夜が明けるとすぐに出仕した。
冷たく冴えた空気の中、執務室の簡素な机に向かい、未決箱の竹簡《ちくかん》に目を通した。土地家屋の登記、穀物の管理、武器の購入、城壁の修理、租税の徴収、訴訟案件など多岐にわたる項目の文書が山積みになっている。これらはすべて県令の所管事項だ。地域行政の他に、司法、軍事も扱った。西門豹は黙々と判を押し、指示を記すべきものに朱筆を入れ、職員が登庁する頃にはすべて片付けた。
「おはようございます」
青年書記官の張敏《ちょうびん》が現れた。
張敏は、都から連れてきた側近の一人だった。卵のような顔に人のよさと育ちのよさがにじみ出ている。まだ経験は浅いが、几帳面な性格で仕事を丁寧にこなす点と口の堅いところを買い、目をかけていた。歳月を重ねて場数を踏めば、志を持ったよい官吏になると西門豹は見こんでいた。
「おはよう。これを頼むよ。私は出かけてくる」
西門豹は席を立ち、決済を終えた竹簡を指した。
「あの、三老の徐粛《じょしゅく》様がお見えなのですが」
「ちょうど、こちらから出向こうと思っていたところだ。手間が省けたな」
西門豹は母屋の中央の間へ入り、揖をして上品な光沢を放つ座椅子へ腰かけた。
「申し訳ありませんな。年寄りは朝が早いもので」
徐粛はからから笑う。
遊び上手の小粋な老人だった。三老というよりも商家の楽隠居といった風情だ。鳩尾《みぞおち》まで届く白いあごひげは、太書き用の筆のようにふっくらとしており、塗りこんだ椿油がつややかに光っている。おそらく、若い頃は相当な二枚目でもてたのだろう。皺だらけになった今でも、女心をくすぐりそうな、氷砂糖を思わせる甘さが目許に漂う。
「この城市にはもう慣れられましたかな」
徐粛は丁重に言った。
「お気遣いありがとうございます。鄴(ぎょう)の水にも、ずいぶんなじんできました」
「大変結構なことです」
「今日はなんのご用でしょうか」
「遠縁に当たる者の息子が都で勤めたいと言い出しましてな。読み書きができて、なかなか達筆なのですよ」
「友人が戸籍係の手が足りないと言っておりました。それでよろしければ」
「申し分ありません」
「では」
西門豹は張敏を呼んで筆と硯《すずり》を運ばせ、その場で紹介状をしたためて手渡した。
「ほう、なかなか豪気な字ですな。字は人を表すと申しますが、全身これ胆なりという西門様のお人柄がよく出ておりますな。いや、恐れ入りました」
徐粛は、さも感心した顔を作り、
「後で使いの者がお礼を届けに行きますので」
と、満足そうに頭を下げる。
「これしきのこと、礼にはおよびません」
「それは困りますな」
「いえ、本当にお気になされなくて結構です」
西門豹は強く手で制した。ちょっとした頼みごとをして不相応に高額な謝礼を弾み、自分の仲間に抱きこんでしまおうという魂胆は見えている。その手に乗るわけにはいかなかった。さっきの世辞で気をよくするほど、西門豹はやわではない。
「字も豪気だが、肚も太いですな。昨日貧しい農民に施しをしたとか。早速評判になっておりますよ」
徐粛は、茶目っ気たっぷりに微笑む。持ち上げて気持ちよくさせようという意図は見え透けていたが、どこか憎めない愛嬌があった。生まれつき人に愛される術を身につけた人間なのだろう。加えて、徐粛は声がいい。柔らかな笛の音色のようで、聞く者を心地良くする声だった。昔話を子供に語れば、どんなむずかり屋でも、雲に抱かれたような心地になってすぐに寝入ってしまうだろう。だが、西門豹は本能的に、経験的にその声を警戒した。人をうっとりとさせて騙す詐欺師の声だと感じた。
「たいしたことではありません。彼らの暮らしぶりは実に憐れでした。胸が痛みます」
「洪水のせいです。河伯様の怒りが激しすぎましてな。なかなか鎮められません」
徐粛は、もっともらしく頷く。西門豹は、もし龍神がいるなら真っ先にあなたを絞め殺すだろうと毒づきたくなるのをぐっとこらえ、
「効き目がないのなら、河伯祭などやらなくても同じではないでしょうか」
と、冷たくあしらった。目には傲岸不遜《ごうがんふそん》ともとれる蔑《さげす》みの色さえ浮かべている。民の暮らしを顧《かえり》みない軽薄さを、憎まずにはいられなかった。
