「一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
巫女の村の広場を横切りながら、ためらいがちに彩は問いかけた。夜の帳《とばり》が天蓋《てんがい》に降り始め、宵の明星がひときわ明るく輝く。春の夜の肌寒い風が吹いている。西門豹は、その冷たさをかえって爽快に感じた。
「なんでも訊いてくれ」
――彩殿といれば、なんでも快いのかもしれない。
そんなことをふと思い、西門豹は目を瞬《またた》いた。
「西門さまは本当に河伯祭をやめさせるおつもりだったのでしょうか」
「嘘だ」
「よかった。やっぱりそうだったのですね」
心の重荷から解き放たれたのか、彩ははしゃいだ風に肩を揺らす。
「噂を聞いて妙な気がしました。西門さまがそんな悪いことをなさるかただとは、どうしても思えなかったものですから。西門さまが皆のことを考えてくださっているのは、よくわかっていますもの。実を言うと、今日はどきどきしていたのです。西門さまにもしものことがあったらどうしようって心配でした。三老様も大慌てだったのですよ。怒ってひどいことを言ってしまったけど言い過ぎたって、皆があれほど怒るとは思わなかったって、そうおっしゃっておられました。それで三老様に頼まれて、わたくしは必死で皆を止めようとしたのです。うまくいってほっとしました」
「今日のところはな」
西門豹は唇を噛んだ。彩は、自分が徐粛の奸計《かんけい》に乗せられているとは思いも寄らないようだ。彩の純真を利用した徐粛が腹立たしかった。
「あら、心配しなくても、もう大丈夫ですわ。西門様がしきたりを守るとおっしゃったのを聞いて、皆大喜びでしたもの。もちろん、わたくしも嬉しかったですわ」
「そのことで話がある。大事なしきたりは守るが、二つ改めたいことがあるのだ。一つは、今日民へ告げた河伯祭の費用徴収をやめること。彩殿だからすべて話そう」
西門豹は、思い切って三老と有力者たちが行なう搾取について語った。話が進むほど、彩はやるせなく背中を丸め、目を潤ませた。
「先代の大婆さまは五六年前から急に欲深くなられたので、どこかおかしいと感じていたのですが、そんなことになっているとは知りませんでした。皆が苦しんでいるのですね。罪を犯している気がします」
「自分を責めなくていい。黒幕は徐粛だ」
「三老様はやはりよくないかたなのですね。半分本当で半分嘘のような笑い方をするので、どこかなじめないものを感じていました。それに、今日の鎮魂祭だって無理やりでしたし。わたくしは、心の中で河伯さまに謝りながら祈祷を上げていたのです。なにか、わたくしにできることはないでしょうか。皆がかわいそうでなりません」
「彩殿はこのような俗事に関わらないほうがいい。下手をすれば、民が悲しむようなことになるかもしれない。相手は老獪《ろうかい》だ。謀《はかりごと》をめぐらして、大巫女の権威を傷つけ、今日の私のように民が敵に回るように仕向けてこないとも限らない。民は皆、彩殿を慕っている。民にとって、彩殿は希望の星だ。彩殿が民をいたわるからこそ、この町の民はこのような悲惨な状況でもまだ望みを失わないでいられる。民は彩殿にすがるしかない。大巫女が民を失望させるわけにはいかないだろう」
「――そうかもしれません」
彩は、考えこむようにして頷く。
「おっしゃるとおりですね。わたくしが皆を悲しませてはいけませんね」
彩は、大巫女の機能と役割をしっかり把握しているようだった。精神的な拠り所になることこそ、最大の使命だ。それは鄴(ぎょう)という小宇宙の大黒柱と言っても過言ではない。とはいえ、口調こそはっきりしているものの、彩の顔にはかげりがあった。浮かない手つきで頬に掌をあてがう。
「彩殿はえらいな」
西門豹は、励ますつもりで言ったのだがふと気づき、
「いや、すまない。子供扱いしたのではない」
と、慌てて謝った。巫女の村で育った彩は、大巫女の役目など自然に理解しているはずだった。西門豹よりもずっと肌身にしみて。それが心の核をなすほどに。
「嫌ですわ」
気にする風もなく彩は言った。
「わたくしはもう大人です。河伯さまがお望みなら、お嫁にだってゆけます」
「お嫁か」
「もう十九ですもの」
