風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『西門豹』 (第4章 - 1)

2011年04月16日 22時45分55秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 山が崩れる。
 そんな轟《とどろ》きだった。
 山鳴りに追われるようにして、裾をからげた張敏が執務室へ転がりこんできた。
「暴動です。暴徒が押し寄せています」
 張敏は、うわずった声を上げる。
 西門豹は、慌てずに張敏を連れて門楼へ向かった。門楼は、小さな城市の役所にしては立派すぎるほどの構えだった。弓形の隧道を穿った石造りの門の上に二層の物見櫓《ものみやぐら》が載っている。二階の露天回廊へ出て、胸の高さの外壁に手をついた。
 暴徒は荒れ狂った波だった。大通りまで埋め尽くし、押し合いへし合いになりながら殺到する。彼らは、徒手で門を押し開けようとしていた。
 熱泉が噴き上がるように、そこかしこから怒号が沸き上がる。最低限の生存条件さえ満たされない、行き場を失った人々のくぐもった怨念がこもっている。無実の罪で餓鬼地獄へ落とされた亡者たちの阿鼻叫喚《あびきょうかん》にも似ている。
 西門豹は拳を握った。
 みなぎった手の甲に青く太い静脈が浮き上がる。
 これほどまでに痛ましい叫びを聞いたことがなかった。声高に叫ぶ民《たみ》をよく見てみると、暴徒というよりもむしろ、逃げ惑う難民の群れのようだった。あまりにも粗末な服装がそう思わせるのかもしれない。
「むごい」
 西門豹は激しく憎んだ。いくら憎んでも飽き足りなかった。この群れのどこかにひそんでいるはずの扇動者を。人々をここまで追いつめた犯罪者を。しかし、感情に身を任せたのではまともに戦えない。韋《なめしがわ》を一揉みして、さっと気持ちを切り換えた。
「探したよ」
 李駿が背後から西門豹の肩を叩いた。急いで走ってきたようで息が乱れている。
「あいつらは鎮魂祭から流れてきたんだ。偶然通りかかってさ、彼女がどうしても見たいってせがむもんだから、冷やかし半分で見物したんだけど――」
 李駿は、鎮魂祭の模様を語った。
 儀式は、厳粛かつ円滑に進んだ。
 急ごしらえの祭壇の前で鶏や牛などの生贄を屠《ほふ》り、彩が祝詞《のりと》を上げ、巫女が唱和する。祈り声の響く中を有力者と民が替わる替わる礼拝を捧げた。
 型通りの儀式が終わり、徐粛の計らいでワンタン汁がふるまわれた。李駿も彼女と一緒に舌鼓を打った。豚骨の出汁がよくきいていて美味だった。お替りを頼もうとした時、徐粛が演説を始めた。
 初めは目立ちたがり屋の顔役がしゃしゃり出てきたといった塩梅《あんばい》で、とくに変わったこともなかったのだが、突然、
「我が町を破滅させる者がいる」
 と、切り出し、西門豹が河伯祭の中止を目論んでいると語った。民衆は、不安などよめきをあげた。
 稲妻よりも速く駆け抜け、すべてをなぎ倒す奔流《ほんりゅう》。逃げるいとまもなく、なにもかもが一瞬にして沈む城市《まち》。濁流に押し流される家屋の残骸。泥水を飲んでもがきおぼれる人々。音もなく静かに浮かぶ家畜の屍体。ようやく水が引いた後に姿を現す破壊しつくされた廃墟。生き残った者は誰もいない。例の俗諺を繰り返し強調しながら、徐粛は巧みに大洪水の形象を描き出し、この世の終わりの風景を人々の脳裏に刻んだ。
 悪霊に憑かれたように、群衆が不気味に揺れだした。誰もが、龍神に無礼をはたらき、決定的に怒らせてしまうことを恐れた。勢いづいた徐粛は西門豹批判を繰り広げる。煽られた民は次第に熱を帯び、西門豹のせいで破滅させられてしまうと信じこんでしまった。
「これから県庁へ押しかけて抗議する」
 徐粛の一声で群衆が沸騰した。一斉に走り出した。皆逆上していた。
「手品みたいだったよ。まるで集団催眠だ」
 李駿は、信じられない風に首を振る。
「矛盾」
 張敏は、理解できないとつぶやく。
「なにがだ」
 西門豹は訊いた。
「民は河伯祭の費用徴収で苦しんでいるのですよ。私が聞いた限りでは喜んで費用を納める者など一人もいません。口を開けば、あれさえなければ暮らしが楽になるのにとこぼします。それなのに河伯祭を続けろとはどういうことでしょうか」
「河伯祭の中止まで望んでいないのだよ。もともと龍の実在を信じていたところへ、今回はその証拠の化石まで出てきた」
 西門豹は、群衆を見渡しながら言った。逆立った濃い眉を少しばかり吊り上げ、ただ冷静に眺めている。
「あれは贋物ではありませんか」
「民は本物だと信じている。贋物であろうとなかろうと、本物と思いこめば、それが彼らにとっての真実になってしまう。この地は長年洪水に悩まされているのだ。あんなものが出てきて、皆畏《おそ》れたと思う。もっと酷いことが起こりはしないかとね。だが、龍は洪水を起こすだけではなく、雨も降らせる。龍がいなければ雨は降らない。旱《ひでり》では農作物は育たない。洪水を起こされる恐怖と雨をもたらしてくれる期待、この二つの相反する感情を龍に対して抱いているのだよ。いずれにせよ、龍と共に生きるしかない。だから、河伯祭は欠かせない。徐粛はそこへつけこんだのだ。本当に嫌なら、負担に耐えかねてとっくの昔に暴動が起きたはずだ」
「そうだとしても、なんで西門様が民を破滅に追いこもうとするのですか。的外れです」
 張敏は、若さに任せて愚直に憤った。
「悪い噂が飛んでいたんだろ。豹が役所の中で悪いことばかり企んでいるんだろうくらいにしか思っちゃいないさ」
 李駿が唾を吐く。
「あいつらにしてみれば、豹がどれだけ努力しているかなんて知ったことじゃない。深く知ろうともしないし、考えようともしない。本当の敵が誰かなんて、なおさら知らない。風になびく草と同じさ。春風が吹けば、春風になびき、秋風が吹けば、秋風になびく。何も考えちゃいない。その時々の風評と思いこみに振り回されるだけなんだ」
「兵を出して彼らを抑えます」
 張敏がかしずき進言する。
「だめだ。民が怪我をする。無辜《むこ》の民は傷つけられない。彼らは暴れたくて暴れているわけではない。追いつめられてどうしようもなくなり、怒りに我を忘れているだけだ」
「なに悠長なことを言ってるんだよ」李駿が言う。
「私は民を傷つけるために、ここへきたのではない」
「殺されたらなんにもならないだろ。軍隊で蹴散らせよ。しょせん烏合の衆じゃないか。どうにでもなるさ」
「彼らを追い払ってもなんの解決にもならない。問題は裏で操っている奴らをどう始末するかだ。民を苦しめる奴らをどう処分するかだ」
「民、民って言うけど、お前は民衆を美化しすぎだよ。税をごまかすわ、兵役から逃げ出すわ、民だって結構汚いんだぜ。それにさ、普段は人任せ神頼みでなんにもしないくせに、困った時だけ一揆を起こして押しかけてくるんだ。こっちの苦労も知らないでわがままをむき出すんだよ。そういうもんだろ」
「民が聖者ではないことくらい知っている。世の中の発展のためのどうすればよいのか相談できる相手でないこともわかっている。しかしだ、私が守ってやらなければ誰が守るのだ。踏みつけられた者の気持ちを考えろ。それが県令の務めだ。民がここまで追いつめられたのは私の責任でもある」
「この城市の奴のせいじゃないか。徐粛なんて狸もいいところだぜ。格好つけてお前が責任を取ることなんてないんだよ」
「格好をつけているのではない。危険と責任を引き受けるのが県令だ。逃げてほっかむりするのなら県令など要らない。責任をよそになすりつけるのは大人のすることではない」
「西門様、鐘と太鼓を鳴らして民を黙らせます」張敏が言った。
「やってくれ」
 張敏は階段を駆け下りる。
 石の礫が飛んできた。一人が投げ出すと、群衆は我もと道端の石を投げ出す。西門豹と李駿は外壁の下に身を屈め、石を避けた。爆竹の炸裂に似た音があたり一面を覆う。跳ねた石が硝煙《しょうえん》のように煙る。
 ――危機ではない。待ち望んだ好機だ。
 西門豹は、してやったりと微笑んだ。決戦が始まったのだという興奮が身をつつんでもいた。素早く考えをめぐらし、作戦を組み立てた。
 暴動を指揮しているのは、言うまでもなく徐粛だ。騒乱が治まった後、民の目前で徐粛と話し合うことになるだろう。徐粛は集めた民を力の拠《よ》り所にして、民意を大義名分にして、河伯祭に手出しをするなと要求してくるだろう。
 ――その時、逆手を取ればいい。あれを提案すればいい。
 西門豹は固く目を閉じた。
 河伯祭の実施は地元に任せる。だが、その費用は民から徴収せず、県庁が負担する。民のために県が支出する。民の窮乏《きゅうぼう》を理由に、三老から費用徴収の特権を取り上げてしまうのだ。貧困にあえぐ民は喜んで受け入れるだろう。なにかの拍子に暴走しかねない群衆を前にしては、いかに徐粛といえども抵抗できるはずがない。こうすれば、誰の命を奪うこともなく目的を達せられる。理想的な無血改革だ。
 鐘と太鼓が鳴った。
 激しい響きが繰り返され、群衆はようやく静まった。石もやんだ。
 西門豹は、立ち上がって深く息を吸いこみ、
「三老殿はいないか。話し合いたい」
 と、力の限り叫んだ。すべての視線が西門豹に集まる。
 ――必ずうまくいく。後は落ち着いてやるだけだ。
 己に語りかけながら動かない群衆を見渡した。どこか晴れ晴れとした表情さえ浮かべている。
 だが次の瞬間、西門豹はあっと小さく叫び、息を呑んだ。右手がせわしなく動き、韋を揉みしごく。西門豹はくぼんだ眼窩の底の目をかげらせ、群衆の奥を凝視した。
 海が割れるように細い道が開く。ぼろをまとった泥色の群れの一点に、柔らかい午後の陽射しを浴びた白装束があざやかに浮かび上がった。白い服は門へ向かって歩む。足を進めるたび、周囲の民は次々と跪いて平伏する。まるで伝説の救世主が現れ、荒波が鎮まるかのようだった。白装束は群衆の先頭で立ち止まり、ゆっくり顔を上げた。白い顔は彩だった。潤みがちに光る大きな瞳が、じっと西門豹を見つめる。
「徐粛殿はどこだ」
 西門豹は言い知れない不吉に駆られ、じれったく何度も韋を握り直した。
「三老様はおりません。わたくしが話をいたします」
 彩は、柔らかく響かせ、
「県令様はしきたりを守っていただけるのでしょうか」
 と、澄んだ声を放つ。
 西門豹は軽いめまいを覚え、手すりに両手をついた。
 思惑が外れた。彩とは争いたくなかった。とはいえ、相手が誰であろうと説き伏せるよりほかに道はない。西門豹は、腹をくくって自説を開陳した。しかし、すぐさま、
「彩様を侮辱するのか」
「貧しいからといって我らを見下すのか」
「よそ者は帰れ」
 と、口々に野次が飛ぶ。周囲は再び騒然となった。野次はすさまじい怒号へ変わる。大風がうなるようだった。
 この状況では西門豹がなにを言っても、民は「我らの彩様」に口答えをしたとしか取らないだろう。これでは話し合いにならない。西門豹は失敗を悟った。徐粛は雲隠れして前面へ出ず、民が絶対的な信頼を寄せる彩のカリスマにすべてを託して、西門豹の口を封じてしまったのだ。
「徐粛のほうが一枚上手だったな」
 西門豹は、力なくつぶやき、
 ――彩殿を巻きこみたくないと思ってなんの働きかけもしなかったが、今にして思えば根回しが必要だった。彩殿が傍観してくれさえすれば。不覚だ。
 と、己の不明を恥じた。
 彩があたりを見渡す。それだけで群衆は静まりかえる。
「わたくしたちは河伯さまを大切に崇めてきました。それが鄴(ぎょう)の民の誇りです。しきたりを守っていただけるのでしょうか」
「守ろう」
 西門豹は声を絞り出した。
 人の海が揺れる。勝鬨《かちどき》が上がる。彩への賛辞が飛び交う。
 ふと気づくと、西門豹は千切れた韋を手にしていた。よほど強く引っ張ったのだろう。韋を睨みつけ、宙へ放り投げた。韋はすぐに速度を失い、くるくると回りながら諸手を上げて喜ぶ群衆に吸いこまれる。西門豹は、雀躍《じゃくやく》する民の中で独りたたずむ彩の姿を見つめた。
 ――彩殿に負けたと思えば仕方ない。
 そう考えるとさばさばした。笑いたくもなった。彩様が祈れば洪水はなくなりますよと目を輝かせたいつかの農夫を想い起こした。
 ――民の暮らしに寄り添い続けてきた彩殿と、都からきたばかりの私では、民の信頼が違う。勝負になるはずがない。当然のことだ。――苛立っている場合ではない。さて、敗戦処理に取りかかるとしよう。まずは、私が本当にこの町のしきたりを守ると皆に思いこませねばな。
「聞いて欲しい。私はこれから彩殿の村へ行き、しきたりを守ることを神々へ誓おう。よろしいだろうか」
 西門豹は叫んだ。
「いいでしょう。喜んで受け入れます」
 彩が答える。民は再び沸いた。勝利の快感に酔いしれている。
「今そちらへ行く」
 西門豹は、さっと巨躯を翻《ひるがえ》した。
「おい、正気かよ」
 李駿が腕を掴んで引き止める。
「あんなところへ行ったら、なにをされるかわかったもんじゃないぜ」
「大丈夫だ。彩殿は無法な真似をする人じゃない。それに今は巫女の村にいたほうがかえって安全だ。あそこは聖域だから誰も手出しできない」
 そう言ってから、西門豹は意図を説明した。今回の件で県令への信頼は失墜した。その失地を恢復するために、ここはしきたりを墨守する振りをして民の信頼を得るのだと。
「すまないが留守を頼む」
「わかった。気をつけろよ」
 いつになく李駿は真剣に西門豹を見つめ、励ますような面差しで手を握る。
「ありがとう」
 西門豹は力強く友の手を握り返し、小走りに階段を下りた。



