ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

姫路城石垣に積み直しを発見

2016-03-09 06:58:12 | 日記
NHKホームページ「兵庫県のニュース」3月8日より

「姫路城の天守閣を囲むくるわの石垣を姫路市が調べたところ
 一部に石の材質や積み方が異なっている部分があることがわかりました。

 江戸時代初期に茶室を造るために積み直されたとみられ
 戦いのための城から変わっていった姫路城の成り立ちを考える上で
 貴重な発見とみられています。

 新たな発見があったのは、
 姫路城の大天守の南東にある「腹切丸」というやぐらに近いくるわの石垣です。

 姫路市城郭研究室が修理にあわせて去年12月から調べたところ
 高さ10メートル、幅25メートルの石垣の中央付近で
 石の材質や積み方が変わっていることがわかりました。

 南側は火山岩が固まった凝灰岩という石が使われ
 大きな石の間に詰める「間詰石」は河原にある丸い石が多い一方、
 北側はチャートという固い石も含まれ、
 「間詰石」には砕いた石が使われています。

 姫路城は、初代姫路藩藩主となった池田輝政が築きましたが、
 その後、城主となった本多家が江戸時代初期に茶室などを備えたやぐらを造った際、
 石垣を積み直したとみられています。

 姫路市城郭研究室の多田暢久さんは「姫路城は、敵の侵攻に備えるための実戦的なものだったが、
 平和な時代になって茶室などの空間が作られたことが石垣の積み方からもうかがえる。
 城の成り立ちを考える上で貴重な発見だ」と話しています。」


ニュースを映像で見ると,明らかに石の積み方が違う・・・と思います。

先日,娘と姫路城に行ったばかりですが,こんなに詳しく見ていません。
戦国の城から,平和な江戸時代の城へ・・・といったところでしょうね。
新しい発見がいっぱいです。
姫路城も奥が深いです。
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ベルギーから帰ってきた鰐口:魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)

2016-03-07 13:57:15 | 日記
何日か前,たまたま,鰐口をネットで調べていました。
すると,

「ベルギーから姫路・魚吹八幡神社に「鰐口」戻る 明治期流出か」

という,産経新聞の記事を見つけました。
詳しい事は,産経新聞(2015年12月1日)を見てください。


というわけで,今日,魚吹八幡神社に行って見てきました。

お払いをする人のための待合室(?)の所の事務室で尋ねると,
神主さん自ら「こちらですよ。」と鰐口をおいている部屋に案内してくれました。

部屋の隅,棚の上に,どっしりした大きな鰐口が置いてありました。
神主さんは,テーブルの上に持ってきてくれて,お話しをしてくださいました。

「盗難にあったのか,神仏分離の時に流出したのかよく分からない。
 新潟からロシアを通って,ヨーロッパに行ったのだと思うけど,わからない。

 たまたま,ベルギーのベネディクトの教会の神父さんが,
 その教会の宝物の整理をしていた。
 するとこの鰐口が,モンゴルのものとしておかれていた。
 向こうの人には,日本もモンゴルも同じように思うかもしれないが,
 その神父さんは相生出身の方だった。
 鰐口には,『播州揖東郡福井庄津宮』と書いてあったため,
 播州の津宮(つのみや)と言う事は,この魚吹八幡神社ではないか,と思った。
 向こうの神父さんとかと話をし,返そうと言うことになり,
 法事で相生出身の神父さんが帰ってくる時,日本に持ち帰り,
 この魚吹八幡神社に届けてくれた。」とのことでした。

そして,
「魚吹八幡神社は秀吉の播磨攻めの時焼かれ,
 江戸時代初期,(新聞によると,正保2年(1645年))本殿が再建されたと言われている。
 しかし,建築専門の大学の先生が,江戸時代半ば以降の建物だろうと言ったので,
 文化財としての指定が遅かった。
 しかし,この鰐口に,宝永8年(1711年)の文字があり,
 この鰐口奉納以前の建築とすれば,やはり江戸時代初期の建物ではないか。
 そう言う意味でも,この鰐口の存在は大きい。」

鰐口を裏向けて,
「この『願主 藪内万右衛門』という人がどんな人だかわからない。」
とのことで,
私が鰐口に書かれている文字をメモしていると,
薄い紙と鉛筆をとってきてくれて,拓本のように写してくれました。

