風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『西門豹』 (第2章 - 2)

2011年04月04日 04時09分32秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 三日後の朝、西門豹は県庁の門へ出た。
 馬番が葦毛《あしげ》の馬を牽いてくる。西門豹自慢の東胡産《とうこさん》の馬だった。毛並みは中の上といったところだが、騎馬民族が育てた馬だけあって偉丈夫の西門豹が乗っても簡単にへこたれない丈夫さが身上だった。鍛えあげた古強者の風格がある。
 足を蹴り、宙へ舞うようにしてさっとまたがった。
 一直線に大通りが伸び、その先に城市《まち》の南門が見える。快晴の遠出日和だ。大きな獅子鼻《ししばな》の穴を広げてまぶし気に爽やかな朝の空気を吸いこみ、威勢よく手綱を一振りした。
 城市を抜け、小麦畑の中の道を飛ぶように駆けた。
 目的地は彩の住む村だった。
 額に汗がにじむ。
 胸が高鳴る。
 あの娘と言葉を交わすのだ、と思っただけで心がせいた。
 小さな原生林を抜ける。小高い丘の上に集落が見えた。遠目にも目に飛びこんでくるほどの真新しい白壁の家が、等間隔で整然と並んでいる。入口には、高い柱が二本、青空を突き刺すようにしてそびえていた。
「あれが目印だな。巫女の村か」
 巫女だけが住むという話だった。
 丘を駆け登り、柱の傍で止まった。呼びかけて案内を請おうとすると、すぐ脇の祠《ほこら》の陰から色白の女が音もなく現れる。彩だった。
「お待ちしておりました」
 彩は、優雅に揖《ゆう》(両手を胸の前で組んで上下させる礼)をする。西門豹は、少年の日にあったような青いときめきを覚え、
「どうしてわかった?」
 と、骨ばった顔を微笑ませながら訊いた。西門豹の目許に朴訥《ぼくとつ》にも見える笑い皺が浮かび、二重まぶたが意外にかわいらしい曲線を描く。滅多に見せない顔だった。
「ゆうべ星を見て知りました。西門さまは、どうして今日わたくしが村にいるとわかったのですか」
「そんなことは考えもしなかった。話をしたくなったから来ただけだ」
「先日は大変ご無礼いたしました」
「気にしなくていい」
「恐れ入りますが、村の中では馬には乗れません。どうぞ降りてください」
 彩は、取り澄ました表情のまま綱を取る。西門豹は馬を降りた。彩は馬の鼻を優しくなで、なにごとかを語りかける。
「馬の心がわかるのかな」
「はい。ですが、この馬はまだ心を開いてくれません。会ったばかりだからでしょう。そのうち友達になれます」
 彩は、祠の脇の槐《えんじゅ》に馬を繋《つな》いだ。木陰には桶が二つあり、新しい秣《まぐさ》と水が用意してある。星占いの話はどうやら本当のようだと得心《とくしん》がいった。
「どうぞ、こちらへ」
 彩は掌を上へ向け、村の中心を指し示す。
 村の中央は広場になっていて、奥には極彩色の模様を施した大きな社が建っていた。ぴんと張りつめた空気が漂い、肌を突き刺す。人影は見当たらないのに、誰かに見られているような厳しい視線を感じる。
 ――神々のまなざしか、もののけのまなざしか。
 西門豹は、ふとそんなことを思い、
「一年中、ずっとここにいるのか」
 と、きれいに掃き清められた広場を横切りながら訊いた。
「そうです」
「実家へは帰らないのか。父母が恋しくはないか」
「おりません。赤子の時、わたくしはさきほど馬を繋いだ槐の下に捨てられました」
「すまなかった。気を悪くしないでくれ」
「いいのです。わたくしはここで大切に育てていただきました。ここがわたくしの家です。寂しいなどと思ったことはありません」
 一番大きな家へ招かれ、軒先で足を洗ってから入った。