(続く)


とまったエスカレーターの正しい乗り方は? (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第18話)

2011年04月15日 20時52分52秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 広州の繁華街ではとまっているエスカレーターをよく見かける。
 どういうわけか知らないけど、しょっちゅう故障するらしい。日本ならさっさと修理するのだろうけど、ここは中国なのでそのまま何日間もほったらかしの場合もよくある。しかたないので、みんなとまったエスカレーターを階段代わりに使っている。
 僕はとまったエスカレーターに乗る時、なぜかいつも途惑ってしまう。条件反射というやつだろう。エスカレーターを見た瞬間、こちらの脳みそはエスカレーターのスピードに合わせるように足へ指令を出し、自然と歩幅が大きくなって足が速くなる。これではいけないと思うのだけど、足が勝手に動いてしまう。
 エスカレーターは動かないから、ステップへ乗り移ったとたん、一瞬、体がふわっと浮いたような感じになって、足がもつれるとまではいかなくてもぎくしゃくする。それでようやく、僕の脳みそはこれではいけないと気づき、さっきの指令を修正するようだ。僕は呪縛が解けたようになって、やっと普通に歩ける。はたから見ればおかしな格好をしているのだろうなと思うとすこし気恥ずかしい。
 この間、僕とおんなじような人を見かけた。彼はすこし前のめりになりながら歩幅を広げてとまったエスカレーターへ乗ったのだけど、その瞬間、足がよろめいた。彼には申し訳ないのだけど、あんな不恰好なことをするのは僕だけでないと知ってほっとした。ほんとうに安心した。仲間がいるというのは心強い。
 それにしても、とまったエスカレーターを見た瞬間、僕の意識は「とまっているぞ」と気づいているのだから、脳みそもそれなりの指示を足へ出してスムーズに歩けるようにしてくれてもよいではないか。でも、なぜかままならない。とまったエスカレーターをしっかり見ているのにもかかわらず足の運びをそれに合わせられないとは、僕の体はいったいどういう仕組みになっているのだろう? 不思議だ。
 たんに僕の運動神経が鈍いだけなのかもしれないけど、幼い頃からすりこまれた条件反射は変えようがないのかなあ。我ながら、困ったものだ。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第18話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


『西門豹』 (第3章 - 3)

2011年04月14日 06時50分50秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 いつものように母屋の中央の間で会った。
 徐粛は、甥にでも接するように親し気な笑顔を浮かべる。嫌味のないその笑顔を見れば誰でも徐粛を信じるだろうと、西門豹はふと思った。
「大変なことが起きました」
「どうしました」
 西門豹は、ことを起こしたのはあなただろうと腹の中で冷ややかに思いながら、射抜くような目で老人を見据えた。
「溜池のほとりで龍の化石が見つかったのです」
「珍しいものではないでしょう。龍の骨なら煎じて飲んだことがあります。子供の頃、病気をした時に母が購《あがな》ってくれました。もっとも、正真正銘の龍の骨なのかどうか、私は存じませんが」
「龍骨《りゅうこつ》」と称する薬は、値段は張るものの比較的簡単に手に入った。市へ行けば行商人が売っている。熱病や中風などの特効薬として用いられた。
「それは龍骨のかけらですな。私も時々飲みます。見つかったのは、龍の全体がそっくりそのまま残っている化石なのですよ」
 徐粛は「本当に大きいのですよ」と両手をいっぱいに広げながら、孫を遊びに連れ出そうとする爺やのように目尻に笑い皺を作る。西門豹はどこを見るわけでもなく、黒曜石のような瞳を小刻みに動かした。徐粛がなにを企んでいるのかはわからないが、相手の手に乗ってみなければ事態は動かない。掌で太股を叩き、
「見てみましょう」
 と、言って案内を頼んだ。徐粛は、願ったりかなったりだと頷く。
 二人は、城市からさほど遠くない現場へ行った。
 なんの変哲もない、ひなびた池だった。広さは半里(約二百メートル)四方といったところだろうか。若草が静かに周囲を覆い、藤色のこまかい花が咲き乱れていた。のびやかな春風が水面にさざなみをたて、こぶ牛の水浴びする姿が遠く見える。向こうの池の縁沿いに崩れた低い土塁が続いていた。その昔、ここには小さな邑《ゆう》(城壁で囲った集落や町)があり農民が住んでいたのだが、ずいぶん前に打ち捨てられ、廃墟になっていた。池はかつての邑の貯水池だった。
「あそこです」
 徐粛が指差す。
 池の一角に純白の幕が張ってある。幕は風を孕《はら》んでは鳩の胸のようにふくらみ、息を吐き出すようにそっとしぼむ。傍には角材が積み上げられ、大工が鉋《かんな》をかけていた。風に煽られた削り屑が浪の花のように舞い上がる。もっこを担いだ人夫がその下を無造作にくぐり抜ける。
 二人は幕の内へ入った。
「どうです。素晴らしいではありませんか」
 徐粛は感に堪えない声を上げ、豊かなあごひげを自慢気にしごく。
 龍の形をした大きな骨格が黄土の上に横たわっている。
 西門豹はわずかに右の眉を吊り上げただけで、なにも言わない。化石の頭で立ち止まって両足を揃え、ぶんまわしのように正確な歩幅で足を進めて尻尾の先までの長さを測った。六歩(約六メートル半)あった。西門豹は振り返り、再び全体を見渡した。化石は、磨き上げた大理石のようにまぶしい光沢を放っている。長年土の中に埋まっていたものとはとても思えない。不自然にぎくしゃくと曲がった背骨は、童が描いた絵にも似てまるで玩具のようだ。
「立派なお姿でしょう。昇龍のようですな」
 徐粛は、満面に笑みを浮かべた。
「お言葉ですが、そんな風には見えません。私には空の真ん中でまごついて失速した龍のように見えます。さしずめ空を昇りきれない昇り龍、もしくは墜落中といったところでしょう。徐粛殿、どうやって埋めたのですか」
 険しいまなざしのまま西門豹は言った。徐粛は、からからと愉し気な声を上げる。冗談だと受け取ったようだ。
「そんな畏れ多いことはいたしませんよ」
「龍ではなく、ただの大蛇かもしれませんね」
「そんなことはございません。そこを見てください」
 徐粛は溌剌《はつらつ》とした風情で小走りになり、化石の胸のあたりに近づいた。
「ほら、足があるでしょう。蛇には足がありませんよ」
 確かに、足の骨があった。太い足指が三本伸び、指先にはざっくりとした鉤爪《かぎづめ》までついている。
「爪まで念入りにこしえらたのですね。顔はどう見ても牛のようですが」
「龍も顔が長いから似たような形になるのでしょう」
 徐粛は、しゃあしゃあと言ってのける。
 ――証拠と証言さえ揃えられれば、龍の化石を偽造して民をたぶらかした罪で逮捕することもできるな。手荒な真似はあまり気が進まないが。
 西門豹は、化石の一点を睨みながら心の内で考えをめぐらした。最善の策は逮捕によって徐粛の権力をそぐことではなく、彼が自分に協力せざるを得ないよう仕向けることだった。
 ――だが、とりあえず張敏に命じて極秘裏に捜査させるか。逮捕に踏み切る必要が出てこないとも限らない。いずれにせよ、選択肢は多いほうがいい。
 西門豹は腹を決めた。
「まだ私が埋めたとお疑いですかな」
「ええ」
 西門豹は、張り出した頬に薄笑いを浮かべた。徐粛は、我々は同志だろとでも言いた気になれなれしく西門豹の肩を抱き、
「この池で釣りをしていた者が偶然見つけたのです。が、まったくの偶然だとも思えません。河伯様が私たちになにかを伝えたくて、このお骨をお見せになったのではないでしょうか」
 と、耳元へささやきかける。
「と言いますと」
「私は、河伯様が自分たちをもっと大事にしてくれと言っておられるような気がする。私財を投じてここに立派な祠を建て、この龍神様を祀るつもりです。鄴(ぎょう)の民のためにそうするのです。故郷に貢献したいのですよ」
 徐粛は、自分の言葉に酔っていた。
 ――だいたい詐欺師はまず自分を騙して己の妄想に酔いしれるものだ。自分に嘘を信じこませれば、他人を騙しやすい。端《はた》から見れば、嘘をついているようには見えないからな。
 西門豹は徐粛を一瞥し、
「贋物《にせもの》を祀ったところでご利益などないでしょう」
 と、素っ気なく言った。
「本物ですよ。そう決めつけずに、我々の河伯様に対する熱い想いを理解していただきたいものですな」
 徐粛の配下が彩の到来を告げた。
「西門様、彩様の意見を聞こうではありませんか。彩様が本物と言えば、納得なさるでしょう」
 徐粛は自信たっぷりだ。
「いいでしょう。彩殿の霊力の高さは私も認めます」
 西門豹は、もっともだと頷いた。
 彩が現れた。
 大きな鷺羽を一枚、髪に挿している。よく似合っていた。
 彩は、近所の人に挨拶するようにごく自然な親しみのこもった顔で微笑んだ。西門豹は照れくさくもあり、嬉しくもあった。西門豹も近所の子供の様子を聞くようにこの間の男の子の様子を尋ねた。順調に恢復《かいふく》して、今ではすっかり元気だと言う。龍骨の正体を調べて欲しいと頼むと彩は快諾した。
 彩は細長い棒の先を器に入れた清水にひたし、呪文を唱えながら弾くようにして棒を振る。きれいな弧を描いた水滴が化石に振りかかる。軽く目をつむった彩は頭を垂れ、じっと精神を集中させて交霊した。
 ふっくらと丸みを帯びた体の周りで、ふっと気流が揺れる。目に見えない微細な波が広がる。清楚な花の香りが西門豹の鼻を撲《う》った。彩の心の香りだと感じた。
 ――どこか似ている。
 西門豹は、遠い記憶をまさぐった。そして、少年時代にあこがれた理知の世界の清明さに似通っていると思い当たった。神々を見つめる心と澄んだ論理の二つがどう結びつくのか、そこまではわからない。ただ似ていると感じた。
 十代の頃の西門豹は、理知の世界にこそ真善美がある、そう信じて万巻の書物を読み、師と問答を交わしたものだった。その時に学んだことが、血となり肉となり、心の芯になった。しかし、官吏として生きる日々は、当然のことながら青年期に形成した信念をたやすく実践できるほど容易ではない。もし今ここで彼女を抱きしめれば、現実世界にまみれるなかで失ったすべてを取り戻せるような、そんな想いにも囚われた。
 やがて、彩は大きく息をつき、
「龍神さまの姿は感じませんでした。この化石に牛と亀の霊が憑いているのはわかるのですが」
 と、汗ばんだ額を手の甲で拭った。
「なにかの間違いでしょう」
 徐粛は、とぼけた甲高い声を出す。
「いいえ、龍神さまではありません」
「彩様、どう見ても龍の形をしているではありませんか」
「それはそうですが」
 彩は杏子《あんず》のような目をかげらせ、困った風に首を傾げる。誰かが故意に埋めたとは、疑いもしないようだ。巫女として純粋培養された年若の彩には俗世の狡知《こうち》が見えないのだろう。
「彩様、民は龍神様のお骨が出てきたと言って喜んでいるのです。そのようなことをおっしゃられては皆悲しみます」
「恐れおののいている者もいるでしょうね。彩殿が違うと言うのですから、やはり贋物でしょう」
 西門豹は割って入り、冷静に諭した。
「なんですと」
 常におおらかに振舞っていた徐粛が初めていらついた顔を見せた。彩に本物でないと言われ、かなり動揺している。
「贋物の龍を祀るのはいかがなものでしょうか。徐粛殿の沽券《こけん》に関わると思いますが」
 西門豹はあくまでも穏やかに言ったが、徐粛は顔を真っ赤にしてなにも言わない。
「民を正しく導くのが三老殿の役目のはずです。無理が通れば道理が引っこむと申します。よく考えていただきたい。それに、彩殿が困っているではありませんか」
「彩様も彩様だ」
 徐粛は、怒ったようにつぶやく。
 ――世の中の人間は、皆自分に都合のよいことしか言わないものだと思いこんでいるのだな。猿と同じだ。なにが正しいかなどと考えようともしない。他人は自分が利用するためだけにいるとしか思っていないのだろう。
 西門豹は唇を噛み、腰に下げた韋を揉んだ。韋の表面に波紋のような皺が寄り、きゅっと軋んだ音が鳴る。
「彩殿は本当のことを言ったまでのこと。咎《とが》めるのは筋違いと言うものでしょう。彩殿は神々に仕える身ですから、嘘をつけるはずがないではありませんか。そんなことをすれば、神罰が下ります」
「口出ししないでいただきたい」
 徐粛は老人の癇癪を起こし、きっと唇を歪めて西門豹を睨み据える。
「彩殿は気兼ねして言えないから、私が代わりに申し上げたのです」
「これは鄴(ぎょう)のことであって、あなたには関わりのないことですぞ」
 徐粛は、西門豹に背を向け、
「彩様、明日鎮魂祭を行ないます。よろしいですか。民のために祈ってください。彩様が祝詞を上げれば、皆心安らかになるのです」
 と、拝み倒さんばかりに繰り返した。西門豹がいくら止めようとしても聞く耳を持たない。
 結局、彩は祈祷を上げることになった。皆のためと言われれば断りきれなかった。西門豹はまだ打ち合わせが残っている二人を置き、先に帰路へついた。
 彩が名付け親になった蒼風を走らせる道すがら、
 ――徐粛はやっと挑発に乗ってくれたな。本気で怒らせたから成果は十分だろう。
 と、今日のやりとりを思い返しながら総括した。しかし、ふと、彩と徐粛は今頃どんな話をしているのだろうかと考え、なんとも言えないざらつきを心に覚えた。
 ――鎮魂祭を止めらなかったのは心残りだった。彩殿は道化師もいいところだな。気の毒なことをした。
 ああして、彩は大人たちの喰い物にされてしまうのだろう。考え方や立場は違っても、神々へ捧げる彩の純粋な想いを大切に守ってあげたかった。人類の理想から程遠いこの不完全な世界にあって、それはかけがえのない想いなのだと西門豹は識《し》っていた。もちろん、そのからくりは重々承知のうえでだ。彩の純粋な想いは、いわば嘘だ。嘘と言うのがきつければ、作り話だ。彩の想いは、現実を蒸留に蒸留を重ねた後でしたたる極上の美しい作り話の滴だ。虚構の結晶だ。いくらきれいに思えても、神々や理想などはしょせん御伽噺にすぎない。だが、人は皆汚辱にまみれているからこそ、そのようなものが不可欠なのだとわかっていた。人の心の良質な部分を永遠に支えるのは、この世にはあり得ない純度一〇〇%の作り話にしかできない。それがあるからこそ、人間は人間であり続けられ、他人を幸せにすることもまた可能なのだ。このままでは、その清らかな一滴を徐粛らによって薄汚い錬金術の道具にされてしまう。
 光が目に射しこむ。はっと心を打たれたような気がして、西門豹は蒼風を停めた。
 溶鉱《ようこう》のように煮える落陽が黄色い大地の向こうへ落ちてゆく。
 西門豹は、喰らいつきそうなまなざしを夕陽へ投げかけた。
 ――理性を鍛えろ。焼けた鋼《はがね》を鍛えるように、思考を鍛えろ。考え抜け。大切なものを守るためにどうすればよいのか、考えるのは己しかいない。立ち上がるのも己しかいない。
 心の底に得体の知れない力が湧く。それはたぎる闘志のようでもあり、破壊的な暗い衝動のようでもあった。
 明日の朝、太陽が東の地平線から生き返れば激しい戦いが始まる。そんな予感に駆られ、西門豹は巨躯を震わせて雄叫びを上げた。



