「ヨハネの黙示録」は英語で単に “Revelation” であるが、ギリシャ語では Ἀποκάλυψις (アポカリュプシス) で、 apo- (from)と動詞 kalypto (隠す、覆う) からきている。その意味は「覆いを取り除く」。そしてapokalypsis は「覆いを取り除くこと」「覆いを取り除かれて顕にされたもの」となる。(画像参照)。
ヨハネの黙示録は象徴表現にあふれ、現代の読者には大変難解に感じられる。そのため読むのに苦労するが、一つの読み方はできるだけ書かれた時代背景や書かれた目的を知ろうと努力した上で、今日の私たちにも分かる真理や教訓に注目することではないかと思っている。
黙示録は迫害の時に書かれた黙示文学の典型で、時代はネロ(AD54-68)とドミティアヌス(AD81-96)帝の時代が大きくかかわっていて、ドミティアヌス帝の時に書かれたと考えられている。(Reed C. Durham, “Revelation,” New Era, May 1973、など)
この現代の読者を戸惑わせる黙示録をどう受けとめればよいか、新井智元玉川大学教授が次のようにやや俗っぽい言い方で手短に述べている。
「これはいわゆる未来の予言の書ではない。一見神秘的な予言に見えるが、実は著者は当時のローマ帝国と皇帝の圧制に対する憎しみをぶつけているのだ。検閲の厳しさを免れるために、わざと黙示文学の手法を使って分かりにくいように書いている。これは迫害に直面しているキリスト教徒に、キリストの勝利を説き、堅く信仰を守り勇気を失わないようにと励ますために書かれた、地下運動の宣伝文書だったのだ。・・これは現在の私たちにも神を信じて希望を失うなと呼びかけているものなのだ。」(新井智「聖書を読むために」1974年、p. 237)。
聖典を丁寧に読み、不明な所は理解できるようにしたいと思っているが、現代に生きる私たちがただ受け身的に字義通りに受け止めようと努めて読むのは、適切ではないし、象徴の意味をいちいちつきとめようとするのも、労多くしてあまり意味がないように感じている。
レッスンの前にこう言うのを出されるとやりにくい、なんか、黙示による意思伝達とも思えますね(笑)
黙示と言うのは、「暗黙の裡に自分や組織の意志を伝える事」らしいです。
法律用語でよく出て来るらしいですね。
明示に対して黙示が有るようです。
なんか、忖度の裏返しみたいに思えました。
官邸が黙示して、官僚が忖度する。今の日本の政治構造そのものですね。
そう言えば、どこかの教会にも多くの黙示が有りましたね。
黙示と言うのは便利なもので、後で問題になると「そんな事は一言も言ってない」って逃げられる。
「皆さんが、勝手に思い込んだだけですよ」って、このブログでも、何度も目にした言葉ですね。
でも、法律的には、黙示も明示と同じく、その人間や組織の意志を示したものだとされるようです。
裁判官の裁量次第と言う事らしいですがね。
黙示であっても、皆がそう言われたと感じた時は、そう言う意思表示が有った、とされるのは当然ですね。
それを、何とかごまかして逃げ切ろうとするのは、誠実な組織とは言えない。
弾圧の中から、声なき声を発したヨハネの崇高な黙示と比べると、歴史には、なんと薄汚い黙示が多い事かと思ってしまいます。
大体聖書の書名は漢訳聖書にならうのが多い中で、ヨハネの黙示録だけ「啓示録」からきているのですね。
日本語の漢字から説き起こすのは、豚さん特有の入り方で学ばせていただいています。
JSはヨハネの黙示録について、ある日は、聖書の中で最も分かりやすい書であるとのべる一方で、分からない部分はわからなくて大丈夫、分からないからという理由で、神が咎めることは有りませんとコメントしており、JSも質疑応答で一部解釈していますが、さすがのJSも全部の意味は分からなかった可能性が示唆されています。
もちろんモルモン書も実際の歴史を記述したものではない。
以上は私がずっと前から受け入れていたことです。そして黙示録も終末預言ではないということ。理性的に考えればわかることです。
まさしく!共感します。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/liahona/2015/12/joseph-smith-and-the-book-of-revelation?lang=jpn
・・
神秘的な示現の詳細の全てについて解釈を知ることは,わたしたちの聖文研究において重要なことではありません・・
神の奥義は,「悔い改めて信仰を働かせ,善い行いをし,絶えず祈り続ける」人に与えられます(アルマ26:22)・・
預言者ジョセフ・スミスは,黙示録の神秘性をなくすことによって,イエス・キリストの福音のさらに重要な部分から注意をそらしかねないものを取り去りました・・
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合い通ずるものを感じます。
666とか白い石とか興味は尽きませんが、神秘的解釈をする人、現実的解釈をする人に限らず人生を豊にする教訓を汲み取れればそれで良いのでしょうね。
もちろん教会はその時代の最大公約数的な信者に合わせた解釈をせざるおえないでしょうけど。
その立場をとると、それならイザヤ書はキリスト誕生の預言ではない、それはクリスチャンによる勝手なこじつけである。
というブーメランが返ってくるんだよなぁ・・・
まぁモルモン教徒には何のことかさっぱりわからんだろうけど。
NJさんは日曜学校の会長として、モルモン書は真実の歴史説をとるのですか?それともご自分の研究に誠実にジョセフ・スミス創作説をとるのですか?