「とんでもない。やめればこの町はおしまいです。この土地の古くからの俗諺《ぞくげん》に『もし河伯様に妻を娶《めと》らせなければ、大洪水が起きてすべてが水底へ沈み、民はすべて溺《おぼ》れる』と言います。毎年必ず河伯祭を催して、嫁を送らなくてはなりません。まさか、西門様は反対するおつもりではないでしょうな」
「龍神を祭るのはかまなわないのです。信仰ですから」
「県令様はわかっていらっしゃる」
徐粛は、安堵の表情を浮かべた。
「ですが、はっきり申し上げましょう。民からの費用徴収は反対です。民は疲弊《ひへい》しています。私はこれまでに何度も飢饉に見舞われた農村を視察したことがありますが、あれほどの荒れ果てようは初めて目にしました。洪水もさることながら、河伯祭の費用負担が重くのしかかっているからです。負担を免除して、民を休ませるべきです」
「河伯祭は金がかかるのですよ」
「ならば、儀式を簡素にして、費用を抑えればよいではありませんか」
「格式というものがございます。河伯様は神のなかの神ですぞ。そこらの貧乏神と同じにしては叱られるでしょう」
「では一度試してみようではありませんか。儀式を簡略にしてみて、もし本当にもっとひどい洪水が起きれば、以後私は喜んで三老殿の意見に従いましょう」
「大洪水が起きてからでは遅いのですよ。この地を守るためにやっていることです。皆の協力が不可欠なのです」
「民よりも龍神のほうが大切だとおっしゃるのですか。三老殿は痩せ細った民を見て、なにも思わないのですか」
「もちろん、心を痛めておるのは私とて同じことです」
徐粛はしれっと言う。
――愚問だったな。
西門豹は、心の内で舌打ちした。罪の意識がないのは、初めからわかっていた。三老は集めた費用を私することを、当然の特権としか思っていない。民の暮らしぶりは目に入らず、有力者の仲間うちでどう利益を分かち合うのか、それしか興味がないのは明らかだった。人間は欲に駆られれば、なんでもする。誰でも平気で踏みにじる。
「心を痛めているのなら、もっと広い見地に立って考えていただきたい」
「立っておりますとも。都からこられた西門様は奇異に思うかもしれません。が、我々は河伯様とともに生きております。俗諺はいわれないことではありません。古人の知恵でありましょう。河伯様を盛大に祀るのは、我ら鄴(ぎょう)の民にしてみれば大切な常識なのです」
徐粛は嫌な顔一つ見せず、書物の講義でもするように穏やかだった。
――なにが常識だ。
西門豹は腹立たしかった。己の利益のために常識という言葉を振りかざす人間を日頃から嫌悪していた。常識と決めつけて相手の思考を奪い、理性の営みのことごとくに蓋《ふた》をしてしまって相手を自己の支配下に置こうとする薄汚いやり口を蛇蝎《だかつ》のごとく嫌っていた。
――確かにあなたは偉大な常識人だ。自分がかわいいのも常識。うまい汁を吸いたいと願うのも常識。仲間に利益を分け与え、ちやほやされたいのも常識。人間の自然な感情に違いない。だが、あなたの常識とはなんだ。ただの己の欲ではないか。それが地位のある人間の「常識」なのか。
そう痛罵《つうば》してやりたかったが、もちろん言えない。そんなことを口走れば、相手がどんな反応を示すかは、経験を積んだ西門豹には容易に予想がついた。相手を怒らせるのが目的にしても、論法と言葉は慎重に選ばなくてはならない。直截《ちょくせつ》にものを言いすぎて何度も左遷の憂き目に遭った西門豹は、骨身にしみてわかっていた。
「常識を守ることは大事なことでしょう。それはわかります。しかし、常識を守るやり方には二通りあります。一つは常識をなにも疑わず墨守《ぼくしゅ》すること。それがよいものであろうと、悪いものであろうとおかまいなしにです。もう一つは、その常識が正しいものなのかを常に疑い、なんのためにその常識があるのか、その本質を考え、常識のよい部分を守ろうとすることです。どちらがよい方法なのかは、言わずもがなでしょう」
「いや、参りました。なかなか舌鋒《ぜっぽう》鋭いですな。歴代の県令様のなかでも、西門様の頭の回転の速さは抜群ですよ。おそらく、およぶかたはいますまい。稀有《けう》の人材が我が城市へこられたことを私は嬉しく存じます。いや、まったく」