(続く)

『西門豹』 (第3章 - 2)

2011年04月10日 04時12分20秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 午を告げる太鼓が鳴る。
 食堂へ向かう役人たちのざわめきが、開け放した戸口から入りこんでくる。
 西門豹は執務室の机に向かって書類に目を通しながら、餡《あん》ころ餅へ手を伸ばした。いかめしい風貌からは想像もつかないが、西門豹は甘党だった。仕事が押し詰まると西門豹は好んで餡ころ餅を用意させた。食べると頭の血の巡りがよくなり、疲れた脳がすっきりした。小さくかじり、大きく口を動かしてよく咀嚼《そしゃく》する。傍目《はため》には、貴重な珍味を惜しみながら食べているようにも映る。幼い頃、保母の婆やが遮二無二《しゃにむに》食べようとする西門豹を何度も叱りつけ、正しい食べ方を繰り返し躾《しつ》けたおかげでそんな癖がついた。
 昼食は餡ころ餅で手軽にすませ、夕方までに溜まった書類を片付けてしまいたかった。ここ数日、昨日のような訴訟に時間を取られ、執務が滞りがちだった。明日こそ時間を作り、巫女の村を訪れたかった。
「よう、精が出るな」
 李駿の声だった。西門豹は、ゆっくり餅を嚥下《えんか》して、
「知らせをくれれば迎えをやったのに」
 と、言いながら椅子を勧めた。口に物を入れたまま話してはいけないと厳しく教えられた。食べ方に関しては妙に育ちのよさがある。
「そんなのいいんだよ。えらいさっぱりしたよな。壺も掛け軸もみんなしまったのか? 竹簡ばっかりで書生の部屋みたいだな」
 机を挟んで向かいに腰かけた李駿は、飾り棚を取り払って書架を並べただけの殺風景な執務室を見渡す。
「売った」
「全部?」
「そうだ。あんなもの不要だ。前任者は贅沢品で部屋を飾るのがよほど好きだったようだが、ここは美術品の展示室ではない。それに、たぶん賄賂の品だろう。見るだけで胸くそが悪くなる」
「お前らしいや。売った金はどうしたんだよ」
「蔵に置いてある。いずれ治水事業を始めるとなれば、いくら金があっても足りないからな」
「そんなのお前が頂いとけばいいじゃないか。役得だろ。誰もとがめないぜ」
「自分がとがめる。人がなんと言うかは関係ない」
「まあいいや。損したければ、勝手に損しろよ。だけどさ、おせっかいかもしれないけど、なんか高そうなものでも置いといて、俺は県令だぜってところを見せておいたほうがいいんじゃないの。こんな貧相な部屋で仕事してたら軽く見られるぜ」
「ここでは人と会わないから体面を繕《つくろ》う必要もないだろう。応接用の部屋は豪華なままにしてある。――彼女を連れてきたのか」
「それもあるけど、今回はお上のご命令できたんだ。豹の様子を見てこいとさ」
「なにがあった」
 西門豹は、くぼんだ眼窩の底の目をしかめた。
「お前が不正してるって、この町の者から密告があったんだよ。お上としては調べないわけにはいかないさ」
 李駿は、文侯から授かった印綬《いんじゅ》を見せる。話を聞くと、根も葉もない訴えは宴席で言い合った有力商人からのもので、西門豹にやりこめられたことに対する腹いせのようだ。
「なるほどな。だが、それで駿を検察官に任命したのだから、お上は本気で調べるつもりなどない。調査したという形だけ整えて事実無根としたいのだろ」
 西門豹は愁眉《しゅうび》を開いた。召喚《しょうかん》でもされれば、都で面倒に付き合わされているうちに河伯祭を過ぎてしまうだろう。今までの努力が水泡に帰してしまう。
「そうだけどさ、お上だってわかっているけどさ、落ち着いてる場合じゃないよ。都はお前の件で大騒ぎだったんだ。豹は敵が多いからな。足を引っ張りたがっている連中は山ほどいるんだぜ。自分でもわかってるだろ。お上がかばいきれなくなったらどうする? もうちょっと敵を作らずにうまくやれよ」
「敵を作る作らないは関係ない。肝心なのは、なんのために、誰のために、なにをするかだ。それで敵ができるならしょうがない。私は信念を貫くだけだ。自分の損得勘定しかしない奴らが敵に回るならそれでいい」
 西門豹はきっぱり言い切った。理想と信念さえ見失わなければ、どこにいても、なにがあっても自分が自分であり続けられる。そう信じていた。
「やれやれ。豹はいこじすぎるよ。もうちょっと損得勘定をしたほうが身のためだぜ」
 李駿は首を振る。
「西門様、遅くなりました」
 張敏が市場から帰ってきた。市場では様々な階層の住人が話に花を咲かせ、あるいは議論を戦わせ、世論を形成する。その動向を探るように命じておいたのだった。張敏は、李駿に「お久し振りです」と挨拶をして席につく。
「どうだった」
 西門豹は訊いた。
「どの者も西門様を口汚く罵ります。極悪非道な冷血漢だとの評判が広まっていて、ひどい言われようです。ついこの前までは民をいつくしむよい県令だと持ち切りだったのですが」
「噂に振り回されるのは人間の性《さが》だ。とくに悪い評判はすぐ信じたがる。しょうがない」
「どうも、誰かが悪い噂を撒《ま》き散らしている模様です」
「三老の配下だろうな」
「調べてみます。ただ、民は不満のはけ口として西門様の悪口を言っているとしか思えません。やはり、根本の原因は生活の厳しさからくる抑圧の鬱積《うっせき》だと思います。いくら稼いだところで河伯祭の費用としてほとんど持っていかれるわけですから、その鬱屈《うっくつ》は相当なものです。とはいえ、三老様や地元の旦那衆を悪く言うわけにもいかず、よそ者の西門様を標的にしているのではないでしょうか」
「今は仕方ないな。うまく運べば、わかってくれるだろう」
「ばかばかしい。お前を叩いて憂さを晴らす奴らなんて、助けてやることないだろ」
 李駿が口を挟む。
「そんな言いかたはよせ。皆苦労しているんだ。彼らを救い導くのが私の仕事だ」
 西門豹は、むっとして眉間を歪めた。
「よさないよ。むかつくだろ。言っとくけど、豹がここの開墾に成功して奴らの暮らしがよくなったって、奴らは感謝しないぜ」
「どうしてだ」
「決まってるじゃないか。うまく行ったら全部自分の手柄。自分の能力が高いから成功したんだって思うもんだ。逆にうまくいかなかったらなんでも人のせい。お前の責任にされるんだよ」
「確かにそういうものかもしれない。だが、そんなことはどうだっていい。なすべきことをやるだけだ」
「わかったよ。正義の味方はお前に任せた。とにかく、俺は三日ほど滞在していろいろ調査したことにするから。――張敏、明日馬車を貸してくれないか。彼女と出かける」
「手配します。それでは」
 張敏が退出しようとすると、小間使の女がやってきて張敏に耳打ちする。
「三老様がお見えのようです。なんでも急ぎの件とか。食事時になんでしょうか」
 張敏は、腑に落ちない顔で西門豹へ告げる。
「いよいよ向こうが動き出した。お通ししろ」
 西門豹は挑むように眼を光らせ、太く張った声を響かせた。