再度,鰐口を表向けて,
「用事があるから,後は自分で写して」・・・と神主さんは部屋に私一人を置いて出て行かれたので,
メモと写真をとってきました。(写真は神主さんがとっていいとおっしゃいましたから。)


鰐口がベルギーから返ってきた事はもちろんすごい事です。
これだけでも,ビックリです。

でも,・・・神主さんが言うように,『藪内万右衛門』ってどんな人だったのでしょう。
苗字があると言う事は,それなりの地位があったはずです。
それにこんなに大きな鰐口を納めたのですから。

神仏習合という観点からもすごいです。
神主さんは,「神と仏がいっしょだった頃」とおっしゃっていました。

それにもう一つ。
「播州揖東郡福井庄津宮」の文字。
荘園制が終わって荘園がないはずの時代に「福井庄」とは?
(中世には,今の魚吹八幡神社の氏子の範囲が,ちょうど福井荘だった。)

また,わくわく大発見がありました。
と同時に,分からない事と調べたい事が増えました。


魚吹八幡神社の神主さん,
私のようなただの歴おばさんにお時間を割いてくださり,本当にすみませんでした。
また,丁寧な解説,ありがとうございました。


網干に住んで50年余り,
昭和天皇の事でお祭りがなかった年を除き,
毎年,魚吹八幡神社の秋祭りに行っています。
テスト中であっても,教育実習中であっても,かならず,行っています。
年に1回,祭を見ないと・・ね。
(祭と聞いただけで,血が騒ぎますので。)
息子と壇尻についてまわったこともあります。
(子供会から,息子は壇尻曳きに出ましたから。もちろんまわしを締めて。)

今回,祭とはまた別の意味で,津宮にいっそう興味がわきました。
本当に,ありがとうございました。

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信長・・・本郷和人氏の書評より

2016-03-05 16:20:30 | JMOOC
「織田信長は歴史の変革者である。
だが日本史学界は今、信長はごくごく普通の戦国大名だったと大合唱している。
唯物史観を信奉する人たちは「英雄はいらない」し、
手早く成果が欲しい人たちは、とりあえず世間と違うことを言っておこう、というところか。
 
 けれど冷静に考えてみれば、そこに無理があることはたちどころに分かるはずだ。
信長のほかに、宗教の総本山たる比叡山を焼いた人物がいるか。
万を超える民を虐殺した人物がいたか(但〈ただ〉しこれらは全く褒められた話ではない)。
だれが石垣を積み、天守閣を創造したか。
茶の湯を政治に取り入れたか。
そして何より、他の何者が、日本は一つであるべしと考え、天下の統一を試みたか。」


2月28日(日)の朝日新聞読書欄に載っていた,本郷和人氏の書評の最初の部分です。


 最近,本郷先生がテレビのバラエティに出て,歴史の面白いお話しをされているのをちらっと見ました。
広く歴史に興味を持ってもらおう・・・と言う意味ではいいのでしょうが,
先生の専門の中世ではなく,面白い逸話的なことを話されていたので,
私としては,興味がありませんでした。

でも,この書評の出だしは,久々に本来の日本中世史の本郷先生でした。
(本当は,いろんなところでもっと学者としての本郷和人氏が活躍されているのでしょうが,
 私としては,久々でした。
 新聞に載っていた書評ですから,学者としてではなく,
 ちょうど,JMOOCで学んだような人にあった文章ですよね。)

私が学生だった頃は,唯物史観が主流でしたから,
「たとえば,信長がいなかったとしても,別の信長のような人が現れ,
早かれ遅かれやはり時代は,中世から次の時代へと向かっていった・・・と言う事だ。」
と先輩から聞いたように覚えています。


戦国大名は,自分の領国を守るのが精一杯だった。
戦国大名の誰もが天下を目指したわけではない,信長だけが,
「日本は一つであるべしと考え、天下の統一を試みた」


久々の“本郷節”を読んで,このページを書きました。
私ごとき者には,信長とは何だったのか・・・なんて分かりませんが,
少なくとも学生時代と今とでは,
歴史学は変わったのだと思います。



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