 部屋には香がたちこめている。すっと心が安らぐ香りだった。
 彩は敷物を勧める。西門豹は正座して、二人は向かい合った。深い森の奥にいるような、どこまでも静かな部屋だった。この部屋の雰囲気は彩の瞳に浮かぶ不思議な静けさと同じだと、西門豹はふと気づいた。彩の後ろの壁いっぱいに、緋色《ひいろ》の地に金糸で龍を刺繍した荘厳な緞子《どんす》がかかっている。雄々しく体をくねらせ、空を昇る龍だった。
「この間の話の続きだが、そもそもなぜ龍神は怒っているのだろうか」
 西門豹はさっそく切り出した。龍の実在を信じたわけではない。彩がなにを考えているのか、隅から隅まで余すところなく知りたかった。
「人があるがままを壊すからです」
 ふっと彩の顔つきが変わり、真剣なまなざしで西門豹を見つめる。
「あるがままとはなんだ」
「この世のことです。河、森、山、この世のすべてのことでございます。河伯さまは、人がこの世のすべてを壊し、調和を乱すことにたいへんお怒りです。とりわけ、たくさんの木を伐って森を失くしてしまったことに」
「河の神がなぜそのようなことに怒る?」
「すべては一つに繋がっております。森が壊れれば、河も壊れます」
「たしかに、鉄を作るために木を伐りすぎてしまった。製鉄には大量の薪が必要だからな。昔は森が雨水をたくわえたものだが、今ではひとたび大雨になれば、雨水は荒地の表面を流れ、そのまま河へ注ぎこむ。一度に大量の雨水を抱えこんだ河は溢れ、洪水が起きる」
「森を壊し、森の神々をおろそかにした報いです」
「では、森を元通りにすれば、龍神の怒りもおさまるのだな」
「そうかもしれません。ですが、そもそもの問題は思い上がった人の心にあります」
「思い上がってなどいないが」
「そうでしょうか。人は森羅万象《しんらばんしょう》に宿る神々とともに生きています。それを忘れてはなりません。人は青人草《あおひとぐさ》です。あるがままの土から産まれ、青々と命を繁らせ、ついには再び土へ還《かえ》る草です。人もまた、あるがままの一部にすぎません。それなのに、己の欲のために森や河をほしいままにするなどもってのほかです。これを思い上がりと言わずに、なんと言えばよいのでしょうか」
 彩の瞳にかすかな怒りがたぎった。狂信者の眼のようにも、子を守る本能に駆られた母の眼のようにも見える。どちらにせよ、息を吹きかけた炭火のようで綺麗だった。
「人が欲深いというのは理解できる。だが治水に成功したよその県では、神々を祀りながら堤を築き、開墾して、民の暮らしが上向いている。今のように貧しさに追われるのではなく、暮らしが楽になっている。それはいけないことなのか」
「いけません。あるがままを壊せば、そこに宿る神々が死にます。神々を殺せば、人にも必ず跳ね返ってきます」
「どういうことだ」
「神々が死ねば、人も死にます」
「死んでなどいない。むしろ、ここよりもずっといい暮らしをして、活きいきとしている。私はこの目で見てきた。嘘ではない」
「今はいいでしょう。ですが、やがて死にます。まず、心が死にます」
 ――心が死ぬ。
 その言葉が西門豹の心のどこかを穿った。心の水面に石の礫《つぶて》を投げ入れられたようで、はっと彩を見つめた。
「なぜだ」
 西門豹は、眉間に深い亀裂を刻む。
「あるがままに棲む神々は、わたくしたちの心を見つめています。そうして、わたくしたちの心を支えています。だからこそ、人の心も生きていられるのです。その神々が死ねば、人の心は見つめられず、支えられず、死んでしまいます。心が死ねば、おのずと体も滅びましょう。人はすべて死に絶えてしまうでしょう」
「胸のすくようなことを言う」
 西門豹はからっと笑った。彩の思い切った物言いが小気味よかった。