(続く)


『西門豹』 (第3章 - 1)

2011年04月09日 04時23分10秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
  
 夜が明けるとすぐに出仕した。
 冷たく冴えた空気の中、執務室の簡素な机に向かい、未決箱の竹簡《ちくかん》に目を通した。土地家屋の登記、穀物の管理、武器の購入、城壁の修理、租税の徴収、訴訟案件など多岐にわたる項目の文書が山積みになっている。これらはすべて県令の所管事項だ。地域行政の他に、司法、軍事も扱った。西門豹は黙々と判を押し、指示を記すべきものに朱筆を入れ、職員が登庁する頃にはすべて片付けた。
「おはようございます」
 青年書記官の張敏《ちょうびん》が現れた。
 張敏は、都から連れてきた側近の一人だった。卵のような顔に人のよさと育ちのよさがにじみ出ている。まだ経験は浅いが、几帳面な性格で仕事を丁寧にこなす点と口の堅いところを買い、目をかけていた。歳月を重ねて場数を踏めば、志を持ったよい官吏になると西門豹は見こんでいた。
「おはよう。これを頼むよ。私は出かけてくる」
 西門豹は席を立ち、決済を終えた竹簡を指した。
「あの、三老の徐粛《じょしゅく》様がお見えなのですが」
「ちょうど、こちらから出向こうと思っていたところだ。手間が省けたな」
 西門豹は母屋の中央の間へ入り、揖をして上品な光沢を放つ座椅子へ腰かけた。
「申し訳ありませんな。年寄りは朝が早いもので」
 徐粛はからから笑う。
 遊び上手の小粋な老人だった。三老というよりも商家の楽隠居といった風情だ。鳩尾《みぞおち》まで届く白いあごひげは、太書き用の筆のようにふっくらとしており、塗りこんだ椿油がつややかに光っている。おそらく、若い頃は相当な二枚目でもてたのだろう。皺だらけになった今でも、女心をくすぐりそうな、氷砂糖を思わせる甘さが目許に漂う。
「この城市にはもう慣れられましたかな」
 徐粛は丁重に言った。
「お気遣いありがとうございます。鄴(ぎょう)の水にも、ずいぶんなじんできました」
「大変結構なことです」
「今日はなんのご用でしょうか」
「遠縁に当たる者の息子が都で勤めたいと言い出しましてな。読み書きができて、なかなか達筆なのですよ」
「友人が戸籍係の手が足りないと言っておりました。それでよろしければ」
「申し分ありません」
「では」
 西門豹は張敏を呼んで筆と硯《すずり》を運ばせ、その場で紹介状をしたためて手渡した。
「ほう、なかなか豪気な字ですな。字は人を表すと申しますが、全身これ胆なりという西門様のお人柄がよく出ておりますな。いや、恐れ入りました」
 徐粛は、さも感心した顔を作り、
「後で使いの者がお礼を届けに行きますので」
 と、満足そうに頭を下げる。
「これしきのこと、礼にはおよびません」
「それは困りますな」
「いえ、本当にお気になされなくて結構です」
 西門豹は強く手で制した。ちょっとした頼みごとをして不相応に高額な謝礼を弾み、自分の仲間に抱きこんでしまおうという魂胆は見えている。その手に乗るわけにはいかなかった。さっきの世辞で気をよくするほど、西門豹はやわではない。
「字も豪気だが、肚も太いですな。昨日貧しい農民に施しをしたとか。早速評判になっておりますよ」
 徐粛は、茶目っ気たっぷりに微笑む。持ち上げて気持ちよくさせようという意図は見え透けていたが、どこか憎めない愛嬌があった。生まれつき人に愛される術を身につけた人間なのだろう。加えて、徐粛は声がいい。柔らかな笛の音色のようで、聞く者を心地良くする声だった。昔話を子供に語れば、どんなむずかり屋でも、雲に抱かれたような心地になってすぐに寝入ってしまうだろう。だが、西門豹は本能的に、経験的にその声を警戒した。人をうっとりとさせて騙す詐欺師の声だと感じた。
「たいしたことではありません。彼らの暮らしぶりは実に憐れでした。胸が痛みます」
「洪水のせいです。河伯様の怒りが激しすぎましてな。なかなか鎮められません」
 徐粛は、もっともらしく頷く。西門豹は、もし龍神がいるなら真っ先にあなたを絞め殺すだろうと毒づきたくなるのをぐっとこらえ、
「効き目がないのなら、河伯祭などやらなくても同じではないでしょうか」
 と、冷たくあしらった。目には傲岸不遜《ごうがんふそん》ともとれる蔑《さげす》みの色さえ浮かべている。民の暮らしを顧《かえり》みない軽薄さを、憎まずにはいられなかった。
「とんでもない。やめればこの町はおしまいです。この土地の古くからの俗諺《ぞくげん》に『もし河伯様に妻を娶《めと》らせなければ、大洪水が起きてすべてが水底へ沈み、民はすべて溺《おぼ》れる』と言います。毎年必ず河伯祭を催して、嫁を送らなくてはなりません。まさか、西門様は反対するおつもりではないでしょうな」
「龍神を祭るのはかまなわないのです。信仰ですから」
「県令様はわかっていらっしゃる」
 徐粛は、安堵の表情を浮かべた。
「ですが、はっきり申し上げましょう。民からの費用徴収は反対です。民は疲弊《ひへい》しています。私はこれまでに何度も飢饉に見舞われた農村を視察したことがありますが、あれほどの荒れ果てようは初めて目にしました。洪水もさることながら、河伯祭の費用負担が重くのしかかっているからです。負担を免除して、民を休ませるべきです」
「河伯祭は金がかかるのですよ」
「ならば、儀式を簡素にして、費用を抑えればよいではありませんか」
「格式というものがございます。河伯様は神のなかの神ですぞ。そこらの貧乏神と同じにしては叱られるでしょう」
「では一度試してみようではありませんか。儀式を簡略にしてみて、もし本当にもっとひどい洪水が起きれば、以後私は喜んで三老殿の意見に従いましょう」
「大洪水が起きてからでは遅いのですよ。この地を守るためにやっていることです。皆の協力が不可欠なのです」
「民よりも龍神のほうが大切だとおっしゃるのですか。三老殿は痩せ細った民を見て、なにも思わないのですか」
「もちろん、心を痛めておるのは私とて同じことです」
 徐粛はしれっと言う。
 ――愚問だったな。
 西門豹は、心の内で舌打ちした。罪の意識がないのは、初めからわかっていた。三老は集めた費用を私することを、当然の特権としか思っていない。民の暮らしぶりは目に入らず、有力者の仲間うちでどう利益を分かち合うのか、それしか興味がないのは明らかだった。人間は欲に駆られれば、なんでもする。誰でも平気で踏みにじる。
「心を痛めているのなら、もっと広い見地に立って考えていただきたい」
「立っておりますとも。都からこられた西門様は奇異に思うかもしれません。が、我々は河伯様とともに生きております。俗諺はいわれないことではありません。古人の知恵でありましょう。河伯様を盛大に祀るのは、我ら鄴(ぎょう)の民にしてみれば大切な常識なのです」
 徐粛は嫌な顔一つ見せず、書物の講義でもするように穏やかだった。
 ――なにが常識だ。
 西門豹は腹立たしかった。己の利益のために常識という言葉を振りかざす人間を日頃から嫌悪していた。常識と決めつけて相手の思考を奪い、理性の営みのことごとくに蓋《ふた》をしてしまって相手を自己の支配下に置こうとする薄汚いやり口を蛇蝎《だかつ》のごとく嫌っていた。
 ――確かにあなたは偉大な常識人だ。自分がかわいいのも常識。うまい汁を吸いたいと願うのも常識。仲間に利益を分け与え、ちやほやされたいのも常識。人間の自然な感情に違いない。だが、あなたの常識とはなんだ。ただの己の欲ではないか。それが地位のある人間の「常識」なのか。
 そう痛罵《つうば》してやりたかったが、もちろん言えない。そんなことを口走れば、相手がどんな反応を示すかは、経験を積んだ西門豹には容易に予想がついた。相手を怒らせるのが目的にしても、論法と言葉は慎重に選ばなくてはならない。直截《ちょくせつ》にものを言いすぎて何度も左遷の憂き目に遭った西門豹は、骨身にしみてわかっていた。
「常識を守ることは大事なことでしょう。それはわかります。しかし、常識を守るやり方には二通りあります。一つは常識をなにも疑わず墨守《ぼくしゅ》すること。それがよいものであろうと、悪いものであろうとおかまいなしにです。もう一つは、その常識が正しいものなのかを常に疑い、なんのためにその常識があるのか、その本質を考え、常識のよい部分を守ろうとすることです。どちらがよい方法なのかは、言わずもがなでしょう」
「いや、参りました。なかなか舌鋒《ぜっぽう》鋭いですな。歴代の県令様のなかでも、西門様の頭の回転の速さは抜群ですよ。おそらく、およぶかたはいますまい。稀有《けう》の人材が我が城市へこられたことを私は嬉しく存じます。いや、まったく」
「私はお世辞が聞きたくて話しているのではありません。徐粛殿、この地を治める処方箋は、はっきりしています。民の生活を少しでも落ち着かせ、然《しか》る後に、民を大規模な治水工事に動員するのです。そうすれば、洪水も飢饉もなくなり、皆救われるでしょう」
「まあまあ、そう勝手なことを申されても困りますな」
 徐粛はあくまでもにこやかに、そしてその表情に微量の渋みをにじませながら、きかん気の小僧をなだめるように言う。
「勝手なこととは、どういうことですか」
 西門豹は気色ばんだ。獰猛な野獣の唸りに似た凄みがある。だが、徐粛は大様な態度を崩さない。
「着任早々でやる気なのはわかります。が、冷静になっていただきたい。私からも申し上げておきましょう。河伯祭は我々の祭りです。いくら県令様とはいえ、余計な口を挟まれては、地元の者は黙っていられません。治水工事はぞんぶんになされればいい。ですが、工事を請け負うのは我々鄴(ぎょう)の者です。西門様が我々を理解してくださらなければ、全面的に協力できないでしょう。そこのところをお忘れなく」
「私はより多くの民が幸せになるためにはどうすればよいのか、それを考えているのです」
「きつく響いたかもしれませんが、ここでよりよくお過ごしいただくために、老婆心ながら申し上げたこと。そう喧嘩腰にならずに、まずは仲間になろうじゃありませんか。西門様はまだこの土地のことを知らないのですよ。河伯様は洪水を起こすだけではありません。恵みももたらしてくれるのです。龍がいなければ、雨は降らないのですから」
 徐粛は思わせ振りに言う。恵みの雨とは河伯祭の分配金だ。
「私の考えがわかってもらえるまで、何度でもお話するつもりです」
 西門豹は譲らなかった。並の県令ならそれで丸めこめるのかもしれないが、私は違うと言ってやりたかった。
「いいですとも。話し合うことが大切ですからな。もっとも、堅苦しくせずに、酒でも飲みながら気楽にお喋りしましょう。きっと我々のことを理解してくださると思います。お忙しいところ、長居してしまいました。ではまた」
 徐粛は、桃の花でも眺めるようになごやかな微笑みを浮かべて去った。
 隣の部屋から張敏が出てきた。緊張した面持ちをしている。
「冷やひやしました」
「聞いていたのか」西門豹は言った。
「盗み聞きをしたのではありません。お声が大きくて、部屋中に響いていましたから」
「あれくらいで怯《ひる》むな。向こうは海千山千だ。こちらが挑発しても、迂闊に乗って話がこじれるような真似はしてこない。今までどんな県令がきても、そのたびに抱きこんできた自信もあるだろうしな」
 西門豹は思いを巡らすようにして腕を組み、硬く唇を結ぶ。
「わざと喧嘩をふっかけたのですか」
「そうだ。正攻法では、こちらに勝ち目はない」
「どういうことでしょう」
 張敏は眉間に浅い皺を寄せ、首を傾げた。
「鯀《こん》と禹《う》の話は知っているな」
「はい。洪水を治めたという神話ですね」
「鯀は自然の摂理に背いて河をせき止め、山を崩し、沢を埋めようとして、失敗した。つまり、力押しではだめだったということだ。鯀の後を引き継いだ禹は、天地に従い、河の勢いをたすけて、水の流れをよくしたから、治水に成功した。力ずくで困難を押さえこむのではなく、逆に相手の力をうまく使ったのだよ。洪水対策も、県を治めるのも同じことだ。相手の力が大きければ大きいほど、その逆手を取ることを考えねばならない」
「しかし、さきほどの西門様は力押しのように見えました」
「相手は、真綿でくるむようにしてこちらをとりこむつもりだ。ずるずるとやられたのでは、相手の力を利用できない。だから、怒らせて反発を引き出そうとしたのだ。圧力をかけ続ければ、必ず向こうも負けずに押し返してくる。その時が好機だ」
「そうでしたか。ですが――」
 張敏は、納得と困惑が入り混じった表情で不安そうに言葉を濁す。
「賭けなのはわかっている。だが案ずるな。成功させてみせる。弱い者いじめは許さない」
 西門豹は、世界中が束になってかかってきても決して屈しないとでも言いた気に、異相の頬に不敵な笑みを浮かべた。



