午を告げる太鼓が鳴る。
食堂へ向かう役人たちのざわめきが、開け放した戸口から入りこんでくる。
西門豹は執務室の机に向かって書類に目を通しながら、餡《あん》ころ餅へ手を伸ばした。いかめしい風貌からは想像もつかないが、西門豹は甘党だった。仕事が押し詰まると西門豹は好んで餡ころ餅を用意させた。食べると頭の血の巡りがよくなり、疲れた脳がすっきりした。小さくかじり、大きく口を動かしてよく咀嚼《そしゃく》する。傍目《はため》には、貴重な珍味を惜しみながら食べているようにも映る。幼い頃、保母の婆やが遮二無二《しゃにむに》食べようとする西門豹を何度も叱りつけ、正しい食べ方を繰り返し躾《しつ》けたおかげでそんな癖がついた。
昼食は餡ころ餅で手軽にすませ、夕方までに溜まった書類を片付けてしまいたかった。ここ数日、昨日のような訴訟に時間を取られ、執務が滞りがちだった。明日こそ時間を作り、巫女の村を訪れたかった。
「よう、精が出るな」
李駿の声だった。西門豹は、ゆっくり餅を嚥下《えんか》して、
「知らせをくれれば迎えをやったのに」
と、言いながら椅子を勧めた。口に物を入れたまま話してはいけないと厳しく教えられた。食べ方に関しては妙に育ちのよさがある。
「そんなのいいんだよ。えらいさっぱりしたよな。壺も掛け軸もみんなしまったのか? 竹簡ばっかりで書生の部屋みたいだな」
机を挟んで向かいに腰かけた李駿は、飾り棚を取り払って書架を並べただけの殺風景な執務室を見渡す。
「売った」
「全部?」
「そうだ。あんなもの不要だ。前任者は贅沢品で部屋を飾るのがよほど好きだったようだが、ここは美術品の展示室ではない。それに、たぶん賄賂の品だろう。見るだけで胸くそが悪くなる」
「お前らしいや。売った金はどうしたんだよ」
「蔵に置いてある。いずれ治水事業を始めるとなれば、いくら金があっても足りないからな」
「そんなのお前が頂いとけばいいじゃないか。役得だろ。誰もとがめないぜ」
「自分がとがめる。人がなんと言うかは関係ない」
「まあいいや。損したければ、勝手に損しろよ。だけどさ、おせっかいかもしれないけど、なんか高そうなものでも置いといて、俺は県令だぜってところを見せておいたほうがいいんじゃないの。こんな貧相な部屋で仕事してたら軽く見られるぜ」
「ここでは人と会わないから体面を繕《つくろ》う必要もないだろう。応接用の部屋は豪華なままにしてある。――彼女を連れてきたのか」
「それもあるけど、今回はお上のご命令できたんだ。豹の様子を見てこいとさ」
「なにがあった」
西門豹は、くぼんだ眼窩の底の目をしかめた。
「お前が不正してるって、この町の者から密告があったんだよ。お上としては調べないわけにはいかないさ」
李駿は、文侯から授かった印綬《いんじゅ》を見せる。話を聞くと、根も葉もない訴えは宴席で言い合った有力商人からのもので、西門豹にやりこめられたことに対する腹いせのようだ。
「なるほどな。だが、それで駿を検察官に任命したのだから、お上は本気で調べるつもりなどない。調査したという形だけ整えて事実無根としたいのだろ」
西門豹は愁眉《しゅうび》を開いた。召喚《しょうかん》でもされれば、都で面倒に付き合わされているうちに河伯祭を過ぎてしまうだろう。今までの努力が水泡に帰してしまう。
「そうだけどさ、お上だってわかっているけどさ、落ち着いてる場合じゃないよ。都はお前の件で大騒ぎだったんだ。豹は敵が多いからな。足を引っ張りたがっている連中は山ほどいるんだぜ。自分でもわかってるだろ。お上がかばいきれなくなったらどうする? もうちょっと敵を作らずにうまくやれよ」
「敵を作る作らないは関係ない。肝心なのは、なんのために、誰のために、なにをするかだ。それで敵ができるならしょうがない。私は信念を貫くだけだ。自分の損得勘定しかしない奴らが敵に回るならそれでいい」
西門豹はきっぱり言い切った。理想と信念さえ見失わなければ、どこにいても、なにがあっても自分が自分であり続けられる。そう信じていた。
「やれやれ。豹はいこじすぎるよ。もうちょっと損得勘定をしたほうが身のためだぜ」
李駿は首を振る。
「西門様、遅くなりました」
張敏が市場から帰ってきた。市場では様々な階層の住人が話に花を咲かせ、あるいは議論を戦わせ、世論を形成する。その動向を探るように命じておいたのだった。張敏は、李駿に「お久し振りです」と挨拶をして席につく。
「どうだった」
西門豹は訊いた。
「どの者も西門様を口汚く罵ります。極悪非道な冷血漢だとの評判が広まっていて、ひどい言われようです。ついこの前までは民をいつくしむよい県令だと持ち切りだったのですが」
「噂に振り回されるのは人間の性《さが》だ。とくに悪い評判はすぐ信じたがる。しょうがない」
「どうも、誰かが悪い噂を撒《ま》き散らしている模様です」
「三老の配下だろうな」
「調べてみます。ただ、民は不満のはけ口として西門様の悪口を言っているとしか思えません。やはり、根本の原因は生活の厳しさからくる抑圧の鬱積《うっせき》だと思います。いくら稼いだところで河伯祭の費用としてほとんど持っていかれるわけですから、その鬱屈《うっくつ》は相当なものです。とはいえ、三老様や地元の旦那衆を悪く言うわけにもいかず、よそ者の西門様を標的にしているのではないでしょうか」
「今は仕方ないな。うまく運べば、わかってくれるだろう」
「ばかばかしい。お前を叩いて憂さを晴らす奴らなんて、助けてやることないだろ」
李駿が口を挟む。
「そんな言いかたはよせ。皆苦労しているんだ。彼らを救い導くのが私の仕事だ」
西門豹は、むっとして眉間を歪めた。
「よさないよ。むかつくだろ。言っとくけど、豹がここの開墾に成功して奴らの暮らしがよくなったって、奴らは感謝しないぜ」
「どうしてだ」
「決まってるじゃないか。うまく行ったら全部自分の手柄。自分の能力が高いから成功したんだって思うもんだ。逆にうまくいかなかったらなんでも人のせい。お前の責任にされるんだよ」
「確かにそういうものかもしれない。だが、そんなことはどうだっていい。なすべきことをやるだけだ」
「わかったよ。正義の味方はお前に任せた。とにかく、俺は三日ほど滞在していろいろ調査したことにするから。――張敏、明日馬車を貸してくれないか。彼女と出かける」
「手配します。それでは」
張敏が退出しようとすると、小間使の女がやってきて張敏に耳打ちする。
「三老様がお見えのようです。なんでも急ぎの件とか。食事時になんでしょうか」
張敏は、腑に落ちない顔で西門豹へ告げる。
「いよいよ向こうが動き出した。お通ししろ」
西門豹は挑むように眼を光らせ、太く張った声を響かせた。
(続く)