五年後、西門豹は中止していた河伯祭を復活させた。
もちろん、民から費用を徴収せず、規模も縮小させ、人身御供も取りやめさせた。だが、会場の賑わいは五年前と変わらない。西門豹は、屋台と人ごみの中をそぞろ歩きした。五年前は大事を前に控えて祭りを楽しむどころではなかったが、今回はその雰囲気を存分に味わった。なにより、人々の愉《たの》し気な姿が心地良かった。
あの後、大々的な治水工事を行ない、堅牢《けんろう》な堤が完成した。民を苦しめた洪水はここ二年起きていない。十二本の灌漑《かんがい》用水を整備して黄河から水を引き入れ、死んだ荒地は郁々《いくいく》と緑なす小麦畑へ生まれ変わった。民の生活は大幅に向上し、都へ上納した税も増えて国庫に貢献した。抜擢してくれた文侯の期待に、見事に応えた。
彩を忘れたことは一日もない。
自宅に彩を祀り、朝と夕べに祈りを捧げた。
時折、同じ夢を見る。
黄河の底の龍宮を訪れ、庭先の亭《ちん》で彩と世間話をして帰る。そんなたわいもない夢だ。彩が見せる微笑みは、まろやかな幸せを手に入れた若妻のそれだった。満ち足りて欠けるところがない。
夢を見るたび、西門豹はただ嬉しかった。それがおそらく真実だろうと思った。その「真実」が長い治水事業の中で困難に直面した時、心の支えになった。
人波を縫って李駿がやってくる。李駿は以前この町へ連れてきた彼女と婚礼を挙げ、一児の父になっていた。もうすぐ二人目が生まれる。
久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》した後、
「お前の父君の言付けを預かってきたよ」
と、李駿が切り出した。休暇を取って都へ戻り、結納を上げろという。
許嫁は三年前に親が決めた。会ったことはないが美人との評判は聞いている。相手の家は宰相の親戚だ。悪くない。だが、西門豹は仕事を口実に春節《しゅんせつ》(中国の正月)にも都へ帰らず、避けていた。
「そうだな。いい区切りかもしれない。結婚するか」
西門豹は、昔より一層、精悍《せいかん》に見える頬に掌を当てて頷いた。
「区切りってなんだよ」
「ここでの仕事も一通り目処がついた。そろそろ踏ん切りをつけて、人生の次の段階へ進む時かもしれない」
西門豹は会場を見渡し、ふっと優し気な微笑みを浮かべる。
「河伯祭も始めたことだしな」
彩にしてあげられることはすべてした。なにもかもが終わったような気さえもした。
――断ち切れない想いも、思い出に変える潮時なのだろう。
腕を組んで下を向き、子供が遊ぶようにして足元の小石を転がした。
「あれだけ苦労してやめさせたのに、どうしてまたやるんだよ」
西門豹の想いを知らない李駿は不思議そうに言う。彩との件は李駿にも誰にも告げていない。自分だけのものにしておきたかった。
「民は龍神を信じている」
「だからといって迷信を認めるなんて、俺にはわからないよ」
「龍神を祀《まつ》って民の気持ちが落ち着くなら、結構なことではないか」
「もしかして、お前も河伯を信じているのか」
「信じている」
西門豹は、あの夜巫女の村で出会った龍神を想い起こした。今も黄河の中から厳しい視線で見られている気がする。
「人間は神々を信じて、その神々に見つめられていたほうがいい。心が安らぐうえに、謙虚な気持ちになって己の限界を考えるようになるからな。この世に人間しかいないと思えば、人は思い上がって自分が神になったつもりになり、勝手放題をやりだす。正しいことと誤ったことの区別がつかなくなって、愚かさに歯止めがかからなくなる」
滔々《とうとう》と流れる黄河を見つめた。
黄色い濁流は、夏の光を浴びてひたすらにほとばしる。
水辺で餌を探していた白鷺の群れが、一斉に宙へ羽ばたいた。
了
この小説は中国の歴史書である『史記』列伝に題材をとりました。最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
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