(続く)


お茶目な保険 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第17話)

2011年04月06日 20時54分02秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 ルイス・フロイスの『日本史』を読んでいたら、思わずほほえんでしまったシーンがあった。ちなみに、この本は戦国時代に日本へキリスト教の布教にやってきたイエズス会の宣教師が書いたものだ。
 洗礼を受けたある老人が数珠をくりながら「南無阿弥陀仏」と唱えていた。それを見た司祭が驚き、なぜそんなことをするのかと尋ねる。あなたはキリシタンではありませんか、と。老人の答えがまたふるっている。
「私は今まで大の罪人でございました。そして私は、キリシタンのコンタツ(筆者註・数珠)でもってお祈りし、私たちの主なるデウス様に、私の霊魂に御慈悲を垂れ給えとお願い申しております。しかし私はお説教において、主なるデウス様はお裁きの折、大変に厳正であると承りましたので、私が死にます時、自分の罪があまりに多いために、デウス様が私をその栄光の中へ導くに価しないと思し召されることがたぶんにあり得ようと存じます。それゆえ、私はそういう場合に備えて、この数珠《コンタツ》で阿弥陀様にもお祈りし、その時には極楽と言われる浄土へお導き下さるようにと願っているのです」
 老人の答えを聞き、居合わせた人たちは楽しくなって笑ってしまった。司祭は洗礼を受けた時にあなたの罪はすべて赦されているのですよと言い、阿弥陀様には祈らないように説得した。
 おそらく、この老人は自分の心と真摯に向き合い、どうすれば自分の魂が救済されるのかを真剣に考えたのだろう。そして、その結論は自分の罪深さを自覚することにほかならなかった。これではとても救われないかもしれないと。
 彼は敬虔なキリシタンになる前は、敬虔な仏教徒だったのだと思う。キリスト教も仏教もこの世は地獄だと説く点では一致する。この二つの宗教は「地獄の思想」でできているから、敬虔に信仰すればするほど己の罪深さを思い知ることになる。戦いの続く戦国時代にあっては、なおさらそんな機会が多かったかもしれない。
 それにしても、ゼウス様がもし駄目だった時のために備えて阿弥陀様も拝んでおくとは、なんともお茶目な保険だ。阿弥陀様はいわばキープ君扱いだけど、それでも救ってくださると老人は阿弥陀様の懐の深さを信じていたのだろう。いかにも日本人らしい話だと思う。



(あとがき)
 引用は、『完訳フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)による。

 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第17話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

『西門豹』 (第2章 - 3)

2011年04月05日 21時30分08秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 貧しい村だった。
 どの家も土塀が崩れ、激しく痛んだ日干しレンガ造りの家屋が覗き見える。
 破れた板戸を押し、門をくぐった。
 二人が奥の部屋へ入ると、やつれた中年女が疲れ果てた風に平伏した。黒ずんだ蒲団に垢じみた男の子が臥せり、荒い息を繰り返す。外は乾いた風が吹いているのに、なぜか肌に粘つく湿った空気がよどんでいた。彩は男の子の腕を取り、脈を診た。
「どうだ、助かりそうか」西門豹は訊いた。
「脳に熱の塊がありますが、なんとかなるでしょう。すみません、今からお祓いをするので外で待ってください」
 彩は手拭いで男の子の額の汗を拭き、包みを開く。四つ目のおどろおどろしい形相をした鬼祓いの面と薬草が出てきた。西門豹は、男の子の母親と一緒に部屋を出た。
 女が西門豹にもたれかかった、かと思うと崩れ落ちる。西門豹はとっさに抱きとめた。女は気を失っている。西門豹は枕を抱いているのかと思うほど軽い体を土間に横たわらせ、表へ出て人を呼んだ。
 ぼろをまとった女子供が集まる。誰の顔も、誰の首筋も、倒れた女と同じように肌は脂気《あぶらけ》もなくかさかさに乾き、骨と皮ばかりになっている。破れ衣はどれもだぼだぼして見えた。痩せ衰えたために服が大きくなったのだろう。
「生き地獄」
 西門豹は、目を虚ろにしてつぶやいた。そうとしか思えない。
 事態を告げると、女たちは一言も発せず無関心とも思えるほど面倒くさそうに頷き、ぞろぞろと門の内へ入った。
 彩の唱える悪霊祓いの呪文が朗々と流れる。高く低く節をつけたその声は、村人たちの弔いのようにも響いた。
「くま」
 幼い女の子がぽかんと西門豹を見上げる。小さな腹は、栄養失調のせいで風船のように丸く膨らんでいた。その子の姉だろうか、顔立ちのよく似た十二歳ほどの娘がさっと幼児を抱きかかえ、怯《おび》えた風に里道の向こうへ駆けてゆく。
「どうもご無礼をつかまつりました」
 老人が現れ、前に杖をついて深く頭を下げた。
「あなた様のような立派な体格のかたを見たことがないもので、あんなことを口走ったのでしょう。どうか子供のことですので、ご容赦ください」
 白くまばらなあごひげをたくわえた顔貌《かおかたち》に、西門豹はどこか惹《ひ》きつけられた。修練《しゅうれん》を重ねて人間の生臭味をそぎ落としたような、山水画から抜け出してきた仙人にも似た風貌《ふうぼう》だった。
 西門豹は会釈して名乗った。老人は、前の村長の劉騰《りゅうとう》だと告げる。代々村長の家で、今は彼の息子が村長を務めていると言う。祈祷と治療の間、彼の家で待たないかという申し出を受け、西門豹は厚意に甘えることにした。
 劉騰の家もあばら屋同然だった。村長の家であれば立派な家具や調度品がなにかしらあるはずだが、それらしいものはなに一つ見当たらない。それどころか、家具らしい家具も、調度らしい調度もない。天井の隅には、大小の蜘蛛の巣が張ったままになっている。屋根が壊れ、一条の陽射しが家の中に舞う埃を照らしていた。
 劉騰は縁の欠けた茶碗に自家製の糟酒《かすざけ》を注ぎ、西門豹に勧める。
 二人は乾杯した。酒は粗悪な雑穀から醸造したものだった。舌を刺す臭みがあり、どうにか飲めるほどの味だが、赤貧の中で精一杯もてなしてくれていることを考えると西門豹は貴い酒に思えた。作法通り一息に飲み干し、茶碗を逆さにして空けたことを証した。
 前の村長は、問わず語りにこの村の状態についてぽつりぽつり語った。昔はそれなりに豊かだったが、水害続きですっかり畑が荒れ、村人の数は三分の二に減った。しかも、盗賊団が増え、襲撃を受けることもしばしばあると言う。
「なにもない村へ押し入るのですから、賊もよっぽど困っておるのでしょう」
 劉騰は恬淡《てんたん》と笑う。諦めているのか、もともとあっさりした性格なのか。おそらく、その両方なのだろう。
「ところで、河伯祭に関して妙な噂を聞いたのですが、なにかご存知ないでしょうか」
 西門豹はこの老人ならと噂の内容を話し、河伯祭について調査しているところだと告げて協力を求めた。劉騰はのどにからんだ痰を苦し気に切り、なにか言いかけて口をつぐむ。
「私は良民のためにここへ赴任してきたのです。なんでもおっしゃっていただきたい」
 西門豹は膝をにじり寄せ、身を乗り出した。
「実は、毎年お役人が河伯祭の費用を徴収しにやってきます。麦ばかりではなく、豆類も、なけなしの雑穀まで持って行ってしまわれます。ただでさえ収穫が少なくて困っているというのに、これでは食べるものが残りません」
「そうでしたか。役人も強盗も似たようなものですね」
 役所の記録は調べたが、河伯祭の費用徴収についてはいっさい記載がなかった。
「まったく、なんと言えばよいのか。河伯様のお怒りが激しいということで、祭りを大がかりになさるのはよろしいのです。それで怒りがおさまって、河が元通りになれば、ここの百姓たちも安心して畑を耕せるのですから。ただいただけないのは、集めた銭の大部分を、前の県令様や長老がたや商人たちが自分たちの懐へ入れてしまうことです。数百万銭も集めて、河伯祭に使う額はわずか二三十万銭。これでは詐欺《さぎ》ではありませんか」
 劉騰は、他人事のように淡々と語る。それがかえって痛々しい。
「彩殿はそのようなことを知っているのですか」
「たぶん知らないでしょう。巫女様は、祭事《さいじ》を執り行なって分け前をもらうだけですからな」
「では、取り仕切っているのは誰ですか」
「三老《さんろう》様です」
 三老は長老の中でも一番地位が高く、徳のすぐれた人物とされていた。どの城市でも、三老は最高の敬意を払われる。また三老のほうでも、民の暮らしぶりにこまかく目を配り、徳行を奨励して非道が行なわれればそれを正す。いわば民衆の精神的指導者であり、さらに地元住民の意思を代表して政府へ伝えるという重要な役割を担っていた。
「呆れたものだ。率先して民から搾取《さくしゅ》するとは。とくはとくでも、損得の得にすぐれたかたなのですね。私がやめさせます」
「頼もしいお言葉ですが、難しいでしょう。前の県令様も最初はそうおっしゃっておられました。ですが、地元の者から見れば県令様はよそ者。鄴(ぎょう)の慣例を改めようとしても、地元の者は言うことなど聞きません。多勢に無勢、結局だめでした。そのうち、銭の味を覚えてご自分から率先して費用を集めるようになられましたよ。いや、これはたいへん失礼なことを申しました」
「いえ、いいのです。正直にお話していただいたおかげで、いろいろなことがわかりました。なんとか手立てを考えます」
「そろそろお祓いも終わった頃でしょう。参りませんか」
 劉騰は西門豹の意気ごみには答えず、力なく首を振る。西門豹は、諦めるよりほかに術のない劉騰の苦衷《くちゅう》を察し、
「わずかばかりですが、どうぞお受け取りください」
 と、布銭《ふせん》(農具の鋤状《すきじょう》の硬貨)の入った巾着《きんちゃく》を差し出した。
 劉騰はかっと目を見開き、怒りに唇をわななかせ、枯れた体のどこにそんな力があるのかと思うほどの力で茶碗を土間へ投げ捨てる。茶碗が割れ、乾いた音を立てる。
「私は窮《きゅう》しております。まずい糟酒をすすり、始終鼻水を垂らすみっともない老人です。が、乞食ではありません。いわれもなく恵んでいただくわけには参りません」
「そんな風に取らないでください」
 西門豹は穏やかに諭した。自尊心だけが高い官吏なら老人の非礼に怒り出しただろうが、西門豹の顔にはいたわるような微笑が浮かんでいる。西門豹は、飢饉《ききん》のさなかでも誇りを失わない老人に好意を抱いた。
「恵むのではありません。村の子供たちのために使っていただきたくてお預けするのです。彼らがやせ衰えているのを、見過ごすわけにはいきません。せめて、子供たちに温かい食事を与え、暖かい服を着せてやってください」
 劉騰の手を取り、力強く巾着を握らせた。風雪を刻んだ劉騰の皺にしょっぱい涙が流れる。涙の粒が西門豹の手へこぼれ落ちる。
「先ほどの無礼はお許しいただきたい。ここ数年来辛いことばかりでしたが、今日ほど嬉しい日はありません。我々に頼る人はおりません。どうか助けてください」
 劉騰は床に額をこすりつけ、鼻汁をすすり上げる。西門豹は、胸がこみ上げて目頭が熱くなった。自分を必要とする人がいる。その人たちのために正しいと信じたことを成し遂げるのだと、強く誓った。
 涙で動けなくなった劉騰を残し、病人の家へ戻った。すでに祈祷は終わり、彩は床の上に置いたすり鉢で薬草をすり潰していた。苦い匂いがぷんと鼻を衝く。
「よくなったようだな」
 西門豹は、気持ちよさそうに寝息を立てる男の子を見やった。その隣には、子供の母親が横たわっている。疲れてぐっすり寝入っているようだ。
「ええ、もう大丈夫です」
 彩は振り向き、明るい笑顔を見せる。こまかく並んだまっさらな歯がこぼれる。夏空に向かって咲くひまわりのようだ。上気して紅潮した顔に、健やかな汗がにじんでいる。その表情にも、体にも、いつも放つ色香はない。城市で見かける良家の子女といったところだろうか。あどけない十九の娘の素顔に戻っていた。
「熱も微熱になりましたから、お薬を飲んで三四日寝ていれば元に戻ります。おばさんのほうはちょっとした貧血ですから、少し休めばよくなるでしょう」
「そうか。それはよかった。部屋の空気もさらっとしたな」
 西門豹は中を見渡した。
「困らせ屋さんの霊が憑《つ》いていたので慰めてあげて、元居たところへ戻るよう言い聞かせました。ちゃんと言うことを聞いて出て行ってくれたから、空気もよくなったのですよ」
「ほう、調伏《ちょうぶく》するのではないのか」
「そんなかわいそうなことはいたしません。西門さま、元から悪い霊なんていないのですよ。寂しかったり、傷ついて自分を見失っていたりするから、悪さをするだけです。ともだちになってあげるからさみしくなんかないよと言ってあげれば、まともになります」
「なるほどな。悪い人間もそうだといいがな」
 西門豹は、三老や有力者たちの顔を思い浮かべた。
「人も同じです」
「では、悪い奴らも、彩殿にお祓いしてもらって真人間に戻してもらうか」
「いつでもお引き受けします」
「それなら、まず私を祓ってくれ」
 西門豹は、冗談とも本気ともつかない風に言う。
「いいですわ。薬を調合したらすぐに始めましょう」
 破顔した彩は大きな瞳をくるくる動かせ、陽射しを浴びた水飛沫のように光らせる。
「西門さまは、ご冗談などおっしゃらないかたなのかと思っておりました」
「本気だ」
 西門豹は、澄まし顔で逆毛の眉を片方だけ吊り上げた。彼なりの精一杯のユーモアだった。
 彩はすり鉢を脇に置き、笑いをこらえきれず身をかがめた。打ち震える背中は、春風に揺れる一面の菜の花に似ている。ふっと、西門豹の心の中に透きとおる風が吹き抜ける。胸が軽やかになる。西門豹は鷹のような鋭い眼つきをやわらげ、腹の底から野太い笑い声を放った。