まぁいつものように余計なことは言わずにオトボケという逃げもありですが・・・
「20 すると天使はわたしに言った。「小羊の十二使徒の一人を見なさい。
21 見よ、彼は、これらのことの残りの部分と、また今までにあった多くのことを見て書き記す。
22 また、世の終わりについても書き記す。
23 彼が書き記すことは正しく真実である。そして見よ、それらのことは、あなたがユダヤ人の口から出るのを見た書物の中に書き記される。そして、・・・
27 わたしニーファイは、天使の言葉により、この小羊の使徒の名がヨハネであることを聞き、ここに証する。
28 そして見よ、わたしニーファイは、見聞きしたことの残りの部分を書き記すことを禁じられているので、今まで書き記したことで満足するが、これまで・・・
」1ニーファイ14
「11 これらがキリストの言葉でないかどうか、判断してもらいたい。キリストは終わりの日に、力と大いなる栄光とをもって、これらが御自分の言葉であることをあなたがたに示されるであろう。そして、あなたがたとわたしとはキリストの法廷で対面する。そうすればあなたがたは、わたしが、弱点があるにもかかわらず、これらのことを書き記すようにキリストから命じられたことを知るであろう。
12 わたしは、あの大いなる終わりの日に、たとえすべてではなくても、わたしたちの多くの者が御父の王国に救われるように、キリストの名によって御父に祈る。
13 さて、わたしの愛する同胞よ、すなわち、イスラエルの家に属するすべての人よ、地の果てに至るすべての人よ、わたしは地から叫ぶ者の声のようにあなたがたに告げる。「あの大いなる日が来るまで、さらば。」
14 神の慈しみにあずかろうとせず、ユダヤ人の言葉も、わたしの言葉も、神の小羊の口から出る御言葉も心に留めようとしない者たちよ、これらの言葉は終わりの日にあなたがたを罪に定めるので、見よ、わたしはあなたがたに永遠の別れを告げる。
15 なぜなら、わたしが地上で結ぶことは、裁きの法廷に持ち出され、あなたがたに対して不利に働くからである。主がわたしにこのように命じられたので、わたしは従わなければならない。アーメン。 」
「9:61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
9:62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。
」
”現代に生きる私たちがただ受け身的に字義通りに受け止めようと努めて読むのは、適切ではないし・・・”
現代を世の終わり・末の世と受け取ってですねぇぇ・・
あかんですかねぇぇ??
「預言書としての解釈[編集]
この見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方である。
マルティン・ルターら歴史的なプロテスタントの黙示録理解は、歴史主義解釈というもので、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたという見方である。この立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられている。
過去主義者[編集]
過去主義者の解釈では『黙示録』が1世紀の終わりに起きた大迫害を預言していたという見方があるが、ヨハネがこの書を書いたのが1世紀の後半だと考える立場からは当然に支持されない。
過去主義者の体系的記述はイエズス会修道士アルカザールのもので、宗教改革者がローマ・カトリックを大淫婦バビロンとみなしたため、それを否定するためにあみだされたものであるが、その後に預言を否定するリベラルなウィリアム・ラムゼー、シェイラー・マシューズによって主張されている
」ウイキ
やっぱ過去主義的なんですかねぇぇ・・・??
人は、偉人が何気なく言った言葉に、願望を加えて、希望に変えます。
もし、その希望がその人の人生の後押しをするなら、預言は意味が有るのではと思います。
来年は、景気が良くなって、美味いものがたっぷり食べられると言う豚の予言皆が信じれば、景気が良くなって、美味いものがたっぷり食べられるようになるでしょう。
危機感をあおる預言は、何とか乗り越えて欲しいと言う願望だと思えば、良い未来に導くものだと思います。
預言が成就するかどうかは、今生きてる人間次第です。
結局、未来を創るのは、今生きてる私達しかいないんですからね。
それにしても、我がモルモン教会は、環境問題に目を向けない人が多いですね。