私は昔から次の聖句を読む度に、一般のキリスト教会、特に福音派と言われる教会は異端とみなす末日聖徒イエス・キリスト教会を同じように見ることができないものだろうか、と感じてきた。
マルコによる福音書
9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。(その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました。 ルカ9:49)
9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。」(あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである。 ルカ 9:50)
私たちについてこない、仲間でないので、すなわち流儀(宗派)が違うのでやめさせたい、排除したい、では相互に理解し合い、社会の退廃・腐敗に対して協力して対処しようとする、今日のエキュメニカルな時勢にそぐわないのではないか。これはひとりの日本の末日聖徒の思いであった。
(LDS教会こそ、唯一真を掲げ、他宗が全て誤っていると先に主張したではないか、という反論も、NTにある厳しい異端への警告も承知の上、現代人のひとりとして心に生じている思いを記した次第である。強力な福音派「活ける一麦教会」の牧師の訪問を明日に控えて。)
[付記] 12/13日くだんの牧師さんに上の話をしたところ、幸い理解を示され反論されなかった。活ける一麦教会も現代風の対応をする余裕を得ていることを知ることができた。特にこのK師は理知的な面を感じさせる、好感を覚える人である。考えてみれば、相違が大きいが(一麦教会はとにかく元気、勢いがある)、私の所属する米国生まれのlds教会と日本生まれの活ける一麦教会は、共にヨーロッパの教会系譜につながらない、米日のネイティブな宗教組織なのである。
マルコによる福音書
9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。(その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました。 ルカ9:49)
9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。」(あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである。 ルカ 9:50)
私たちについてこない、仲間でないので、すなわち流儀(宗派)が違うのでやめさせたい、排除したい、では相互に理解し合い、社会の退廃・腐敗に対して協力して対処しようとする、今日のエキュメニカルな時勢にそぐわないのではないか。これはひとりの日本の末日聖徒の思いであった。
(LDS教会こそ、唯一真を掲げ、他宗が全て誤っていると先に主張したではないか、という反論も、NTにある厳しい異端への警告も承知の上、現代人のひとりとして心に生じている思いを記した次第である。強力な福音派「活ける一麦教会」の牧師の訪問を明日に控えて。)
[付記] 12/13日くだんの牧師さんに上の話をしたところ、幸い理解を示され反論されなかった。活ける一麦教会も現代風の対応をする余裕を得ていることを知ることができた。特にこのK師は理知的な面を感じさせる、好感を覚える人である。考えてみれば、相違が大きいが(一麦教会はとにかく元気、勢いがある)、私の所属する米国生まれのlds教会と日本生まれの活ける一麦教会は、共にヨーロッパの教会系譜につながらない、米日のネイティブな宗教組織なのである。
べつにモルモンはモルモンで良いじゃないですか。
唯一真の神の教会だって自覚が有ればね。
異端である事に何の問題も有りません。
問題になるのは、その教えが「本当に神から来たものなのか?」「人の心に響くものなのか?」ではないですか?
モルモンが、なかなか世の中に受け容れられないのは、キリスト教だと認めてもらえないからではないでしょう。
逆に言うと、モルモンがキリスト教会から、キリスト教だと認められても、それで、世の評判が変わるわけではないでしょう。
モルモンが、モルモンとして、世の中に受け入れられるには、(それを望むなら)その方向に向いてそれなりの努力をしないといけないでしょう。
「愛されるには愛らしくあれ」
嫌味な豚は誰も食わない・・・食われたくないんで・・。
教会員の中に自ら異端であろうとする風潮があるのではないでしょうか。震災での奉仕活動や援助はすばらしいのですが、自分の住んでいる地域で、生活に密着した奉仕ができるようにならなければ、いつまでも教会員は異端であり続けるのではないでしょうか!
私は特別な立派な教会員ではなく、自分の住んでいる地域で地域活動を地域の人と一緒に推進できる普通の人でありたいと思っています。
あのマザーテレサも、貧しい人の為に、修道院を出て活動を行おうとした時に、カソリックの指導者は許可を出さなかったそうです。
組織の上にたつ人と言うのは、そんなもんです。