(続く)

『西門豹』 (第2章 - 2)

2011年04月04日 04時09分32秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 三日後の朝、西門豹は県庁の門へ出た。
 馬番が葦毛《あしげ》の馬を牽いてくる。西門豹自慢の東胡産《とうこさん》の馬だった。毛並みは中の上といったところだが、騎馬民族が育てた馬だけあって偉丈夫の西門豹が乗っても簡単にへこたれない丈夫さが身上だった。鍛えあげた古強者の風格がある。
 足を蹴り、宙へ舞うようにしてさっとまたがった。
 一直線に大通りが伸び、その先に城市《まち》の南門が見える。快晴の遠出日和だ。大きな獅子鼻《ししばな》の穴を広げてまぶし気に爽やかな朝の空気を吸いこみ、威勢よく手綱を一振りした。
 城市を抜け、小麦畑の中の道を飛ぶように駆けた。
 目的地は彩の住む村だった。
 額に汗がにじむ。
 胸が高鳴る。
 あの娘と言葉を交わすのだ、と思っただけで心がせいた。
 小さな原生林を抜ける。小高い丘の上に集落が見えた。遠目にも目に飛びこんでくるほどの真新しい白壁の家が、等間隔で整然と並んでいる。入口には、高い柱が二本、青空を突き刺すようにしてそびえていた。
「あれが目印だな。巫女の村か」
 巫女だけが住むという話だった。
 丘を駆け登り、柱の傍で止まった。呼びかけて案内を請おうとすると、すぐ脇の祠《ほこら》の陰から色白の女が音もなく現れる。彩だった。
「お待ちしておりました」
 彩は、優雅に揖《ゆう》(両手を胸の前で組んで上下させる礼)をする。西門豹は、少年の日にあったような青いときめきを覚え、
「どうしてわかった?」
 と、骨ばった顔を微笑ませながら訊いた。西門豹の目許に朴訥《ぼくとつ》にも見える笑い皺が浮かび、二重まぶたが意外にかわいらしい曲線を描く。滅多に見せない顔だった。
「ゆうべ星を見て知りました。西門さまは、どうして今日わたくしが村にいるとわかったのですか」
「そんなことは考えもしなかった。話をしたくなったから来ただけだ」
「先日は大変ご無礼いたしました」
「気にしなくていい」
「恐れ入りますが、村の中では馬には乗れません。どうぞ降りてください」
 彩は、取り澄ました表情のまま綱を取る。西門豹は馬を降りた。彩は馬の鼻を優しくなで、なにごとかを語りかける。
「馬の心がわかるのかな」
「はい。ですが、この馬はまだ心を開いてくれません。会ったばかりだからでしょう。そのうち友達になれます」
 彩は、祠の脇の槐《えんじゅ》に馬を繋《つな》いだ。木陰には桶が二つあり、新しい秣《まぐさ》と水が用意してある。星占いの話はどうやら本当のようだと得心《とくしん》がいった。
「どうぞ、こちらへ」
 彩は掌を上へ向け、村の中心を指し示す。
 村の中央は広場になっていて、奥には極彩色の模様を施した大きな社が建っていた。ぴんと張りつめた空気が漂い、肌を突き刺す。人影は見当たらないのに、誰かに見られているような厳しい視線を感じる。
 ――神々のまなざしか、もののけのまなざしか。
 西門豹は、ふとそんなことを思い、
「一年中、ずっとここにいるのか」
 と、きれいに掃き清められた広場を横切りながら訊いた。
「そうです」
「実家へは帰らないのか。父母が恋しくはないか」
「おりません。赤子の時、わたくしはさきほど馬を繋いだ槐の下に捨てられました」
「すまなかった。気を悪くしないでくれ」
「いいのです。わたくしはここで大切に育てていただきました。ここがわたくしの家です。寂しいなどと思ったことはありません」
 一番大きな家へ招かれ、軒先で足を洗ってから入った。
 部屋には香がたちこめている。すっと心が安らぐ香りだった。
 彩は敷物を勧める。西門豹は正座して、二人は向かい合った。深い森の奥にいるような、どこまでも静かな部屋だった。この部屋の雰囲気は彩の瞳に浮かぶ不思議な静けさと同じだと、西門豹はふと気づいた。彩の後ろの壁いっぱいに、緋色《ひいろ》の地に金糸で龍を刺繍した荘厳な緞子《どんす》がかかっている。雄々しく体をくねらせ、空を昇る龍だった。
「この間の話の続きだが、そもそもなぜ龍神は怒っているのだろうか」
 西門豹はさっそく切り出した。龍の実在を信じたわけではない。彩がなにを考えているのか、隅から隅まで余すところなく知りたかった。
「人があるがままを壊すからです」
 ふっと彩の顔つきが変わり、真剣なまなざしで西門豹を見つめる。
「あるがままとはなんだ」
「この世のことです。河、森、山、この世のすべてのことでございます。河伯さまは、人がこの世のすべてを壊し、調和を乱すことにたいへんお怒りです。とりわけ、たくさんの木を伐って森を失くしてしまったことに」
「河の神がなぜそのようなことに怒る?」
「すべては一つに繋がっております。森が壊れれば、河も壊れます」
「たしかに、鉄を作るために木を伐りすぎてしまった。製鉄には大量の薪が必要だからな。昔は森が雨水をたくわえたものだが、今ではひとたび大雨になれば、雨水は荒地の表面を流れ、そのまま河へ注ぎこむ。一度に大量の雨水を抱えこんだ河は溢れ、洪水が起きる」
「森を壊し、森の神々をおろそかにした報いです」
「では、森を元通りにすれば、龍神の怒りもおさまるのだな」
「そうかもしれません。ですが、そもそもの問題は思い上がった人の心にあります」
「思い上がってなどいないが」
「そうでしょうか。人は森羅万象《しんらばんしょう》に宿る神々とともに生きています。それを忘れてはなりません。人は青人草《あおひとぐさ》です。あるがままの土から産まれ、青々と命を繁らせ、ついには再び土へ還《かえ》る草です。人もまた、あるがままの一部にすぎません。それなのに、己の欲のために森や河をほしいままにするなどもってのほかです。これを思い上がりと言わずに、なんと言えばよいのでしょうか」
 彩の瞳にかすかな怒りがたぎった。狂信者の眼のようにも、子を守る本能に駆られた母の眼のようにも見える。どちらにせよ、息を吹きかけた炭火のようで綺麗だった。
「人が欲深いというのは理解できる。だが治水に成功したよその県では、神々を祀りながら堤を築き、開墾して、民の暮らしが上向いている。今のように貧しさに追われるのではなく、暮らしが楽になっている。それはいけないことなのか」
「いけません。あるがままを壊せば、そこに宿る神々が死にます。神々を殺せば、人にも必ず跳ね返ってきます」
「どういうことだ」
「神々が死ねば、人も死にます」
「死んでなどいない。むしろ、ここよりもずっといい暮らしをして、活きいきとしている。私はこの目で見てきた。嘘ではない」
「今はいいでしょう。ですが、やがて死にます。まず、心が死にます」
 ――心が死ぬ。
 その言葉が西門豹の心のどこかを穿った。心の水面に石の礫《つぶて》を投げ入れられたようで、はっと彩を見つめた。
「なぜだ」
 西門豹は、眉間に深い亀裂を刻む。
「あるがままに棲む神々は、わたくしたちの心を見つめています。そうして、わたくしたちの心を支えています。だからこそ、人の心も生きていられるのです。その神々が死ねば、人の心は見つめられず、支えられず、死んでしまいます。心が死ねば、おのずと体も滅びましょう。人はすべて死に絶えてしまうでしょう」
「胸のすくようなことを言う」
 西門豹はからっと笑った。彩の思い切った物言いが小気味よかった。
「人が全部死んでしまえば、この世はさぞせいせいするだろうな。だが、そんなことが本当に起きるかな」
「わたくしには、はっきり見えます」
「では一つ訊くが、龍神も死ぬのか」
 西門豹は真顔に戻った。
「それは――」
 彩は顔を強張らせる。悲しみの薄い膜が彼女の頬を覆う。薄く塗った蝋《ろう》のようで、触れればひび割れてはがれ落ちそうだ。
「このままではそうなるかもしれません」
「龍神が死ねば、彩殿の心も死ぬか」
 西門豹は、思わず畳みかけた。訊かずにはいられなかった。彩はひっそり目を瞬かせ、なにも言わず身じろぎもしない。思いつめた瞳が風に弄《もてあそ》ばれる鈴のように揺れる。西門豹は、獲物を追うような視線で緞子の龍を睨んだ。心の底に憎しみの錐《きり》が突き刺さる。犬くらいならひねり殺せそうなごつい手を握りしめた。
 ――龍神が恋敵などとは、ばかげている。
 そう思ったが、どうにも抑えられない。
「彩様」
 突然、息を切らした男の声が響いた。
「せがれがすごい熱を出して、うなされておるんです。それだけじゃなくって、火柱が見えるなんて叫んで走り回るんですよ」
「わかりました。すぐに行きましょう」
 彩は、涙まじりの声ながらも気丈《きじょう》に答える。大巫女としての責任感がそうさせるのだろう。西門豹は、その健気《けなげ》さがいとおしくて、
「送っていこう」
 と、立ち上がった。
「ありがとうございます。助かります。では、わたくしは道具を取って参りますので、槐のところでお待ちください」
 彩は、硬い面差しに無理した微笑を浮かべ、奥の部屋へ消えた。
 西門豹は、男を伴って家を出た。男は、陽に焼けた肌から土の匂いを放つ丸きりの農民だった。話を聞いてみると、男の息子は九つで、八人育てた子供のうち最後に生き残った一人だと言う。他の子供は飢えと病気で死んでしまった。
「苦労したな。ところで、彩殿の医術はどうだ」
 西門豹が慰めるように肩を叩いて尋ねると、
「そりゃもうすごいですよ。せがれは、去年も彩様に助けていただいたのです」
 と、男は憂鬱だった顔をぱっと輝かせる。
「信頼しているのだな」
「もちろんですとも。彩さまが大巫女になられて、みな大喜びです。あんなに力を持ったかたは、ほかにいません。河伯さまだって、きっと鎮めてくださるでしょう。洪水はなくなりますよ」
「そうなればよいがな」
 それ以上返す言葉もなく、西門豹は思案気に腕を組んだ。
 巫術《ふじゅつ》で水害がなくなるのなら苦労しない。しかし、たとえそれを話してみたところで、精霊信仰と言えば精霊信仰、迷信と言えば迷信の世界観の中で生きている農民に理解できるはずもない。そんな彼らをどう導くのかが難しい。
「お待たせしました」
 彩が走ってきた。男の住む村は十五里(約六キロ)離れたところだという。二人で先に行くことにした。西門豹は後ろに彩を乗せ、馬を走らせた。
 彩の腕が西門豹の腰を抱く。西門豹は背中に柔らかい果実の甘い重みを感じ、じわりと伝わるあこがれの温かみを背中で測った。
 ――とても手の届きそうにない女を乗せている。
 西門豹は、まっすぐ前を見た。見開いた目には、引き締まった凛々《りり》しさが浮かんでいる。
「この馬は、なんと呼ぶのでしょうか」
 彩が問いかける。
「名前はない。なぜ馬の名を訊く」
「乗せてもらっているのに、名前を知らないのはおかしいですわ」
「彩殿が名付け親になってくれ」
「よろしいのですか」
「もちろん。馬も喜ぶだろう」
「では、蒼い風と書いて蒼風《そうふう》ではいかがでしょうか」
 彩の声は弾んでいた。
「よい名だ。馬にかわって礼を言う」
 蒼風は脚を速め、細く伸びる土埃の道を駆けた。