「私はお世辞が聞きたくて話しているのではありません。徐粛殿、この地を治める処方箋は、はっきりしています。民の生活を少しでも落ち着かせ、然《しか》る後に、民を大規模な治水工事に動員するのです。そうすれば、洪水も飢饉もなくなり、皆救われるでしょう」
「まあまあ、そう勝手なことを申されても困りますな」
徐粛はあくまでもにこやかに、そしてその表情に微量の渋みをにじませながら、きかん気の小僧をなだめるように言う。
「勝手なこととは、どういうことですか」
西門豹は気色ばんだ。獰猛な野獣の唸りに似た凄みがある。だが、徐粛は大様な態度を崩さない。
「着任早々でやる気なのはわかります。が、冷静になっていただきたい。私からも申し上げておきましょう。河伯祭は我々の祭りです。いくら県令様とはいえ、余計な口を挟まれては、地元の者は黙っていられません。治水工事はぞんぶんになされればいい。ですが、工事を請け負うのは我々鄴(ぎょう)の者です。西門様が我々を理解してくださらなければ、全面的に協力できないでしょう。そこのところをお忘れなく」
「私はより多くの民が幸せになるためにはどうすればよいのか、それを考えているのです」
「きつく響いたかもしれませんが、ここでよりよくお過ごしいただくために、老婆心ながら申し上げたこと。そう喧嘩腰にならずに、まずは仲間になろうじゃありませんか。西門様はまだこの土地のことを知らないのですよ。河伯様は洪水を起こすだけではありません。恵みももたらしてくれるのです。龍がいなければ、雨は降らないのですから」
徐粛は思わせ振りに言う。恵みの雨とは河伯祭の分配金だ。
「私の考えがわかってもらえるまで、何度でもお話するつもりです」
西門豹は譲らなかった。並の県令ならそれで丸めこめるのかもしれないが、私は違うと言ってやりたかった。
「いいですとも。話し合うことが大切ですからな。もっとも、堅苦しくせずに、酒でも飲みながら気楽にお喋りしましょう。きっと我々のことを理解してくださると思います。お忙しいところ、長居してしまいました。ではまた」
徐粛は、桃の花でも眺めるようになごやかな微笑みを浮かべて去った。
隣の部屋から張敏が出てきた。緊張した面持ちをしている。
「冷やひやしました」
「聞いていたのか」西門豹は言った。
「盗み聞きをしたのではありません。お声が大きくて、部屋中に響いていましたから」
「あれくらいで怯《ひる》むな。向こうは海千山千だ。こちらが挑発しても、迂闊に乗って話がこじれるような真似はしてこない。今までどんな県令がきても、そのたびに抱きこんできた自信もあるだろうしな」
西門豹は思いを巡らすようにして腕を組み、硬く唇を結ぶ。
「わざと喧嘩をふっかけたのですか」
「そうだ。正攻法では、こちらに勝ち目はない」
「どういうことでしょう」
張敏は眉間に浅い皺を寄せ、首を傾げた。
「鯀《こん》と禹《う》の話は知っているな」
「はい。洪水を治めたという神話ですね」
「鯀は自然の摂理に背いて河をせき止め、山を崩し、沢を埋めようとして、失敗した。つまり、力押しではだめだったということだ。鯀の後を引き継いだ禹は、天地に従い、河の勢いをたすけて、水の流れをよくしたから、治水に成功した。力ずくで困難を押さえこむのではなく、逆に相手の力をうまく使ったのだよ。洪水対策も、県を治めるのも同じことだ。相手の力が大きければ大きいほど、その逆手を取ることを考えねばならない」
「しかし、さきほどの西門様は力押しのように見えました」
「相手は、真綿でくるむようにしてこちらをとりこむつもりだ。ずるずるとやられたのでは、相手の力を利用できない。だから、怒らせて反発を引き出そうとしたのだ。圧力をかけ続ければ、必ず向こうも負けずに押し返してくる。その時が好機だ」
「そうでしたか。ですが――」
張敏は、納得と困惑が入り混じった表情で不安そうに言葉を濁す。
「賭けなのはわかっている。だが案ずるな。成功させてみせる。弱い者いじめは許さない」
西門豹は、世界中が束になってかかってきても決して屈しないとでも言いた気に、異相の頬に不敵な笑みを浮かべた。
(続く)