[創世6:3 ヘブライ語は右から読む]
創世記6:3 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」(新共同訳)
これはノアの方舟の後、人が地上に増え始めた頃の様子を描いた箇所で出てくる。神の子らが人の娘を妻にするなど、神話的な要素が強くて意味が取りにくい。人の一生の長さが決められる記述が続く。
これを保守的な「カイルとデリッチの注解」で見たところ、説得力を感じたので記したい。問題は「わたしの霊」と「とどまる」、「永久に」の部分である。この注解によれば、「わたしの霊」とは「人に神から賦与される生命の霊で、それによって身体的、精神的寿命が支えられる支柱となるもの」で、人が肉にすぎないので神はこの霊を人から取り去り、人の生命と活動に終止符を打たれる。これがヘブライ語本文の納得できる解説ではないかと思う。なお、「とどまる」に相当する原語は「治める」(to rule) で、英語でstrive with(KJV), contend with(NIV), abide (NRSV), remain(REB) などが当てられている。「永久に」の部分は、לְעֹלָ֔ם for eternity で「いつまでも」の意である。
この部分をジョセフ・スミスは、エテル2:15, モーセ8:17, 2ndN26:11, JST 8:15, D&C 1:33 の並行節で「わたしの御霊(聖霊)はいつでも(常に)人を励ますわけではない」(エテル2:15) という風に表現している。この読み替えをマーク・D・トマスは再解釈あるいは paraphrase (言い換え) と呼んでいる。こんにちの信仰生活に引き寄せて聖書本文の読みを改訂した例である。
Source: http://biblehub.com/commentaries/kad/genesis/6.htm
Reference:
Mark D. Thomas, "Digging in Cumorah: Reclaiming Book of Mormon Narratives." Signature Books, 1999
創世記6:3 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」(新共同訳)
これはノアの方舟の後、人が地上に増え始めた頃の様子を描いた箇所で出てくる。神の子らが人の娘を妻にするなど、神話的な要素が強くて意味が取りにくい。人の一生の長さが決められる記述が続く。
これを保守的な「カイルとデリッチの注解」で見たところ、説得力を感じたので記したい。問題は「わたしの霊」と「とどまる」、「永久に」の部分である。この注解によれば、「わたしの霊」とは「人に神から賦与される生命の霊で、それによって身体的、精神的寿命が支えられる支柱となるもの」で、人が肉にすぎないので神はこの霊を人から取り去り、人の生命と活動に終止符を打たれる。これがヘブライ語本文の納得できる解説ではないかと思う。なお、「とどまる」に相当する原語は「治める」(to rule) で、英語でstrive with(KJV), contend with(NIV), abide (NRSV), remain(REB) などが当てられている。「永久に」の部分は、לְעֹלָ֔ם for eternity で「いつまでも」の意である。
この部分をジョセフ・スミスは、エテル2:15, モーセ8:17, 2ndN26:11, JST 8:15, D&C 1:33 の並行節で「わたしの御霊(聖霊)はいつでも(常に)人を励ますわけではない」(エテル2:15) という風に表現している。この読み替えをマーク・D・トマスは再解釈あるいは paraphrase (言い換え) と呼んでいる。こんにちの信仰生活に引き寄せて聖書本文の読みを改訂した例である。
Source: http://biblehub.com/commentaries/kad/genesis/6.htm
Reference:
Mark D. Thomas, "Digging in Cumorah: Reclaiming Book of Mormon Narratives." Signature Books, 1999
でも、老人が増えすぎるのも、社会的には困った事なんでしょうね。
あまり長生きせずに、いいかげんで次の世に行けって事でしょう。
お互い、老害に成らないうちに身を引きましょうね。
教会の役職も、定年制を作るべきですね。
十二使徒、七十人は、70歳、その他の神権役員は60歳ぐらいで定年て言うのが、良いと思います。
そうしないと、いつまでも若い人材が出てこれない。
年寄りはどうも講釈ばかり多くてダメですね。
