新田開発その1は,「勘兵衛神社」です。
今回はその2。
本当は2回に分けて新田開発を書くつもりはなかったのですが,
NHK学園古文書解読実践コース第6回の「あなたの声」に矢野荘のことを書き,
学生時代に矢野荘のレポートを書いた,
というようなことを書くと,
先生が,
「学生時代のリポート,私は近所の新田開発でしたね!」と
第6回の「講評」のすみに書いてくださっていました。
今,第7回提出中ですが,
これは偶然「勘兵衛神社」を「あなたの声」に書きました。
「じゃあ,第8回も新田開発!」とルンルンして(?)しまいました!
ということで,
「新田開発 その2」は,
「網干浦新田開発(寛政年間)と成山新田(大正~昭和初期)」です。
まず,「網干浦新田開発」
絵図は,たつの市立龍野歴史文化資料館
特別展「武士の心得 ー脇坂家家中に伝わった宝物ー」
に展示されていた
「網干浦新田開発に付検分絵図」(寛政5年(1793年))です。
(写真撮影可)(この特別展は,すでに終了)
図録によると,
丸亀藩京極家領興浜・浜田(現在の姫路市網干区)
苅屋(現在のたつの市御津町)の3村の広範囲で開拓しようという計画があり,
実際に開拓されたのは,天保年間だそうです。
その後,新田開発は具体的にどうなったのか,
どこまで開発されたのか,
実は私は知りません。
時代はとんで,
大正時代。
図録には,「~コラム 新田開発の今を巡る旅~」と載っています。
それによると,成山新田は,
「大正時代成山徳三郎が資金を出し,その後水害などに悩まされながら整備された土地」
だそうです。
場所は,ほぼ同じ。
写真は,網干区浜田 恵美酒神社にある「成山徳三郎」の玉垣です。
成山徳三郎がどこまで開発したのか,
実は私は知りません。
ただ,この神社の南側は,
今は播磨工業地域の工場群です。
今回はその2。
本当は2回に分けて新田開発を書くつもりはなかったのですが,
NHK学園古文書解読実践コース第6回の「あなたの声」に矢野荘のことを書き,
学生時代に矢野荘のレポートを書いた,
というようなことを書くと,
先生が,
「学生時代のリポート,私は近所の新田開発でしたね!」と
第6回の「講評」のすみに書いてくださっていました。
今,第7回提出中ですが,
これは偶然「勘兵衛神社」を「あなたの声」に書きました。
「じゃあ,第8回も新田開発!」とルンルンして(?)しまいました!
ということで,
「新田開発 その2」は,
「網干浦新田開発(寛政年間)と成山新田(大正~昭和初期)」です。
まず,「網干浦新田開発」
絵図は,たつの市立龍野歴史文化資料館
特別展「武士の心得 ー脇坂家家中に伝わった宝物ー」
に展示されていた
「網干浦新田開発に付検分絵図」(寛政5年(1793年))です。
(写真撮影可)(この特別展は,すでに終了)
図録によると,
丸亀藩京極家領興浜・浜田(現在の姫路市網干区)
苅屋(現在のたつの市御津町)の3村の広範囲で開拓しようという計画があり,
実際に開拓されたのは,天保年間だそうです。
その後,新田開発は具体的にどうなったのか,
どこまで開発されたのか,
実は私は知りません。
時代はとんで,
大正時代。
図録には,「~コラム 新田開発の今を巡る旅~」と載っています。
それによると,成山新田は,
「大正時代成山徳三郎が資金を出し,その後水害などに悩まされながら整備された土地」
だそうです。
場所は,ほぼ同じ。
写真は,網干区浜田 恵美酒神社にある「成山徳三郎」の玉垣です。
成山徳三郎がどこまで開発したのか,
実は私は知りません。
ただ,この神社の南側は,
今は播磨工業地域の工場群です。
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