風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『西門豹』 (第2章 - 3)

2011年04月05日 21時30分08秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 貧しい村だった。
 どの家も土塀が崩れ、激しく痛んだ日干しレンガ造りの家屋が覗き見える。
 破れた板戸を押し、門をくぐった。
 二人が奥の部屋へ入ると、やつれた中年女が疲れ果てた風に平伏した。黒ずんだ蒲団に垢じみた男の子が臥せり、荒い息を繰り返す。外は乾いた風が吹いているのに、なぜか肌に粘つく湿った空気がよどんでいた。彩は男の子の腕を取り、脈を診た。
「どうだ、助かりそうか」西門豹は訊いた。
「脳に熱の塊がありますが、なんとかなるでしょう。すみません、今からお祓いをするので外で待ってください」
 彩は手拭いで男の子の額の汗を拭き、包みを開く。四つ目のおどろおどろしい形相をした鬼祓いの面と薬草が出てきた。西門豹は、男の子の母親と一緒に部屋を出た。
 女が西門豹にもたれかかった、かと思うと崩れ落ちる。西門豹はとっさに抱きとめた。女は気を失っている。西門豹は枕を抱いているのかと思うほど軽い体を土間に横たわらせ、表へ出て人を呼んだ。
 ぼろをまとった女子供が集まる。誰の顔も、誰の首筋も、倒れた女と同じように肌は脂気《あぶらけ》もなくかさかさに乾き、骨と皮ばかりになっている。破れ衣はどれもだぼだぼして見えた。痩せ衰えたために服が大きくなったのだろう。
「生き地獄」
 西門豹は、目を虚ろにしてつぶやいた。そうとしか思えない。
 事態を告げると、女たちは一言も発せず無関心とも思えるほど面倒くさそうに頷き、ぞろぞろと門の内へ入った。
 彩の唱える悪霊祓いの呪文が朗々と流れる。高く低く節をつけたその声は、村人たちの弔いのようにも響いた。
「くま」
 幼い女の子がぽかんと西門豹を見上げる。小さな腹は、栄養失調のせいで風船のように丸く膨らんでいた。その子の姉だろうか、顔立ちのよく似た十二歳ほどの娘がさっと幼児を抱きかかえ、怯《おび》えた風に里道の向こうへ駆けてゆく。
「どうもご無礼をつかまつりました」
 老人が現れ、前に杖をついて深く頭を下げた。
「あなた様のような立派な体格のかたを見たことがないもので、あんなことを口走ったのでしょう。どうか子供のことですので、ご容赦ください」
 白くまばらなあごひげをたくわえた顔貌《かおかたち》に、西門豹はどこか惹《ひ》きつけられた。修練《しゅうれん》を重ねて人間の生臭味をそぎ落としたような、山水画から抜け出してきた仙人にも似た風貌《ふうぼう》だった。
 西門豹は会釈して名乗った。老人は、前の村長の劉騰《りゅうとう》だと告げる。代々村長の家で、今は彼の息子が村長を務めていると言う。祈祷と治療の間、彼の家で待たないかという申し出を受け、西門豹は厚意に甘えることにした。
 劉騰の家もあばら屋同然だった。村長の家であれば立派な家具や調度品がなにかしらあるはずだが、それらしいものはなに一つ見当たらない。それどころか、家具らしい家具も、調度らしい調度もない。天井の隅には、大小の蜘蛛の巣が張ったままになっている。屋根が壊れ、一条の陽射しが家の中に舞う埃を照らしていた。
 劉騰は縁の欠けた茶碗に自家製の糟酒《かすざけ》を注ぎ、西門豹に勧める。
 二人は乾杯した。酒は粗悪な雑穀から醸造したものだった。舌を刺す臭みがあり、どうにか飲めるほどの味だが、赤貧の中で精一杯もてなしてくれていることを考えると西門豹は貴い酒に思えた。作法通り一息に飲み干し、茶碗を逆さにして空けたことを証した。