「その人身御供だが、むごい風習だと思う。生身の人間を差し出すのはいかがなものだろう。娘の代わりに人形を差し出すところもあると聞く。そうできないものか」
「それはいけません。人形で済ますなんて、身勝手もいいところです。神々を辱めるふるまいです。人はあるがままからいろいろなものを頂戴しているのですから、受け取った分はお返しをしなくてはなりません。妻を差し出すのは当たり前でしょう」
「人身御供になる娘や家族の身になって考えて欲しい。どれだけ嘆き悲しむか」
「わたくしは羨ましいくらいです。できることなら、代わってもらいたいほどです」
彩のまなじりがかすかに吊り上がる。その表情には、人身御供への嫉妬がない交ぜになっている。西門豹は、説得の方法を考えたうえであたらめて話したほうがよいだろうと感じた。
社殿《しゃでん》へ上がった。
彩は、馬と樹木の彫刻を一面に施した重い木の扉を開ける。
西門豹の肌がこまかく震えた。
暗闇に濃密な気配が漂う。鬱蒼《うっそう》とした森へ分け入った時に感じるような、蠢くものたちの生々しい息吹と肌に突き刺す厳しい視線を感じる。香草の匂いだろうか。むせかえるほどの清冽《せいれつ》な香りがした。彩は闇の中を歩き、手慣れた様子で火を点《とも》す。
「龍でも出てきそうだな」
と、西門豹がつぶやいた時、龍神の木像が浮かび上がった。
頭は高い天井へ届き、力強く肢体《したい》をくねらせている。人を容易に寄せつけない王者の気品がある。燭《ともしび》が揺れ、光と影が龍神の顔に揺らめく。龍の木像は生命を孕んでいるようにさえ見えた。心臓の鼓動まで聞こえてきそうだ。
一筋の汗が西門豹のこめかみから流れ落ちる。なぜか、動悸《どうき》が早まる。今までに味わったことのない緊張感に胸を締めつけられたが、
「化けて出てくるなら、その時はその時だ」
と、小刀で掌を切って器へ誓約の血を落とした。彩は、その血を龍神に供える。
「西門さま、始めましょう」
祭壇の前に彩が坐り、西門豹はそのすぐ真後ろに坐った。彩は低く祝詞を上げだした。
短い休憩を何度か挟み、深夜におよんだ。
西門豹は、ただ彩の声明に聴き入った。星まで届きそうな美しい声だった。声明のシャワーが凝り固まった神経の隅々までを解きほぐす。特効薬を入れた薬湯にでも浸かっているようで、今日の屈辱も、心に溜まった澱《おり》も穢れも、きれいさっぱり洗い流してくれる。
そのうち、のぼせたように頭がぼおっとなり、この世のものとは思えない心地良さが身を包んだ。彩の声が荘厳なあの世の調べのように聞こえる。研ぎ澄まされた感覚が線香の灰の倒れる音まで聞き分ける。西門豹は、眼を閉じたままどこまでも澄んだ清らかな池を想い浮かべ、心の中に描いた水面を見つめた。
ふと、なにかの前触れのように水面がさざめいた。
白い閃光が走り、水中から二本の角が生える。棍棒《こんぼう》のような角だった。その内側に馬のような耳がぴんとそそり立ち、あたりの気配を探るように傾く。
――来たか。
西門豹は心の内でつぶやき、気力が全身へ行き渡るよう深く息を吸った。怖くはなかった。驚きもしなかった。会わなければならないような、そんな気がしていた。
一抱えもありそうな大きなあぶくが浮かんだ、と思う間もなく、ざあっと滝の落ちるような轟音とともに龍が現れた。怒っているのか、脅かしているのか、人くらいなら簡単に突き刺してしまいそうな鋭くとがった歯をむき出しにしている。長く伸びたあごの下から、水がしたたり落ちる。顔も体も銀の鱗で覆われていた。鱗は真夏の白日のように輝き、その質感は硬く、鉄の鎧よりも頑丈そうだ。瞳は赤。強いまなざしは、社殿へ入った時に感じたあの厳しい視線だった。なにものも見逃さないとでも言いた気なその目つきは、神々の王にふさわしい威厳に満ちている。龍はどっしりとした尾を振り、水面を叩きつける。爆薬が炸裂《さくれつ》するようにしぶきが飛び散る。龍の顔が西門豹の鼻先まですっと伸びてきた。
西門豹は、眉一つ動かさずさっと拳を握った。
片膝を立てながら張りつめた弓のように素早く右腕を引き、拳の礫を鼻っ面へ殴りつける。
一瞬、西門豹の頬はひきつけを起こしたように歪んだ。
銀の鱗は、へこみもしなければかすり傷もつかない。龍神の顔つきもびくともしない。西門豹は落ち着き払って拳を収め、また正座した。