「人が全部死んでしまえば、この世はさぞせいせいするだろうな。だが、そんなことが本当に起きるかな」
「わたくしには、はっきり見えます」
「では一つ訊くが、龍神も死ぬのか」
 西門豹は真顔に戻った。
「それは――」
 彩は顔を強張らせる。悲しみの薄い膜が彼女の頬を覆う。薄く塗った蝋《ろう》のようで、触れればひび割れてはがれ落ちそうだ。
「このままではそうなるかもしれません」
「龍神が死ねば、彩殿の心も死ぬか」
 西門豹は、思わず畳みかけた。訊かずにはいられなかった。彩はひっそり目を瞬かせ、なにも言わず身じろぎもしない。思いつめた瞳が風に弄《もてあそ》ばれる鈴のように揺れる。西門豹は、獲物を追うような視線で緞子の龍を睨んだ。心の底に憎しみの錐《きり》が突き刺さる。犬くらいならひねり殺せそうなごつい手を握りしめた。
 ――龍神が恋敵などとは、ばかげている。
 そう思ったが、どうにも抑えられない。
「彩様」
 突然、息を切らした男の声が響いた。
「せがれがすごい熱を出して、うなされておるんです。それだけじゃなくって、火柱が見えるなんて叫んで走り回るんですよ」
「わかりました。すぐに行きましょう」
 彩は、涙まじりの声ながらも気丈《きじょう》に答える。大巫女としての責任感がそうさせるのだろう。西門豹は、その健気《けなげ》さがいとおしくて、
「送っていこう」
 と、立ち上がった。
「ありがとうございます。助かります。では、わたくしは道具を取って参りますので、槐のところでお待ちください」
 彩は、硬い面差しに無理した微笑を浮かべ、奥の部屋へ消えた。
 西門豹は、男を伴って家を出た。男は、陽に焼けた肌から土の匂いを放つ丸きりの農民だった。話を聞いてみると、男の息子は九つで、八人育てた子供のうち最後に生き残った一人だと言う。他の子供は飢えと病気で死んでしまった。
「苦労したな。ところで、彩殿の医術はどうだ」
 西門豹が慰めるように肩を叩いて尋ねると、
「そりゃもうすごいですよ。せがれは、去年も彩様に助けていただいたのです」
 と、男は憂鬱だった顔をぱっと輝かせる。
「信頼しているのだな」
「もちろんですとも。彩さまが大巫女になられて、みな大喜びです。あんなに力を持ったかたは、ほかにいません。河伯さまだって、きっと鎮めてくださるでしょう。洪水はなくなりますよ」
「そうなればよいがな」
 それ以上返す言葉もなく、西門豹は思案気に腕を組んだ。
 巫術《ふじゅつ》で水害がなくなるのなら苦労しない。しかし、たとえそれを話してみたところで、精霊信仰と言えば精霊信仰、迷信と言えば迷信の世界観の中で生きている農民に理解できるはずもない。そんな彼らをどう導くのかが難しい。
「お待たせしました」
 彩が走ってきた。男の住む村は十五里(約六キロ)離れたところだという。二人で先に行くことにした。西門豹は後ろに彩を乗せ、馬を走らせた。
 彩の腕が西門豹の腰を抱く。西門豹は背中に柔らかい果実の甘い重みを感じ、じわりと伝わるあこがれの温かみを背中で測った。
 ――とても手の届きそうにない女を乗せている。
 西門豹は、まっすぐ前を見た。見開いた目には、引き締まった凛々《りり》しさが浮かんでいる。
「この馬は、なんと呼ぶのでしょうか」
 彩が問いかける。
「名前はない。なぜ馬の名を訊く」
「乗せてもらっているのに、名前を知らないのはおかしいですわ」
「彩殿が名付け親になってくれ」
「よろしいのですか」
「もちろん。馬も喜ぶだろう」
「では、蒼い風と書いて蒼風《そうふう》ではいかがでしょうか」
 彩の声は弾んでいた。
「よい名だ。馬にかわって礼を言う」
 蒼風は脚を速め、細く伸びる土埃の道を駆けた。



(続く)

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