(続く)

『西門豹』 (第2章 - 1)

2011年04月02日 20時03分27秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 慌ただしい日々を送った。
 連日、長老たちや大店の商人や工場経営者といった地元の有力者が入れ換わり立ち換わり挨拶にやってくる。西門豹は、彼らとの面会に追われた。
 志を同じくする地元の協力者が欲しかったが、おもねり媚《こ》びて取り入ろうとする者ばかりで、これはと思える人物には出会えない。彼らは、西門豹を都へのパイプ役として利用したいだけだった。彼らとのやりとりはどうにも退屈でひまわりの種でもかじりながら適当にあしらいたかったが、そうもいかない。訪問客が差し出す近づきの印の品をやんわり断り、退屈も仕事のうちと割り切って折り目正しい県令を演じた。
 そんなある日、気になる客が西門豹を訪《おと》なった。
 書記官が大巫女《おおみこ》の訪問を告げた。
 巫女は、農村では知識階級であり、医師であり、神々と民衆を取り結び、民間の信仰を司るものとして農民の尊敬を集める存在だ。巫女の頭である大巫女は重要な客人だった。例の河伯祭についても、事情を聞き出さなくてはならない。
 西門豹は母屋の中央の間へ通すよう言いつけ、いつもより念入りに衣冠を整えた。
 部屋へ入ると、龍をあしらった銀細工の髪飾りをつけ、絹の白装束に身を包んだ若い娘がひれ伏していた。この白装束は一般人が葬式で身にまとう衣服であり、つまり死人=霊魂と向かい合う時に着る喪服が巫女の制服だった。
 西門豹は、前任者が遠い蜀《しょく》の国からわざわざ取り寄せたという最上質の漆塗りに精巧な螺鈿《らでん》をちりばめた座椅子へゆったり腰かけた。巨躯《きょく》と独特の顔つきのために、西門豹は常に峻厳《しゅんげん》な印象を与えがちだが、よくよく見てみれば、しっかりと結んだ口許は人を包みこむ大海のような穏やかさを帯びている。たおやかな陽光が窓から射しこむ。その光に螺鈿がきらめく。
「ようこそ参られた」
「恐縮にございます」
 女の声は凛と澄んでいた。岩間からこんこんと湧き出す甘露《かんろ》を想い起こさせる声だった。俗物の応接に明け暮れていた西門豹はどこか心を洗われた気持ちになり、さっぱりとした麻布で束ねた女のおろし髪を見つめた。
「面を上げられよ」
 大巫女は、恭《うやうや》しく顔を上げた。
 髪飾りの両端に吊るした翡翠《ひすい》がわずかに揺れている。深くしっとりとした色合いのよほどの上玉だった。それが頬にかかる丁寧に切りそろえられた漆黒の髪と、純白と形容したくなるほどのまぶしい肌とのあざやかなコントラストに涼しいアクセントを添えていた。大巫女は瞬きもせず、じっと西門豹を見つめる。
 ――神々の高級娼婦。
 西門豹の脳裏にそんな言葉が閃《ひらめ》いた。
 大きすぎるほどの黒目がちな瞳が、人のたどり着けない深い山奥にある沼のようで不思議な静けさをたたえている。それは、神々に仕える者だけが持つ揺るぎない確信と完璧な無垢からくるものなのかもしれない。だが、服の上からもそれとわかる豊満な肉体は、まるで秘密の花園でもぎ取った極上の白い果実のような、甘く強い色香を放っている。これ以上丸みを帯びれば崩れそうな、これ以上細くなってもなにかしら物足りないような、そんな危うい均衡《きんこう》を保つ腰から尻へかけての稜線《りょうせん》は、若葉に浮かぶ朝露の表面張力にも似たみずみずしい緊張感に溢れている。柔らかくみなぎった清楚な綾衣《あやごろも》の胸元に、桃色の頂上と小さな乳輪がかすかに透けていた。
 色気にあてられたのか、湿った生温かさに胸を締めつけるようだったが、
「名は?」
 と、西門豹はそんな感情の揺れをおくびにも出さず、短く尋ねた。
「彩《さい》と申します」
 彩は、西門豹の目から視線を逸《そ》らさずに返した。
「ずいぶん若いと見受けるが」
「十九です」
 彩は、今日から大巫女を務めることになったと言う。
 先代の大巫女は、半月前に七十過ぎの老齢で他界した。大往生だった。通常なら比較的年齢の高い経験豊かな練達者が後継者になるところだが、まれにみる高い霊力を買われた彩は先代の遺志もあってとくに選ばれた。もちろん、河伯を鎮《しず》めるのを期待されてのことだが、そこまで語ったところで彩はそんな自信ありませんとつぶやき、困ったように瞳を伏せた。
「正直だな」
 西門豹は淡々と言った。
「ないものをあるとは申せません」
「いいのだ。別に責めているわけではない。それで、どうするつもりだ」
「祈りよりほかにありません。わたくしのすべてをかけて祈り、河伯さまを大切に祀《まつ》るのでどうか洪水を起こすのはやめていただきたいと、想いを伝えるよりほかにありません」
 彩は唇をかみしめる。ふっくらとしたあでやかな紅が押しつぶれる。
 西門豹は、意見と立場は違うものの彩のひたむきさに素直に共感した。魂の一途さを彼は好んだ。ふと、己の使命を一生懸命語る彼女を励ましたい心持ちにさえなったが、それはできない。彼には彼の使命があった。
「ところで、私は龍を見たことがないのだが、どのような姿をしているのだ? あなたの髪飾りには龍が彫ってあるが、そのような形なのかな」
「はい、さようでございます」
「どうしてわかる」
「何度も会っています。髪飾りの河伯さまは、わたくしが見た姿をもとにして作りました」
 彩の声は、あくまでも真摯《しんし》だった。
 予期しなかった答えに虚を衝かれた思いがして、西門豹は途惑った。書物の中で見知らぬ漢字に出くわした時のようにとっさに意味を掴めず、くぼんだ眼窩の両目をみはった。
 ――嘘をついているとも思えない。世の中には人知を超えたものがあるからな。神がかりの巫女ならあり得ることかもしれない。
 西門豹は思い直し、どんなに奇異に思えても、彼女にとっての真実を述べているものとして受けとめようと決めた。
「いつから会っているのだ」
「物心のついた頃からです。ついこの間、斎戒《さいかい》していた時にもこられました」
「龍神はどんな様子だった」
「激しておられます。痛々しいほどのお怒りようです。かわいそうでなりません。わたくしは何度も河伯さまを抱きしめようとしましたが、かないませんでした」
「抱きしめる?」
「さようです。抱きしめていたわってさしあげたかったのです。苦しみをやわらげてさしあげたかったのです。悲しゅうございます。昔は河伯さまのほうからわたくしを抱きしめ、情を交わしてくださったものでした」
「情を交わすとは、まさか――」
「男女の営みのことでございます」
 彩の瞳に光がはねる。完熟した甘い桃のような頬に滴が伝う。
 西門豹は思わず犬歯をむき出し、歯噛みした。
 髪を乱した彩が滑らかな雪肌の太股を開き、ぬらぬら光る龍の長い胴を両脚ではさみこみながら、胸いっぱいの吐息をつくありさまが心をよぎる。神話の一場面でも見るような光景だった。どこにでもありそうで、どこにもないような切ない怒りが胸の底に湧く。嫉妬だと、自分で気づいた。
「わたくしは嫌われたのかもしれません。ですが、河伯さまはまだ会いにきてくださいます。それが、唯一の望みです」
 彩はのどをつまらせ、白絹より白い指で目の端を押さえる。
 西門豹は、腰に帯びた韋《なめしがわ》を右手で何度も揉《も》みしごいた。自分の気性の激しさを心得ていた西門豹は、心が波立った時、いつもそうして気を鎮めた。
 ――若い巫女に懸想《けそう》している場合ではない。治水と開発が焦眉《しょうび》の急だ。
 自分にそう言い聞かせ、彩をなだめて話を続けようと試みたが、彩はただ肩を震わせるだけだった。むせび泣く仕草は、失恋を嘆く若い娘のそれだった。そんな純情可憐な姿が西門豹の胸についた火種をいじりまわす。
「申しわけありません。今日はこれにてお暇させていただきます」
 彩は舞うようにして両手を床につき、お辞儀する。
 沈んだ後姿を見送った後、西門豹は座椅子へ深く腰かけた。
「坐り心地が悪い」
 座椅子を叱りつけ、せわしなく尻を浮かしては何度も坐り直した。だが、やはり落ち着かない。韋を揉み、それでも足りずに両手を組んで指の骨を続けざまに鳴らし、逞《たくま》しい体をよじって背骨を鳴らした。ちょうどよい坐りかたを見つけるまで、ずいぶん手間取った。
 
