ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

本願寺・本徳寺,そしてこんふらりや

2015-06-03 15:26:56 | JMOOC
JMOOCディスカッションより


最後の最後になりましたが,今,「播磨と本願寺」(兵庫県立歴史博物館編)を読んでいる途中です。
もう,明日が閉講なので,途中ですが,書きます。

本願寺10代の証如は『天文日記』という日記を残しています。(1536年~54年)このおかげで,この時代の英賀(あが・姫路市南部・当時は播磨地区の本願寺勢力の中心)の様子がわかります。

英賀(英賀御堂・英賀本徳寺)が本願寺(当時の中心は大坂)に金銭や特産物を送ったこと,大坂の本願寺まで出かけて仏事を行ったことなども記されています。

三十日番衆制度というものがあり,本願寺に来て,御堂に詰めて番をするというものがあり,播磨の寺々は交替で番をしていたことも記されています。(草野顕之・大谷大学学長「播磨の浄土真宗」より)

「戦国時代になると,農民や商工業者などの庶民は自分たちの命や生活は自分たちで守らないと誰も守ってくれません。そこで出てくるのが惣村活動,村落共同体というものです。(中略)村落が結束していくにあたり,自分たちが仲間であると共通認識できるものとして現実社会の中で何があるのか,そこで出てきたのがおそらく信仰でした。浄土真宗寺院の前段階である道場が,播磨に次々とつくられて広がっていくのと,じぶんたちがの生活を守るために惣村が結束していく時期が共通していて,各村々に浄土真宗の教えが共通概念として受け入れられたというところに,浄土真宗が播磨で特に広まっていく要因があったのではないかと考えられます。」((岡村善史・本願寺史料研究所「官兵衛・秀吉・一向一揆」91ページより)

似たようなことが,イエズス会にもいえるのかな?と思いました。本願寺と本徳寺のような関係が日本のイエズス会本部(?)とこんふらりやにもあるのでしょうか?

続きはまたどこかで
コメント
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