何日か前,たまたま,鰐口をネットで調べていました。
すると,
「ベルギーから姫路・魚吹八幡神社に「鰐口」戻る 明治期流出か」
という,産経新聞の記事を見つけました。
詳しい事は,産経新聞(2015年12月1日)を見てください。
というわけで,今日,魚吹八幡神社に行って見てきました。
お払いをする人のための待合室(?)の所の事務室で尋ねると,
神主さん自ら「こちらですよ。」と鰐口をおいている部屋に案内してくれました。
部屋の隅,棚の上に,どっしりした大きな鰐口が置いてありました。
神主さんは,テーブルの上に持ってきてくれて,お話しをしてくださいました。
「盗難にあったのか,神仏分離の時に流出したのかよく分からない。
新潟からロシアを通って,ヨーロッパに行ったのだと思うけど,わからない。
たまたま,ベルギーのベネディクトの教会の神父さんが,
その教会の宝物の整理をしていた。
するとこの鰐口が,モンゴルのものとしておかれていた。
向こうの人には,日本もモンゴルも同じように思うかもしれないが,
その神父さんは相生出身の方だった。
鰐口には,『播州揖東郡福井庄津宮』と書いてあったため,
播州の津宮(つのみや)と言う事は,この魚吹八幡神社ではないか,と思った。
向こうの神父さんとかと話をし,返そうと言うことになり,
法事で相生出身の神父さんが帰ってくる時,日本に持ち帰り,
この魚吹八幡神社に届けてくれた。」とのことでした。
そして,
「魚吹八幡神社は秀吉の播磨攻めの時焼かれ,
江戸時代初期,(新聞によると,正保2年(1645年))本殿が再建されたと言われている。
しかし,建築専門の大学の先生が,江戸時代半ば以降の建物だろうと言ったので,
文化財としての指定が遅かった。
しかし,この鰐口に,宝永8年(1711年)の文字があり,
この鰐口奉納以前の建築とすれば,やはり江戸時代初期の建物ではないか。
そう言う意味でも,この鰐口の存在は大きい。」
鰐口を裏向けて,
「この『願主 藪内万右衛門』という人がどんな人だかわからない。」
とのことで,
私が鰐口に書かれている文字をメモしていると,
薄い紙と鉛筆をとってきてくれて,拓本のように写してくれました。
再度,鰐口を表向けて,
「用事があるから,後は自分で写して」・・・と神主さんは部屋に私一人を置いて出て行かれたので,
メモと写真をとってきました。(写真は神主さんがとっていいとおっしゃいましたから。)
鰐口がベルギーから返ってきた事はもちろんすごい事です。
これだけでも,ビックリです。
でも,・・・神主さんが言うように,『藪内万右衛門』ってどんな人だったのでしょう。
苗字があると言う事は,それなりの地位があったはずです。
それにこんなに大きな鰐口を納めたのですから。
神仏習合という観点からもすごいです。
神主さんは,「神と仏がいっしょだった頃」とおっしゃっていました。
それにもう一つ。
「播州揖東郡福井庄津宮」の文字。
荘園制が終わって荘園がないはずの時代に「福井庄」とは?