龍神は、ぶるっと息を吐く。生温かい風が西門豹の顔に吹きつける。龍の息は、宮殿の宝庫にでもしまわれていそうな西域渡来の気高い香木の香りと、生肉を喰い生き血をすする猛獣の強い匂いが入り混じっていた。
西門豹は、すべてを見通すような赤い眼を無心に見つめ続けた。
龍は黙して語らない。
厳しい父のようだった。
どのくらいそうしていただろうか。
風に揺れるように、ふわっと龍のひげが動く。柔らかい柳の枝のように波を描く。
我知らず、西門豹の背筋が反り返った。混じり気のない歓喜が背中を走り抜ける。
龍は、険しく見つめながらも自分の存在を肯定している。いや、肯定するからこそ見つめるのだ。その視線が混沌《こんとん》とした己の心にまとまりを与え、そうして心の底を支えてくれている。いつか彩が語っていたことの意味をようやく識《し》った。
龍の姿が赤くぼやけた半透明の光へ変わる。西門豹が見とれているうちに、龍の形をした光は、光の粒の集合体となってDNAのような美しい二重螺旋《にじゅうらせん》の鎖へ変化し、きらきらと神々しい輝きを放ちながらゆっくり回転する。光子の連鎖は徐々に移動して異相の大男を取り囲んだ。
西門豹はまっすぐ顔を上げ、発作でも起こしたかのようにまぶたを痙攣《けいれん》させる。だが、その表情に苦しみは見られない。むしろ、澄みきった喜びにひたり、なにかへ向かって祈りを捧げているようだ。光はすっと西門豹の体内へ入った。
河が、森が、山が、空が、ありとあらゆる自然の形象が西門豹の脳裏へなだれこむ。意識は、己が龍であり、龍が己だった。神と人間の二つの精神が融合し、矛盾なく調和していた。不思議で、それでいて自然だった。
体が浮いた。
少なくとも、西門豹はそう感じた。
一直線に舞い上がる。凄まじい速さだ。
――ぶつかる。
下を向いた西門豹は、社殿の床に坐っている自分の体を認めた。肉体という牢獄から解き放たれた西門豹の魂は、龍神と一つになった魂は、森の神々を描いた社殿の天井を通り抜けた。
全身に気がみなぎる。だが、力が溢れるようで、どこにも力みはない。
原生林をかすめ、荒野を越え、青白い月が波間に揺れる黄河へ飛びこんだ。
水は刺すように冷たく、刺すように熱い。それが無上に心地良い。夜空から忍びこむわずかな光が泥水の中で乱れる。埃が舞うようにも、星が瞬くようにも見えた。波の調べが西門豹を優しくつつむ。まるで揺り籠で揺られているような安らかな想いがじわりと胸に広がった。
激しい泥の流れをさかのぼる。大小の魚が眼前に現れてはさっと流れ去る。河の蛇行に合わせて自然に向きを変える。目の前の視界がほとんどきかないのにもかかわらず、どこがどう曲がっているのか遠い昔から住んでいるように肌で知っていた。
やがて、河面へ躍り出たかと思うと、しなやかに右旋回して森へ入った。木々の間をすり抜け、自由自在に翔びめぐる。
真夜中の森は賑やかだった。
虫たちが交尾の相手を求めてかまびすしく鳴きすだく。それをとかげが貪り食う。むささびやこうもりが樹木を飛び交い、その下の草叢《くさむら》では狼の群れが猪を追いつめる。眠っていた鹿が気配に驚き、慌てて立ち上がる。突然、茂みから虎が躍り出て、鹿の喉笛に咬みつき押し倒す。虎の口が血で染まる。
死に逝く個体も、生き永らえる個体もいる。だが、全体として森は息づいている。動物も植物も虫も微生物も、喰らい喰らわれ繰り返し生き続ける。一つの命が死に絶えたように思えても、それは錯覚にすぎない。生命は互いに取りこみ取りこまれながら、繰り返し生き続ける。流転を重ね、繰り返し生きる。それが生の本能だ。それが生の本質だ。彩の言うあるがままは流転そのものだと識った。流転する限り、死はない。すべての流転が止まった時初めて、虚無という永遠の死が訪れる。西門豹はどこか安堵感を覚え、その流転を護ることこそが龍の使命だと悟った。
行く手に、樹齢三千年は下らないと思える柏の大木が立ちはだかる。十人がかりでも取り囲めなさそうな太い幹が伸びている。下草すれすれから直角に向きを変えた西門豹は、幹に沿って上を目指した。枝がしなり、葉が揺れる。葉擦《はず》れが鳴り渡る。
視界が開けた。
