ルイス・フロイスの『日本史』を読んでいたら、思わずほほえんでしまったシーンがあった。ちなみに、この本は戦国時代に日本へキリスト教の布教にやってきたイエズス会の宣教師が書いたものだ。
洗礼を受けたある老人が数珠をくりながら「南無阿弥陀仏」と唱えていた。それを見た司祭が驚き、なぜそんなことをするのかと尋ねる。あなたはキリシタンではありませんか、と。老人の答えがまたふるっている。
「私は今まで大の罪人でございました。そして私は、キリシタンのコンタツ(筆者註・数珠)でもってお祈りし、私たちの主なるデウス様に、私の霊魂に御慈悲を垂れ給えとお願い申しております。しかし私はお説教において、主なるデウス様はお裁きの折、大変に厳正であると承りましたので、私が死にます時、自分の罪があまりに多いために、デウス様が私をその栄光の中へ導くに価しないと思し召されることがたぶんにあり得ようと存じます。それゆえ、私はそういう場合に備えて、この数珠《コンタツ》で阿弥陀様にもお祈りし、その時には極楽と言われる浄土へお導き下さるようにと願っているのです」
老人の答えを聞き、居合わせた人たちは楽しくなって笑ってしまった。司祭は洗礼を受けた時にあなたの罪はすべて赦されているのですよと言い、阿弥陀様には祈らないように説得した。
おそらく、この老人は自分の心と真摯に向き合い、どうすれば自分の魂が救済されるのかを真剣に考えたのだろう。そして、その結論は自分の罪深さを自覚することにほかならなかった。これではとても救われないかもしれないと。
彼は敬虔なキリシタンになる前は、敬虔な仏教徒だったのだと思う。キリスト教も仏教もこの世は地獄だと説く点では一致する。この二つの宗教は「地獄の思想」でできているから、敬虔に信仰すればするほど己の罪深さを思い知ることになる。戦いの続く戦国時代にあっては、なおさらそんな機会が多かったかもしれない。
それにしても、ゼウス様がもし駄目だった時のために備えて阿弥陀様も拝んでおくとは、なんともお茶目な保険だ。阿弥陀様はいわばキープ君扱いだけど、それでも救ってくださると老人は阿弥陀様の懐の深さを信じていたのだろう。いかにも日本人らしい話だと思う。
(あとがき)
引用は、『完訳フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)による。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第17話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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