私なんぞは、退く前に入れてくれないですけどね(笑)
という意味と
「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」
という意味には大きな隔たりがありますね。原語により忠実に翻訳するならば、
「エホバいわく私の霊は、いつまでも人の肉を治めているべきではない」
くらいの意味になるのでしょうか。
結果である死は、肉体の死か?霊の死か? ジョセフスミスは「霊」を聖霊と解釈したから、(罪の結果である)霊の死という言い回しになったのだろう。
そうでもないように思います。
アダムとエバの失楽園は肉体の死と霊の死をもたらしたとモルモンでは解釈していますから、この部分も霊と肉体の両方のことを述べているのではないでしょうか。
例えばこの部分はこのようにも解釈されています。
http://w2322.nsk.ne.jp/~pom/tel/tel_2_44.html
その一つに、こういう解釈があります。「神の子ら」とは、王などの権力者のことであり、この話は、彼らが美しい娘たちを集めて自分の妻や側女にしていることへの批判として書かれている、というのです。
結婚についての聖書の基本的考え方は以前にお話ししました。そこからすれば、このようなことは人間のあるべい姿ではないのです。
権力者たちは、神の定められた秩序に従うのではなく、自分の欲望を主として生きているのです。そういう者たちに対して、神は、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」と言われた。その「霊」とは、神様が人間に吹き入れられた命の息のことではなくて、王や権力者としての力、地位を生みだすものである。
つまり神はこのような横暴で神を畏れない権力者の没落を語り、彼らの悔い改めを求めているのです。
しかし、「当時もその後も」、このようにして生まれた者たちが絶えない、つまり、人は悔い改めず、罪の中を歩み続けるのです。
この不可解な話は、そういう人間の罪の現実を描いていると考えることができるのです。
創世記6:3に中心を置けば、言い換えとかって学者マインドの方々はおっしゃるんでしょうが、平均IQ未満的たまWEBにしてみれば、ジョセフを通じもたらされたことに賛成みたいな信仰になっちゃうのかなぁぁ・・・
人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
創世記のこの部分は、私にとっては面妖な聖句です。 実話であるとすれば…
人=カインの子孫(正しくないほうのエノクの住人)VS神の子たち(神権者の系統)=カインを除くアダムの子孫 とすれば辻褄があってくるように思われます。
カインの子孫にも娘が産まれて、それが美しかったので、アダム家の子らが誘惑されて神殿結婚外の混血児が産れた。
そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。
「彼」とは混血児、ネピリムの寿命の短さだとすれば、彼は肉にすぎない(神権が持てないよという意味)と神が突きはなすのも納得できるし、神権が欠如しはじめた地に暴虐が満ちたり、神がこれらの事態を快く思わない理由も説明できたりします。
それはそうだと思います。
ただ、意図的に象徴的に書かれたというより。あまりに古い説話のため分かりにくくなっているという印象です。
思い切った意訳で知られるリビングバイブルではこうなっています。
1-2さて地上では、人々がどんどん増えてきました。 その頃のことです。
霊の世界に住む者たちが、地上に住む美しい女を見そめ、それぞれ気に入った女を妻にしてしまったのです。
3その有様を見て、神様が言いました。
「わたしの霊が人間のために汚されるのを放っておけない。
人間はすっかり悪に染まっている。
反省して、正しい道に戻れるように百二十年の猶予を与えよう。」
^^^
120年が人の寿命ではなく洪水への悔い改めの猶予期間というのはモルモンの解釈と同じです。
http://gianthumanskeletons.blogspot.jp/
http://gianthumanskeletons.blogspot.jp/2011/10/graveyards-of-giant-human-skeletons-in.html
いつも新発見ありがとうございます。でも何でジェレドの民がネピリム族になっているのかそのへんの因果関係がさっぱりわからないです。 洪水でも死んでなかったっていう説なの?
オムナイさん
120年は悔い改めの猶予期間であるという解釈でも納得できます。 むしろそっちのほうが分かりやすいかも知れません。
寿命が傍流で、洪水までの期間が主流で、モルモンもそれに倣ってるというのは間違いないのでしょうか。