私はかなり昔から、モロナイ書に聖餐式の言葉や施し方が記されているのを読んで、古代の書物がその終わりにかけてなぜそのようなことを記しているのか、しっくりこない感じを受けていた。
このことについて、米北西大学(Northwestern University)で新約聖書を学んだマーク・D・トマスは、この部分は古代の文書が19世紀の読者に語りかけているという飛躍(トマスは緊張関係と表現)を含んでいる、と指摘する。そして、キリストがアメリカ大陸を訪れて聖餐を取るよう、初めて教えられた場面で、「あなたがたの中に論争があった」(第三ニ―ファイ18:34)とされているのは矛盾である、と指摘している。モロナイ書で聖餐の儀式の祈りがこうあるべきであると記されているのは、19世紀アメリカで異なった考えや方式があったという背景に対して語りかけているというわけである。
トマスは、同じことが2章(聖霊を授ける方法)、3章(神権の聖任)、6章(バプテスマの執行)についても言え、19世紀のクリスチャンを対象に語りかけていると記している。彼は19世紀に行なわれていた祈りや儀式の言葉を詳細に検証し、当時特に決まった言葉を使用すべきであるという考えと自然にその場で出てくる言葉遣いを尊重する立場があったことをあげている。
資料
Mark D. Thomas, “A Rhetorical Approach to the Book of Mormon: Rediscovering Nephite Sacramental Language,” in Brent Lee Metcalfe, ed., “New Approaches to the Book of Mormon,” Signature Books, 1993. pp. 53-55, 57, 77.
上記記事に対し、理知的にして実際的なコメントが寄せられたので、補足しバランスを取るため、了解を得て以下に転載させていただくことにした。
「モルモン書は19 世紀の代物だ、という主張。わざわざ主張するほどのことなく、それは議論の余地なく間違いない。19世紀に出版されたのだから。でも、もちろん、その主張 の意味は、起源前600年から421年くらいに書かれた物語なのに、実際には19世紀のものだ、と言いたいのだろう。でも時代劇を考えてみよう。描いている時代は古いものだとしても、それを現代に作り上げれば、当然現代風の作風になる。昔のまんま、描写したら、言葉もわからないし、背景もわからないし、現代人にちっともぴんと来ない、つまらない作品になるに違いない。モルモン書が書かれている時代が数千年前だとしても、それが世に出てきたのが19世紀なら、当然、19世紀に大事になっていることが含まれ、重点がおかれるに決まっている。翻訳した人、出版した人たちが19世紀の人たちなんだから。
きっと心配はもっと深いところにあるのだろう。もしも神に起因した書物なら、そのような人の気配や、指紋、偏見はつかずに、そのまま霊感だけで、数千年前の物語が純粋に出てくるはずだという想定があるのだろう。しかし、そこに想定違いがあるのかもしれない。神は人を通して語る。神は英語を母国語としなくても、 英語を話す人に話すとしたら、その英語で話すだろう。ほとんどの場合、預言者はその母国語で神の啓示を表現する。そして、その言語には限界もある、時代によって言語も変化する。解釈も異なる。重点視点も異なる。文化背景、時代背景も当然入ってくる。だから、人づてで、啓示が表現されれば、当然、そのときの 時代背景に沿って、表現されるのでしょう。神が人の理解を無視して語ったなら、人は何も理解できないだろう。むやみにモルモン書の絶対性は私は主張しないが、むやみに無効性も主張するべきではないと思う。そもそも、宗教本は、その内容を自分の生活に応用して霊的な糧にするべきものであって、科学的、文学的、歴史学的に検証し、何かを証明すべきものではない。(ほじくるのはとても面白いことは認めざるを得ないが)」(2012/12/18 Steadie Saneyoshi)
このことについて、米北西大学(Northwestern University)で新約聖書を学んだマーク・D・トマスは、この部分は古代の文書が19世紀の読者に語りかけているという飛躍(トマスは緊張関係と表現)を含んでいる、と指摘する。そして、キリストがアメリカ大陸を訪れて聖餐を取るよう、初めて教えられた場面で、「あなたがたの中に論争があった」(第三ニ―ファイ18:34)とされているのは矛盾である、と指摘している。モロナイ書で聖餐の儀式の祈りがこうあるべきであると記されているのは、19世紀アメリカで異なった考えや方式があったという背景に対して語りかけているというわけである。
トマスは、同じことが2章(聖霊を授ける方法)、3章(神権の聖任)、6章(バプテスマの執行)についても言え、19世紀のクリスチャンを対象に語りかけていると記している。彼は19世紀に行なわれていた祈りや儀式の言葉を詳細に検証し、当時特に決まった言葉を使用すべきであるという考えと自然にその場で出てくる言葉遣いを尊重する立場があったことをあげている。
資料
Mark D. Thomas, “A Rhetorical Approach to the Book of Mormon: Rediscovering Nephite Sacramental Language,” in Brent Lee Metcalfe, ed., “New Approaches to the Book of Mormon,” Signature Books, 1993. pp. 53-55, 57, 77.