(中世には,今の魚吹八幡神社の氏子の範囲が,ちょうど福井荘だった。)
また,わくわく大発見がありました。
と同時に,分からない事と調べたい事が増えました。
魚吹八幡神社の神主さん,
私のようなただの歴おばさんにお時間を割いてくださり,本当にすみませんでした。
また,丁寧な解説,ありがとうございました。
網干に住んで50年余り,
昭和天皇の事でお祭りがなかった年を除き,
毎年,魚吹八幡神社の秋祭りに行っています。
テスト中であっても,教育実習中であっても,かならず,行っています。
年に1回,祭を見ないと・・ね。
(祭と聞いただけで,血が騒ぎますので。)
息子と壇尻についてまわったこともあります。
(子供会から,息子は壇尻曳きに出ましたから。もちろんまわしを締めて。)
今回,祭とはまた別の意味で,津宮にいっそう興味がわきました。
本当に,ありがとうございました。
すると,
「ベルギーから姫路・魚吹八幡神社に「鰐口」戻る 明治期流出か」
という,産経新聞の記事を見つけました。
詳しい事は,産経新聞(2015年12月1日)を見てください。
というわけで,今日,魚吹八幡神社に行って見てきました。
お払いをする人のための待合室(?)の所の事務室で尋ねると,
神主さん自ら「こちらですよ。」と鰐口をおいている部屋に案内してくれました。
部屋の隅,棚の上に,どっしりした大きな鰐口が置いてありました。
神主さんは,テーブルの上に持ってきてくれて,お話しをしてくださいました。
「盗難にあったのか,神仏分離の時に流出したのかよく分からない。
新潟からロシアを通って,ヨーロッパに行ったのだと思うけど,わからない。
たまたま,ベルギーのベネディクトの教会の神父さんが,
その教会の宝物の整理をしていた。
するとこの鰐口が,モンゴルのものとしておかれていた。
向こうの人には,日本もモンゴルも同じように思うかもしれないが,
その神父さんは相生出身の方だった。
鰐口には,『播州揖東郡福井庄津宮』と書いてあったため,
播州の津宮(つのみや)と言う事は,この魚吹八幡神社ではないか,と思った。
向こうの神父さんとかと話をし,返そうと言うことになり,
法事で相生出身の神父さんが帰ってくる時,日本に持ち帰り,
この魚吹八幡神社に届けてくれた。」とのことでした。
そして,
「魚吹八幡神社は秀吉の播磨攻めの時焼かれ,
江戸時代初期,(新聞によると,正保2年(1645年))本殿が再建されたと言われている。
しかし,建築専門の大学の先生が,江戸時代半ば以降の建物だろうと言ったので,
文化財としての指定が遅かった。
しかし,この鰐口に,宝永8年(1711年)の文字があり,
この鰐口奉納以前の建築とすれば,やはり江戸時代初期の建物ではないか。
そう言う意味でも,この鰐口の存在は大きい。」
鰐口を裏向けて,
「この『願主 藪内万右衛門』という人がどんな人だかわからない。」
とのことで,
私が鰐口に書かれている文字をメモしていると,
薄い紙と鉛筆をとってきてくれて,拓本のように写してくれました。
再度,鰐口を表向けて,
「用事があるから,後は自分で写して」・・・と神主さんは部屋に私一人を置いて出て行かれたので,
メモと写真をとってきました。(写真は神主さんがとっていいとおっしゃいましたから。)
鰐口がベルギーから返ってきた事はもちろんすごい事です。
これだけでも,ビックリです。
でも,・・・神主さんが言うように,『藪内万右衛門』ってどんな人だったのでしょう。
苗字があると言う事は,それなりの地位があったはずです。
それにこんなに大きな鰐口を納めたのですから。
神仏習合という観点からもすごいです。
神主さんは,「神と仏がいっしょだった頃」とおっしゃっていました。
それにもう一つ。
「播州揖東郡福井庄津宮」の文字。
荘園制が終わって荘園がないはずの時代に「福井庄」とは?
(中世には,今の魚吹八幡神社の氏子の範囲が,ちょうど福井荘だった。)
また,わくわく大発見がありました。
と同時に,分からない事と調べたい事が増えました。
魚吹八幡神社の神主さん,
私のようなただの歴おばさんにお時間を割いてくださり,本当にすみませんでした。
また,丁寧な解説,ありがとうございました。
網干に住んで50年余り,
昭和天皇の事でお祭りがなかった年を除き,
毎年,魚吹八幡神社の秋祭りに行っています。
テスト中であっても,教育実習中であっても,かならず,行っています。
年に1回,祭を見ないと・・ね。
(祭と聞いただけで,血が騒ぎますので。)
息子と壇尻についてまわったこともあります。
(子供会から,息子は壇尻曳きに出ましたから。もちろんまわしを締めて。)
今回,祭とはまた別の意味で,津宮にいっそう興味がわきました。
本当に,ありがとうございました。