 前の村長は、問わず語りにこの村の状態についてぽつりぽつり語った。昔はそれなりに豊かだったが、水害続きですっかり畑が荒れ、村人の数は三分の二に減った。しかも、盗賊団が増え、襲撃を受けることもしばしばあると言う。
「なにもない村へ押し入るのですから、賊もよっぽど困っておるのでしょう」
 劉騰は恬淡《てんたん》と笑う。諦めているのか、もともとあっさりした性格なのか。おそらく、その両方なのだろう。
「ところで、河伯祭に関して妙な噂を聞いたのですが、なにかご存知ないでしょうか」
 西門豹はこの老人ならと噂の内容を話し、河伯祭について調査しているところだと告げて協力を求めた。劉騰はのどにからんだ痰を苦し気に切り、なにか言いかけて口をつぐむ。
「私は良民のためにここへ赴任してきたのです。なんでもおっしゃっていただきたい」
 西門豹は膝をにじり寄せ、身を乗り出した。
「実は、毎年お役人が河伯祭の費用を徴収しにやってきます。麦ばかりではなく、豆類も、なけなしの雑穀まで持って行ってしまわれます。ただでさえ収穫が少なくて困っているというのに、これでは食べるものが残りません」
「そうでしたか。役人も強盗も似たようなものですね」
 役所の記録は調べたが、河伯祭の費用徴収についてはいっさい記載がなかった。
「まったく、なんと言えばよいのか。河伯様のお怒りが激しいということで、祭りを大がかりになさるのはよろしいのです。それで怒りがおさまって、河が元通りになれば、ここの百姓たちも安心して畑を耕せるのですから。ただいただけないのは、集めた銭の大部分を、前の県令様や長老がたや商人たちが自分たちの懐へ入れてしまうことです。数百万銭も集めて、河伯祭に使う額はわずか二三十万銭。これでは詐欺《さぎ》ではありませんか」
 劉騰は、他人事のように淡々と語る。それがかえって痛々しい。
「彩殿はそのようなことを知っているのですか」
「たぶん知らないでしょう。巫女様は、祭事《さいじ》を執り行なって分け前をもらうだけですからな」
「では、取り仕切っているのは誰ですか」
「三老《さんろう》様です」
 三老は長老の中でも一番地位が高く、徳のすぐれた人物とされていた。どの城市でも、三老は最高の敬意を払われる。また三老のほうでも、民の暮らしぶりにこまかく目を配り、徳行を奨励して非道が行なわれればそれを正す。いわば民衆の精神的指導者であり、さらに地元住民の意思を代表して政府へ伝えるという重要な役割を担っていた。
「呆れたものだ。率先して民から搾取《さくしゅ》するとは。とくはとくでも、損得の得にすぐれたかたなのですね。私がやめさせます」
「頼もしいお言葉ですが、難しいでしょう。前の県令様も最初はそうおっしゃっておられました。ですが、地元の者から見れば県令様はよそ者。鄴(ぎょう)の慣例を改めようとしても、地元の者は言うことなど聞きません。多勢に無勢、結局だめでした。そのうち、銭の味を覚えてご自分から率先して費用を集めるようになられましたよ。いや、これはたいへん失礼なことを申しました」
「いえ、いいのです。正直にお話していただいたおかげで、いろいろなことがわかりました。なんとか手立てを考えます」
「そろそろお祓いも終わった頃でしょう。参りませんか」
 劉騰は西門豹の意気ごみには答えず、力なく首を振る。西門豹は、諦めるよりほかに術のない劉騰の苦衷《くちゅう》を察し、
「わずかばかりですが、どうぞお受け取りください」
 と、布銭《ふせん》(農具の鋤状《すきじょう》の硬貨)の入った巾着《きんちゃく》を差し出した。
 劉騰はかっと目を見開き、怒りに唇をわななかせ、枯れた体のどこにそんな力があるのかと思うほどの力で茶碗を土間へ投げ捨てる。茶碗が割れ、乾いた音を立てる。
「私は窮《きゅう》しております。まずい糟酒をすすり、始終鼻水を垂らすみっともない老人です。が、乞食ではありません。いわれもなく恵んでいただくわけには参りません」
