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[The Battle Between the Israelites and Amalekites. Ex 17:8-13]

旧知の友人から、「旧約の神がノアの方舟の場合やエリコ征服に際し民を絶滅させたりして、愛の神と矛盾しているのをどう説明すればよいか」という質問を受けた。これは大勢のクリスチャンや聖書研究者たちを悩ませてきた難しい問題である。ここに今の時点で考えられる答えを記してみたい。

旧約聖書(あるいは「ヘブライ語聖書」)に頻出する暴力・暴虐の記載を直解的に受けとめて押し通すことには、今日の倫理観や価値観から見れば無理があり、難しい。そこで調整型の解釈が行われる。人数に誇張がある、あるいは実際はなかった、など。誇張や縁起のよい数字(旧約の民が好きな数字)にすることがあったのは確かである。しかし、それも僅かの事例の、ある程度の緩和にしかならない。

ここで問題となる主要な個所は特にヨシュア記から上下サムエル記にかけて描かれる戦いの場面である。以下、比較的最近書かれた書物から参考となる考えを抽出してみた。

1 大貫隆は、大学で教えていた受講生の「旧約の神は暴力的で独善的で、勝手すぎる」という声に注目し、この見方はシモーヌ・ヴェイユの「神の愛についての雑感」にも通じる普遍的な疑義であると認めている。大貫は結局この疑義に解答を与えていない。

2 上村静は、「宗教の倒錯」という本の中で、「いのちを生かすはずの宗教がいのちを殺す宗教になってしまう」ことが少なくないのは、宗教の倒錯の一つではないか、と読者に語りかける。取り上げている内容や焦点が今回のテーマと同一であるというわけではないが、旧約の中に暴力が頻出し、神が承認しているように書かれているのは、「倒錯」と受けとめられるのではないか。(私沼野の読みである。)

では、どう考えればよいのだろうか。



3 長谷川修一は2014年に出した本で、イスラエルのエリコ征服時、エリコに城壁がなかったことを始め、ヨシュア記に幾つもの矛盾があることを指摘している。そうであるにしても戦ってエリコ征服を成し遂げたヨシュア記のメッセージの一つは、イスラエルの人々がパレスチナという約束の地を取得できたのは神の加護による、という教訓であり、物語はそれを後世の人々に伝えることを念頭に書かれている、と言う。

4 ある異説を唱える米人末日聖徒は、人の生命を容易に奪うような神の記述は、旧約聖書の原初的な神の概念によるもので、倫理・道徳的に疑わしい「神の言動」はそろそろ拒絶してもよいのではないか、と言う。昔の人は説明のつかないひどい洪水や暴風、地震などがあると怒りに満ちた神の所業と見なしたのである。

5 千葉大学の加藤隆は「旧約聖書の誕生」(2008年)で、ある文書(テキスト)の前提となっている知識が共有できると理解しやすい、逆に共有されない(前提とされていることを理解していない)とその文書は難しく感じられる、と書いている。そして重要な情報が読み取れない、と。
 旧約時代の世界では、現代より遥かに露骨に強国が周辺諸国を蹂躙、殲滅、あるいは統治・支配して、弱肉強食の原理が働いていた。そんな中を生き延びるには、どの国も特に小国は今日から見れば劣らず好戦的で乱暴に見える策略や外交戦術に頼らなければならなかった。そういった前提を理解して読まなければならない、というわけである。

 それに付け加えれば、ヘブライ語聖書の記者や編集者は自分たち(イスラエル民族)の正当性を信じて疑わず自分たちの視点から、自分たちが仕掛けた戦争・殺戮をも神に指示されたと正当化する物語(narrative)を紡ぎ出したのであった。

参考資料
上村静「宗教の倒錯」岩波書店 2008
大貫隆「聖書の読み方」岩波新書 2010
加藤隆「旧約聖書の誕生」筑摩書房 2008
長谷川修一「旧約聖書の謎 隠されたメッセージ」中公新書 2014
Mormon Heretic, www.wheatandtares.org/13848/teaching-old-testament-violence-to-children/ Mar 12, 2014

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
素直に受け取る ()
2014-10-27 09:38:13
結果が推論と違っているときは、前提を疑うのが論理の鉄則です。

「神が慈悲深く愛にあふれている」と言う前提で神について考えるので、聖書の記述に疑問が生じるのでは?