 

(続く)

『西門豹』 (第1章)

2011年04月01日 20時42分41秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 三月初めのまだ寒い時期だった。北風が強い。土手に立った西門豹《せいもんひょう》は、顔にかかる髪を払いのけ、手をかざした。河原にはひび割れた黄土が広がり、その先に太い泥水の帯が西から東へ緩やかに流れている。
 黄河。
 鈍く光る河は、拍子抜けするほどおとなしい。まるで、荒々しい情交の後、なにごともなかったかのように眠る女のようだ。乾期《かんき》の今は大河も息をひそめているが、やがてこの地にも雨期が到来して水かさが増し、ひとたび嵐の夜を迎えれば、だだっ広い河原も飲みこんで黄色い濁流がほとばしるのだろう。そうして、快楽の極みに達した女のように荒れ狂うのだろう。
「暴れ龍が棲んでいるらしいな」
 西門豹は言った。彼の顔貌《がんぼう》は、野人を思わせる異相《いそう》だった。額は力強くせり出し、濃い眉毛は逆立ち、眼窩《がんか》のくぼみは粘土の塑像《そぞう》に太い鏝《こて》を力任せに押しこんだかのようだ。黒曜石のように澄んだ瞳には、狩人のような鋭い眼光をたたえている。出くわした相手がたとえ龍であったとしても恐れずに狩ってしまいそうな、そんな闘志溢れたまなざしだった。
「河伯《かはく》(黄河の龍神)か。いるなら出してみろよ」
 傍らの李駿が吐き捨てる。李駿《りしゅん》は、均整の取れた優男だった。眉目秀麗《びもくしゅうれい》。清々しい竹のように涼しい香りを漂わせる。そのくせ、言葉に毒が多い。
「出てくるのかどうかは知らないが、いるのだろ」
 西門豹は、よくとおる低い声で言った。
 この魏国の鄴(ぎょう)県では、夏のたびに河が氾濫《はんらん》し、おびただしい数の人家と農地が水没する。民は、河に龍が棲《す》み、その荒ぶる龍が洪水を起こすと信じていた。西門豹は、この地に県令(首長)として赴任してきた。
「駿、信じれば、実在するのと同じだ。鄴(ぎょう)の者は、ちょっと考えられないような盛大な河伯祭を催して、祈祷を捧げる。おまけに人身御供《ひとみごくう》まで差し出すのだからな」
「人身御供?」
 李駿は、怪訝そうに聞き返した。
「年頃の美しい生娘《きむすめ》を探して、嫁として輿入《こしい》れさせるらしい」
「えらく文明的だね。豹、やめさせろよ」
「駿は鼻から迷信だと言って切り捨てるが、これは信仰だ。人身御供がいいとは思わないが、かといって心の拠り所を奪うわけにもいかない」
「そんなもん、どうだっていいだろ。龍を大切にしたって、褒美もでなけりゃ、出世もできないんだぜ。大事なのはお上のご意向だろ。忘れたのかよ」
「忘れてなどいない」
 西門豹は河を睨みつける。碇の先端のようにがっちり突き出たあごを心持ち上げて。
 戦国時代だった。
 諸国は外交上の駆け引きを繰り広げ、時には兵を出し、覇権を争っていた。陰謀で、戦闘で、戦禍で、人は呆気なく屍になる時代だった。
 気の抜けない生存競争を勝ち抜くためには、治水事業によって耕地面積を拡大し、農業生産力を高め、国力の増強を図ることが重要だった。とりわけ、魏は中原のほぼ中央に位置し、趙《ちょう》、韓《かん》、斉《せい》、秦《しん》、楚《そ》といった列強に取り囲まれている。富国強兵は喫緊《きっきん》の課題だ。だが、。鄴(ぎょう)県は年々歳々ひどくなる洪水のせいで極度に疲弊し、糧を失った民が逃亡するのは日常の光景だった。
 魏の文侯《ぶんこう》は、鄴(ぎょう)県の治水問題を解決するため、周囲の反対を押し切って西門豹に白羽の矢を立てた。文侯は、西門豹の並外れた胆力と鋭利な知力に期待を寄せていた。
 出発前、西門豹は何度か文侯に呼び出され、文侯が孔子《こうし》の高弟の子夏《しか》から学んだという治世の要諦《ようてい》を伝授された。その鍵は、民を大切にして彼らの声に耳を傾けよ、というものだった。とりわけ、賢明な土地の古老と出会ったなら、辞を低くして教えを請うようにと繰り返し教えられた。西門豹は儒徒《じゅと》ではなかったが、あらためてその言説を聞いてみると頷ける点は多かった。枝葉末節にこだわるばかりの、葬儀屋のお説教にすぎないと思いこんでいた儒教《じゅきょう》もなかなかよいことを説くではないか、と見直した思いもした。
 ――なるほど。
 講義を聞きながら、西門豹は自分なりに儒学《じゅがく》の本質を掴んだ。
 ――これは偉大な常識だ。
 日常を生きる民の常識、価値観、ごく自然に湧きあがるありきたりな感情を肯定し、彼らの良識を信じろと諭された気がした。人々を統治する以上、そうしなければ民意を得られないのは、当然すぎるほど当然のことだと納得した。無論、常識を肯定するのは、国力を高めること、民の暮らしをよくすること、この二点のためだという根幹も忘れなかった。
 西門豹は、いよいよ熱を入れて講義に耳を傾けた。西門豹の熱意を感じ取った文侯は、ますます力をこめ、よどみなく語り続ける。文侯の口振りから、期待の高さがひしひしと伝わってきた。重責を感じずにはいられなかった。
「よくわかっている。お上の期待に背かないためにどうすればいいのか。ここの民を救うためにはどうすればいいのか。ずっと考えている」
 西門豹は、険しいまなざしのまま頷いた。
 治政の哲学は固まった。だが、もちろんそれだけでことが成就するほど、現実は単純ではない。目的を達成できなければ、高邁《こうまい》な理念も無用の長物にすぎない。
 郡県制を敷いた魏では、中央から派遣した官僚によって各地方を統治していた。しかし、必ずしも中央の統制が行き届いていたわけではない。むしろ、地方の自治勢力が強く、中央政府の意向に反発しがちだった。中央の命令というだけで嫌うのだ。西門豹が本腰を入れて問題を解決しようとすれば、相当な抵抗に遭うのは必至だった。
「豹、気持ちはわかるけどさ、深刻になってもしょうがないよ」
「それはそうだがな」
「いい方向へ考えろよ」
 李駿は傍らの石を拾い、力一杯投げた。これが俺たちの未来だとうそぶくように、あざやかな放物線を描く。
「豹はここで大儲けできるんだぜ。お前の前任者はすげえ羽振りだ。ここでかなりの財産を蓄えたようだな。家柄だけが取り柄のぼんくらがよくやったもんだよ。今じゃ、その金を使って夜毎高官たちを集めては宴会騒ぎ、お偉いさんがたのご機嫌取りに余念がないときている。出世街道まっしぐらさ。あやかりたいね」
 李駿は、いいよなと羨望まじりの溜息をついた。
 国への上納分さえ納めれば、県令は余った税を自分の懐へ入れてもよかった。もっとも、中央政府から県令へは十分な給料が支払われず、県令はこの「役得」が主な収入だった。言い換えれば、県の運営は任せるので後は自由にせよ、ということだ。近代国家の仕組みとは異なる。もちろん、民からいくら税を徴収するかは県令の裁量範囲だった。
「くだらない」
 西門豹は、興味なさそうに李駿の言葉を打ち消した。俗っぽい下卑た話はごめんだった。目指すものがある。理想へ向かって走れるか、それしか興味がなかった。
「どこがいけないんだよ」
「金のことは言うな」
「おいおい、金持ちになれない県令なんて、ただのまぬけじゃないか」
「それなら、まぬけでいい」
「ばかにされるぜ」
「人にどう思われようと関係ない」
「大人になれよ」
「大人はもっと立派なものだ。貴様の言う大人は、ただの俗物だ。俗物は自分だけの幸せを考える。他人の幸せを考えるのが大人というものだろう」
「豹は子供の頃から変わらないよな。お前の言い方を借りれば、お前は子供の頃から大人だったわけだ。でもさ、金が入れば家族の暮らしがよくなるし、自分だってでかい顔ができるし、いいことじゃないか」
 李駿は、ほおずきのような赤い唇を尖らせる。西門豹は答える気にもなれず、肩をそびやかせただけで背後を振り返った。枯草と岩ばかりの荒地が続く。
「前任者はよほど民から搾り上げたのだな。こんな貧しいところで。――妙な噂を聞いた」
 西門豹は言った。
「どんな」
「この城市《まち》を取り仕切る地元の有力者たちが、河伯祭を盛大に催して龍神を鎮めさえすれば洪水は治まると言い、前任者にろくな治水工事をさせなかったそうだ」
「それで豹は河伯にこだわってたのか」
「この堤は杜撰だ。前任者は、決壊した箇所を完璧に造り直したと言っていたがな」
 西門豹は、いきり立った闘牛のように足元の土を勢いよく後ろへ跳ね上げた。着物の裾がめくれ、鍛え上げた筋肉で硬く盛り上がったふくらはぎがあらわになる。砂が飛び散り、土煙が低く舞う。西門豹は、責任感のかけらもない子供騙しの欺瞞《ぎまん》が腹立たしかった。
「そんなすぐばれる嘘をよくつけるもんだな。壊れてるじゃないか」
 李駿は西を指差す。ざっと見渡しただけでも、三箇所で土が崩れ始めている。詳しく点検すれば、もっと見つかるだろう。
「しっかり固めずに、ただ土を盛ってうわべだけを整えたのだろ。このぶんでは堤自体の水はけも考えていないな。暴風雨になれば、堤は雨水を含んで緩んでしまう。水を吸った綿と同じだ。そこへ激流がぶつかったら、ひとたまりもない。簡単に決潰する」
「豹の前任者は、工事なんかうっちゃって龍神の儀式にかまけてたわけか」
「なにかからくりがありそうだ。河伯祭が前任者の資金源だったのかもしれない」
 西門豹は、疑わしそうに両目を細める。そのまなざしは、密林の中で獲物の気配を嗅いだ獣のようだった。
「そうだとすると、迂闊《うかつ》に手を出そうもんならえらい目に遭うぜ。用心しろよ」
「わかっている。だが、時間があまりない。祭りは五月五日、端午《たんご》の節句だ」
「後ふた月ちょっとか」
 ほっそりした女の声が、風に乗って流れてきた。李駿を呼んでいる。貴族の身なりをした若い女が、両手で裳裾《もすそ》を吊り上げながら土手の傾斜をのぼってくる。
「父君とは、話をしたのか」
 西門豹は訊いた。李駿には親の決めた許嫁《いいなずけ》がいるのだが、彼女に惚《ほ》れていた。女のほうにも親の決めた婚約者がいるが、李駿を好いている。二人は、付き合い始めてもう四年になる。西門豹は前回の任地でも二人を呼び、こっそり逢引させていた。
「まだだよ。親父はえらくご機嫌斜めだ。切り出そうにも、切り出せない」
 李駿は、冴えない顔で首を振る。
 西門豹は李駿を見守り、ふっと頬を緩めた。拳骨みたいにごつごつとした剽悍《ひょうかん》な顔に、なんともいえない優しさが立ち現れる。それは、幾度も死線を乗り越えた戦士が見せるような、心の強さに裏打ちされた微笑みだった。
「うまくいくさ」
 西門豹は、気遣いながら李駿の肩を握った。


(続く)

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