「そんな風に取らないでください」
 西門豹は穏やかに諭した。自尊心だけが高い官吏なら老人の非礼に怒り出しただろうが、西門豹の顔にはいたわるような微笑が浮かんでいる。西門豹は、飢饉《ききん》のさなかでも誇りを失わない老人に好意を抱いた。
「恵むのではありません。村の子供たちのために使っていただきたくてお預けするのです。彼らがやせ衰えているのを、見過ごすわけにはいきません。せめて、子供たちに温かい食事を与え、暖かい服を着せてやってください」
 劉騰の手を取り、力強く巾着を握らせた。風雪を刻んだ劉騰の皺にしょっぱい涙が流れる。涙の粒が西門豹の手へこぼれ落ちる。
「先ほどの無礼はお許しいただきたい。ここ数年来辛いことばかりでしたが、今日ほど嬉しい日はありません。我々に頼る人はおりません。どうか助けてください」
 劉騰は床に額をこすりつけ、鼻汁をすすり上げる。西門豹は、胸がこみ上げて目頭が熱くなった。自分を必要とする人がいる。その人たちのために正しいと信じたことを成し遂げるのだと、強く誓った。
 涙で動けなくなった劉騰を残し、病人の家へ戻った。すでに祈祷は終わり、彩は床の上に置いたすり鉢で薬草をすり潰していた。苦い匂いがぷんと鼻を衝く。
「よくなったようだな」
 西門豹は、気持ちよさそうに寝息を立てる男の子を見やった。その隣には、子供の母親が横たわっている。疲れてぐっすり寝入っているようだ。
「ええ、もう大丈夫です」
 彩は振り向き、明るい笑顔を見せる。こまかく並んだまっさらな歯がこぼれる。夏空に向かって咲くひまわりのようだ。上気して紅潮した顔に、健やかな汗がにじんでいる。その表情にも、体にも、いつも放つ色香はない。城市で見かける良家の子女といったところだろうか。あどけない十九の娘の素顔に戻っていた。
「熱も微熱になりましたから、お薬を飲んで三四日寝ていれば元に戻ります。おばさんのほうはちょっとした貧血ですから、少し休めばよくなるでしょう」
「そうか。それはよかった。部屋の空気もさらっとしたな」
 西門豹は中を見渡した。
「困らせ屋さんの霊が憑《つ》いていたので慰めてあげて、元居たところへ戻るよう言い聞かせました。ちゃんと言うことを聞いて出て行ってくれたから、空気もよくなったのですよ」
「ほう、調伏《ちょうぶく》するのではないのか」
「そんなかわいそうなことはいたしません。西門さま、元から悪い霊なんていないのですよ。寂しかったり、傷ついて自分を見失っていたりするから、悪さをするだけです。ともだちになってあげるからさみしくなんかないよと言ってあげれば、まともになります」
「なるほどな。悪い人間もそうだといいがな」
 西門豹は、三老や有力者たちの顔を思い浮かべた。
「人も同じです」
「では、悪い奴らも、彩殿にお祓いしてもらって真人間に戻してもらうか」
「いつでもお引き受けします」
「それなら、まず私を祓ってくれ」
 西門豹は、冗談とも本気ともつかない風に言う。
「いいですわ。薬を調合したらすぐに始めましょう」
 破顔した彩は大きな瞳をくるくる動かせ、陽射しを浴びた水飛沫のように光らせる。
「西門さまは、ご冗談などおっしゃらないかたなのかと思っておりました」
「本気だ」
 西門豹は、澄まし顔で逆毛の眉を片方だけ吊り上げた。彼なりの精一杯のユーモアだった。
 彩はすり鉢を脇に置き、笑いをこらえきれず身をかがめた。打ち震える背中は、春風に揺れる一面の菜の花に似ている。ふっと、西門豹の心の中に透きとおる風が吹き抜ける。胸が軽やかになる。西門豹は鷹のような鋭い眼つきをやわらげ、腹の底から野太い笑い声を放った。



(続く)

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