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ヨハネの福音書は、有名な「初めに言(ことば)があった」というはしがき(序詞)で始まる。5節まで続くこの部分は格調が高い詩の趣きがある。この「言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・」このように読んでいくと、言がキリストを指すことがわかる。
この「言(ことば)」は、神のみこころを実施する執行者、神の特質を具えた神的人格者を示唆してイエス・キリストのことであることが読者に理解される。しかし、ヨハネが意図した当時の読者、ヘレニズム世界の住民は、ロゴスという言葉に深い重層的な意義を感じていた。
それは次のようなロゴスの概念が先行して存在したからである。例えば、紀元前5世紀にエペソで活躍した哲学者ヘラクリトスの文書に「言葉は常に存在したが、人は悟らない。・・すべての物はこの言葉によって起こるが、人はそれに気づかないように見える」とあり、紀元前3世紀アテネでストア哲学を興したゼノンの文書に「正しい理性(ロゴス)である一般原則は、すべてを貫き、宇宙を統べる至高の頭(かしら)、ゼウスに等しい」とある。そして1世紀前半にアレキサンドリアで活躍したユダヤ人の哲学者フィロンは、ストア派の影響を受けて、神的資質の人格化されたロゴスという言葉を用いたことで知られている。(C.K.Barrett 1961).さらに、「エノク書(エチオピア語)」42章、「ヨハネのアポクリュフォン」80にも共鳴する概念を見出すことができる(大貫他「原典資料集」2013)。
また、ヘブライ語聖書の伝統から言っても、創世記で神が命じる言葉によって創造が行われたこと、知恵を実在的感覚でとらえ、世界と人の中に遍在する力と見る知恵文学の思想があったことも(箴言8:22以下など)、ヨハネの言葉(ロゴス)につながっていく。
このようにして、この福音書の著者は、特別な由来のあるこの術語に習熟し、積極的に用いた。ヨハネは当時の読者が感じ取るいずれの意味をも含ませながら、プロローグの文脈では神なるキリストを第一義に限定して、主旨を展開したのであった。ヘレニズム文化が普及した世界に訴える冒頭の句である。
参考
C.K.Barrett, “The New Testament Background: Selected Documents,” Harper & Row Publishers, 1961
沼野治郎「ヨハネの福音書のヘレニズム的要素」モルモンフォーラム 11号(1993年 秋季)
沼野治郎「ヨハネの福音書のヘレニズム的要素」、「私が接した言葉とその文脈」IV部1 徳山大学総合経済研究所 1999年
http://www.bible-researcher.com/logos.html(最近見つけた資料。A good comprehensive summary)
大貫隆・筒井賢治編訳「新約聖書・ヘレニズム原典資料集」東京大学出版会 2013年
その理解で言えば、「最初に言があった、言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・」
の意味するところは、
モルモン教会風表現
「最初に英知があった。英知は父と共にあった。英知はエホバであった。万物はその英知によって組織された。またその英知のうちにイエスがあった。イエスは人を照らす光である。 光は闇の中で輝いている。」
仏教風表現
「最初に因果があった、因果は仏と共にあった。因果は神である。万物はこの因果によって成った。因果のうちに釈迦が生まれた。釈迦は人を照らす道であった。道は苦の中で輝いている。」
にすんなりおきかえることができそうですね。
一般的なキリスト教では、父と子の関係が混沌としているために、ロゴスとか言われても信者はどうなのでしょう。 ロゴス=イエスキリストであるということは把握されているようですが。
一般のキリスト教会の会員がヨハネ1:1をどう受け止めているのか、直接的には知りません。ただ、有名な言葉で、注解書もあり、伝統も割合長いですから、彼らの三位一体論に沿って、解釈が定着しているのではないでしょうか。「言は神と共にあった」の部分。
逆に「言は神であった」の部分は一般のキリスト教に自然に響くのではないかと思われます。
第2は,誇りが高く,うぬぼれの強い人。自分のうぬぼれた考えに照らして読み,自分の考えた法則で解釈し,自らが律法になろうとして,自分こそが自分の行為を裁く唯一の裁き手であるとする人。このような人は,第一の人以上に危険で無知な人である。」
ただ何でも良いわけではなく、簡単で基本的な福音に調和しているかどうか照らし合わせて考えて見たときに、福音に調和しない解釈は偽りでしょうね。それは神がまかないものとして不協和音となり、いずれは抜き取られるということでしょう。
筆者の置かれていた聖書の時代背景(ヘレニズム文化圏への伝道を願っていた。)と共に読み解くならば、むしろ、アンモンがラモーナイ王に伝道しようとした気持と通ずるものがあるのではないだろうか。
自分が預言者よりも物事を正しく理解していると、レーマンたちのように誤解している。
沼野兄弟の無知と誤解の主張をブログやフェイスブックで発信することに、まともな教会員たちは迷惑がっています。
「真理」を誤解している教会員たちと組んで、科学的な根拠も間違っていて、聖霊からの証、啓示もない主張は、見苦しいです。