ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

感動!地元の江戸時代の絵図!でも,写真撮影不可です。(「揖保川の土産」より)

2024-10-06 15:46:17 | 日記 地域
 我が家のすぐ近くを揖保川が流れています。

10月5日,たつの市立龍野歴史文化資料館の特別展「揖保川の土産~日本一を育んだ暴れ川の歴史~」に行ってきました。何と初日です。
たつのの産業うすくち醤油,素麺,鮎などを中心とした展示でしたが,
私が感動したのは,揖保川流域の絵図。
しかし,今回の展示はほぼ全部写真撮影禁止・・・残念 ( ;∀;)
仕方ありません。自分で手書きで写しました。(下手な絵ですが,私が重要と思うところはまずまず書けたと思います。)

「新在家村絵図」天保8(1837)年です。(現在の姫路市網干区新在家)
斜め線。「///」のところは,川または海,「垣内村」から「興之濱村」にかけての「///」が揖保川です。
新在家村はほぼ龍野藩。だから,たつの市の資料館に絵図があったりするのですね。
私が特に感動したのは,「塩濱」
少し前,地元で安政東海・南海地震における網干の塩田の被害について『網干町史』をもとに書いたところなのです。(ちょっぴりですが)
その時は,「塩濱」の絵図は見つからず,今になって発見!感動しました !(^^)!
地震の時,つまり,嘉永7(1854)年の「願書の写」には,塩濱預り庄屋圓尾六郎兵衛という名が出てきましたが,今回の絵図の「六郎兵衛」とは関係があるのでしょうか?20年近く差があるのですから,息子だったり・・と想像するのは楽しいですね。(全く関係ないかもしれませんが)
ところで,この絵図は「天保8年」。
去年,太子町立歴史資料館で行われていた企画展「絵図がかたどるものー太子町の絵図からー」で展示されていた絵図の中にも,「天保8年」はいくつかありました。
実は,天保8年は絵図が多く残っていて,それは幕府が国絵図を作り直すように命令したからであるということを学芸員の田村先生の講演会で聞きました。
でも,天保8年の太子町の絵図は,どれもその村の範囲内だけの絵図であったのに,今回の「新在家村絵図」は周囲も描かれています。なぜなのでしょう???目的が違うのでしょうか。
・・・揖保川を眺めたくなってきました。ちょっと散歩してきましょう!

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 暑いけど,秋は近い?読書と... | トップ | 次はたたら製鉄の遺跡を見に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記 地域」カテゴリの最新記事