただ肩を震わせるだけだった。むせび泣く仕草は、失恋を嘆く若い娘のそれだった。そんな純情可憐な姿が西門豹の胸についた火種をいじりまわす。
「申しわけありません。今日はこれにてお暇させていただきます」
 彩は舞うようにして両手を床につき、お辞儀する。
 沈んだ後姿を見送った後、西門豹は座椅子へ深く腰かけた。
「坐り心地が悪い」
 座椅子を叱りつけ、せわしなく尻を浮かしては何度も坐り直した。だが、やはり落ち着かない。韋を揉み、それでも足りずに両手を組んで指の骨を続けざまに鳴らし、逞《たくま》しい体をよじって背骨を鳴らした。ちょうどよい坐りかたを見つけるまで、ずいぶん手間取った。
 
 

(続く)

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