本ブログの越本氏訃報で、彼が生前小説釈迦伝「異邦の予言者」を著したことに触れた。阿弥陀をキリストと見る考えは彼以外にも以前からあり、越本氏が最初というわけではない。この視点の可能性について少し調べてみた。
まず私は仏教について素人であるから、それなりの確認と整理しかできないことを断っておく。最初に阿弥陀信仰は、阿弥陀仏が主宰する西方極楽浄土に往生しようとする信仰であって、大乗経典に説かれているという。
[西方浄土を望む写真]
大乗仏教は紀元前後頃、従来の出家者中心であった部派仏教を批判してインドに起こった改革派の仏教で、中国、日本などを含む東アジア、チベットに伝わった北伝仏教がこの流れを汲んでいる。
そこで、仏教を興した釈迦牟尼(紀元前5, 6世紀)自身が阿弥陀仏信仰を抱いていたかどうかが問われる。釈迦より後世に生まれた思想である可能性があるからである。
私はもしそうであったとしても、久遠の昔、修行の結果衆生救済のため数多くの願をかけて成就したという、阿弥陀仏を後世の仏教徒が、釈迦の時代に遡及して受けとめる信仰を受け入れたい。
キリスト教徒も旧約聖書のメシア(ダビデのようにイスラエルを独立国として治める王の再来)を魂の救済を実現するキリスト(メシア)で待望が成就したと読み変え、旧約聖書を新約化して読んでいる。例、イザヤの「苦難の僕(しもべ)」をキリスト予言と見るなど。
今日の信仰理解(概念)を過去の時代もそうであったと当てはめて考えるのは、キリスト教にも末日聖徒イエス・キリスト教会にも言えることである。
(阿弥陀信仰が仏教の初期、大乗仏教が生じる前にもあったのかどうか、など小生の考察に不足や誤りがあれば、諸賢のご指摘をお願いしたい。)
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その私が思うにはですが、
キリスト教には、絶対神が有り、「神の存在」が信仰の基本に有ります。
つまり、事の判断基準が、「神の意思」なのです。よって、人間がそう考えてもおかしいと思っても、神が「正しい」と言えば、それが正しいのです。
キリスト教信仰者は、「何が神の言葉か?」を追求します。それで、神に直接聞こうとして祈り、預言者の言葉を拝するわけです。
仏教は、(たぶんですが)論理的に成り立っています。釈迦が言ったかどうかを根拠に判断する事は無いようです。
地位の高いお坊さんが言った事でも、論理的に正しくない事は、排除され、経典でも、つまらないものは捨てられていくようです。
仏教には多くのキャラクターが存在します。
しかし、ほとんど実在の人物では有りません。
教えを理解するのに、分かりやすくする為に生み出したキャラクターです。
「阿弥陀」も、そのキャラの中の一つです。
「生ける神」を求めるキリスト教文明と、「法」を求める仏教文明とは、根本的に違いが有ると思います。
仏教文明の中に居るキリスト者が、キリストの中に仏教のキャラを見つけたとしても、それが同一のものだと考えるのは、軽率だと思います。
仏教文化の中で生まれ育ったものが、キリスト者となり、自分の価値観とキリスト教の教えをすり合わせようとして、時に、無理な同一化を測るのかもしれませんが、やはり、別のものは別として認識し、その類似点として認めるのが正しい方法じゃないでしょうか?
ビーフカレーは美味しいですが、インドでカレーにビーフを入れる事は無いのでは?
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