「神は残酷で情け容赦なく、神自身の思いのままに行う」との前提に立てば、ヨシュア記の記述も疑問を持たずに読めます。

もし神が人間よりも先に存在し、その存在が人知を超えていると仮定するのなら、神が人を虐殺する命令を出しても、何の疑問もわかないはずです。
そしてそれに無条件に従うのが、真の信仰者の姿です。

しかし、もし信仰者に、人を愛し慈しむ心が有れば、時に神の理不尽と戦う覚悟が必要になります。

つまり、神の側に立つのか、人の側に立つのか、自分の立ち位置を決めなければいけないと言う事です。

歴史を見ても、多くの人が神の理不尽と戦ってきました。その歴史の上に、ヒューマニズムが生まれ、今の民主的な人間社会が存在するのだと思います。

神の行う理不尽も、この世で人間が真の意味で成長し神に近づく為の試練かと思います。

私達は「自由意思により正し事を選ぶ」訓練を受けています。神の理不尽と戦う事は、その訓練の一つでは無いでしょうか?

無条件に神の言葉に従うのが信仰ではない。自由意思と、与えられた英智によって、神の意志を考え、真理を選ぶのが信仰だと思います。
 
 
 
メッセージは悔い改め (オムナイ)
2014-10-27 14:31:30
参考になります。

特に5の
旧約時代の世界では、現代より遥かに露骨に強国が周辺諸国を蹂躙、殲滅、あるいは統治・支配して、弱肉強食の原理が働いていた。

部分は近代までそうだったように思います。

広島・長崎の原爆投下は旧約であればソドムとゴモラを滅ぼした硫黄の火のように描かれるだろうし、ヒトラーやサダムフセインは悪の権化として登場することでしょうね。

ただ、ノアの洪水にしろモーセの殺戮の物語にしろ善なる神に従えば勝利し悪に染まれば滅びるとうい大原則と終末の裁きを象徴的に教えているのであって現実の生活での善悪の判断は新約的な「御霊の導き」をセットで学ばなくては。。
旧約は原理主義的な思想で使い物にならない。神に反抗すべきだ的な本末転倒な理解になりかねません。
 
 
 
十字架の上で命を捧げ全人類の罪を贖った (ろっくん・R・きっこーまん)
2014-10-27 16:10:58
救い主イエスはその直後、地球の裏側までひとっ跳び、古代アメリカ大陸の住民たちの中で天変地異を起こし、多くの罪深い者たちを皆殺しにした後、真っ暗な闇で全地を覆うんですね。生き残った者たちは恐怖におびえて3日間を過ごします。

これがキリストの愛なのです。

これは歴史上の事実です。この末の日に生ける予言者ジョセフ・スミスに与えられたモルモン書にはそのように書かれているのですよ。

これは旧約の神がイエスであることを示す確かな証拠なのです。
聖書研究者やこの世の学問になど頼る必要はありません。答えはもうそこにあるのです。ご友人にはモルモン書を読むことをお勧めください。

末日聖徒イエス・キリスト教会が唯一まことのキリストの教会であることを証します(笑)
 
 
 
ええーと (エヌ・ジェー)
2014-10-27 17:37:06
「笑」っていますね、ということは、浪速風のおち?あなたは?真意は?・・・ろっくん・R・きっこーまんさん。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2014-10-29 22:25:13
きっこ‐マンさんへ


教義と聖約88章を読むとよいですよ。特に77節から81節を。
始めから終わりまで読んでみてください。


後は自分の理解の賜物で頼って知ってください。
 
 
 
エヌ・ジェーさんへ (ろっくん・R・きっこーまん)
2014-10-30 05:29:33
たとえば名前欄に「エヌ・ジェー」と書かれますと、はて、この人はNJさんかな? 別人かな?と考えてしまいます。

もしNJさんなら、なぜ今回だけは「エヌ・ジェー」と名乗っているのはなぜ?その真意は?と考えてしまいます。

また別人であれば、なぜNJさんと混同しやすい名前にするのか、その真意は?と考えてしまいます。

あなたもそういう効果を狙って「エヌ・ジェー」と名乗っていらっしゃるのではありませんか?(いや単なる気まぐれかもしれませんが)

私も証の最後に(笑)と記する意図は、あなたが「エヌ・ジェー」と名乗るのと同じです。
 
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