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[allegory, 風諭、寓諭 「全てのものが外観のとおりではない」]
先日、日曜学校成人クラスで奇跡が出てくる二か所で比喩的解釈が行われていた。当然と言えば当然のことであるが、その実際的な対処の仕方と常識が通用していることに注目した。その日の内容は、イエスが水の上を歩く場面と五千人に食物を与える奇跡とそれに続く命のパンの話についてであった。(ヨハネ6章)。
担当は私ではなかった。神にできないことはない、奇跡は本当に起こり得る、と説明されることが少なくないこの教会にあってどのようにクラスが展開されるだろうか、と思っていた。すると、教師は生徒用ガイドにあるようにペテロは水の上を歩こうとしたが、恐れを覚えて沈むことになる、これを信仰が揺らいだからと受けとめ、比喩的に扱っていた。私たちはどうだろうか、と。生徒たちも同様であった。また、命のパンについて生徒用手引きは「救い主が私たちに差し出しておられる祝福」とし、どうすればその命のパンを食することができるだろうか、と問いかけている。(人が水の上を歩くことや、僅かな食物が女子供を合わせると1万人以上の群集の空腹を満たすことについて、詮索することはなかった。)
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聖典の言葉を字義通り理解するのは簡単で、末日聖徒は大体そうするように指導されてきているが、さすがに「命のパン」のように一目瞭然の例はもちろん、他の多くの場合でも幸い、現代の末日聖徒は比喩的、象徴的に受けとめる実際的・現代的な面も持ち合わせている。(女性は男性のあばら骨から取られて創られた、など。キンボール元大管長は象徴的な表現であると語った。)
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[寓諭
・文字通りの意味のほかに、その物語(story)または情景の中にもう一つの明確な意味が含まれている。
・物語(narrative)に登場する人物、行動、時に背景に別の意味が潜在している。]
信仰箇条の最後にある
どのようなことでも,徳高いこと,好ましいこと,あるいは誉あることや称賛に値することがあれば,わたしたちはこれらのことを尋ね求めるものである。
このような態度が大切なのでしょう。