漆黒の海のような夜空に満天の星が浮かんでいる。
気流を切り裂き、どこまでも垂直に上昇する。何層にも重なった薄い雲を突き抜ける。ひたすら天の川を目指した。ふと振り返ると、曲がりくねった黄河と黄土平原が遠ざかる。瞬く間に青い地球が遠ざかる。
星に手が届いた。
そう思った瞬間、無数の星が一斉に弾けた。
光が逆巻き、なにも見えない。
光線が入り乱れ、弾け合い、溶け合う。
やがて、霧が晴れるように光が薄らいだ。
ゆっくりと回転する渦巻き状の銀河が広がっている。
ぽっかりと穴の開いた中心から、いくつもの光の筋がゆるやかな弧を描いて伸びる。長い光の尾が揺れて瞬く。まるで、小川の表面いっぱいにガラス玉を流し、夏の光を当てたようだ。
深くふかく息を吸った。
すべての感覚が消え去ってゆく。
清浄な真理がエネルギーの流れとなって心をほとばしる。あともう少しで、宇宙の奥深くにひっそりとたたずむ最も大切なことを掴めるような気がした。相対性の連鎖を抜け出し、あらゆるものを見渡せそうな、そんな気がした。
ふと、甘露の滴の落ちる音が響く。
耳の底で不思議なこだまを残す。
誰かが呼んでいる。
西門豹は目を開けた。
目の前の彩が神がかりになっていた。感極まった恍惚が妖しく鳴る。
彩は、上半身を折り曲げては激しく跳ね起こす。ぐっしょりとした衣が背中に貼りつき、白い肌が透けていた。濡れ光る長い髪が振り乱れ、汗が飛ぶ。汗の滴が西門豹の唇に張りついた。味は熟れた梅のように甘酸っぱい。
不意に、血が沸き立つ。
抑えようもない感情の熱波が全身を駆けめぐる。
鼻の穴を大きく開いた西門豹は、続け様に音を立てて息を吸った。異様なほどの汗がどっと噴き出て、くぼんだ眼窩の底の目が血走る。
後ろから彩を抱きしめた。
火照った温もりが心を満たす。まぎれもなく、宇宙を抱きしめていた。
まるで焼き鏝を当てたように、一瞬、炎が心の臓を貫く。
なにもかもが終わった後、西門豹は寝転がった。朦朧《もうろう》とした意識の中、白い龍が天井へ駆け上る様をぼんやり見送った。
すすり泣きが聞こえる。
彩は豊満な白い曲線をあらわにしたまましゃがみこみ、顔を覆っていた。散らかった衣を拾い上げ、彩の肩へかけた。彩は、西門豹の胸を拳で叩く。彩の哀しみが胸に響く。
「妻になってくれ」
西門豹は、そっと抱きしめた。
大巫女の彩を娶《めと》ろうとすれば、実際上様々な問題が起きることは、容易に想像がついた。築き上げた地位もなにもかも失いかねない。それでもかまわなかった。
「彩殿さえいてくれれば、すべてうまく行く」
「できません」
彩は、西門豹の胸で頭を振る。
「彩殿を悲しませない」
「わたくしは河伯さまへすべてを捧げた身です。西門さまであれ誰であれ、人へ嫁ぐことはできません」
「苦しいのだろ」
西門豹は、彩の額にまとわりついた細い髪を指先でかきわけた。彩は、こらえきれないように衣を握りしめ、
「西門さま、どうか、わたくしを河伯さまの許へ送ってください」
と、震える声で心の切っ先を突きつける。
「わたくしは耐えてきました。ですが、もうこれ以上がまんできません」
なにも言えず、西門豹は龍神の像を見上げた。木像は、冷ややかに西門豹を見下ろすだけだった。
強く抱きしめた。離したくない。だが、彩の体は西門豹の心に応えない。空蝉《うつせみ》を抱くようだった。西門豹の腕に抱かれながらも、彩の心はよそを見つめているのがありありとしていた。砂時計の砂が落ちるように心が崩れる。想いの粒が落とし穴へ吸いこまれた後、むなしさだけが残る。
――龍神には勝てないか。神から彩殿を奪おうなど、初めから無理だったのだ。素直に負けを認めるしかないな。
「人身御供にでも送れと言うのか」
つぶやいた瞬間、ある考えが西門豹の脳裏をかすめた。それは行政官としての冷徹な計算だった。彩の希望を叶え、自分の目的も達成できる一石二鳥の計画だった。
「わかった。彩殿を送り届けよう」
閃いた考えを良心の秤へかける前にそう答えていた。彩はこくりと頷く。
――正しいかどうかはわからない。本来なら、そんなことをすれば民が悲しむと言うべきだ。だが、そうするよりほかにない。
西門豹は、そう自分に言い聞かせた。
遠雷が鳴る。
土砂降りの雨の音が寒い社殿に響いた。
(第5章へ続く)