上記記事に対し、理知的にして実際的なコメントが寄せられたので、補足しバランスを取るため、了解を得て以下に転載させていただくことにした。
「モルモン書は19 世紀の代物だ、という主張。わざわざ主張するほどのことなく、それは議論の余地なく間違いない。19世紀に出版されたのだから。でも、もちろん、その主張 の意味は、起源前600年から421年くらいに書かれた物語なのに、実際には19世紀のものだ、と言いたいのだろう。でも時代劇を考えてみよう。描いている時代は古いものだとしても、それを現代に作り上げれば、当然現代風の作風になる。昔のまんま、描写したら、言葉もわからないし、背景もわからないし、現代人にちっともぴんと来ない、つまらない作品になるに違いない。モルモン書が書かれている時代が数千年前だとしても、それが世に出てきたのが19世紀なら、当然、19世紀に大事になっていることが含まれ、重点がおかれるに決まっている。翻訳した人、出版した人たちが19世紀の人たちなんだから。
きっと心配はもっと深いところにあるのだろう。もしも神に起因した書物なら、そのような人の気配や、指紋、偏見はつかずに、そのまま霊感だけで、数千年前の物語が純粋に出てくるはずだという想定があるのだろう。しかし、そこに想定違いがあるのかもしれない。神は人を通して語る。神は英語を母国語としなくても、 英語を話す人に話すとしたら、その英語で話すだろう。ほとんどの場合、預言者はその母国語で神の啓示を表現する。そして、その言語には限界もある、時代によって言語も変化する。解釈も異なる。重点視点も異なる。文化背景、時代背景も当然入ってくる。だから、人づてで、啓示が表現されれば、当然、そのときの 時代背景に沿って、表現されるのでしょう。神が人の理解を無視して語ったなら、人は何も理解できないだろう。むやみにモルモン書の絶対性は私は主張しないが、むやみに無効性も主張するべきではないと思う。そもそも、宗教本は、その内容を自分の生活に応用して霊的な糧にするべきものであって、科学的、文学的、歴史学的に検証し、何かを証明すべきものではない。(ほじくるのはとても面白いことは認めざるを得ないが)」(2012/12/18 Steadie Saneyoshi)
この文章で一つ抜けているのが、「誰が?」と言う観点です。
19世紀の読者に語りかけているのは、モロナイですか?ジョセフ・スミスですか?
>古代の書物がその終わりにかけてなぜそのようなことを記しているのか、しっくりこない感じを受けていた。
古代の書物だと考えるから、「しっくりこない」だけです。19世紀の書物だと考えると、何の問題も有りません。
そもそもの思考の始まりが間違っているだけです。
私が感じてきたことは、時間的な推移を勘案して読んでいただきたいと思います。当初はもちろん、ずっと額面の通り受けとめてきたわけですから。
ともあれ、もう少し穏やかで丁寧な、あるいは婉曲な表現を希望します。記事を載せた者にも他の読者にも人格があるのですから。