[右から新改訳、口語訳、新共同訳と英訳(TEV)合本(新約)、フランシスコ会訳(新約)、新共同訳(旧約続編付)、聖書ソフト(Mac版)]
私も聖書について同じように感じていたので、この田川建三の言葉に賛成である。田川は「悪癖」と言う。末日聖徒の間でも何かと言うと英語ではこう書いてあります、と言う人がいる。聖書の場合、本当は背後にヘブライ語(旧約)やギリシャ語(新約)があることを等閑視しているように見える。また、日本語の聖書翻訳が立派な水準に達していることに気付いていないように思われて残念である。
田川が「書物としての新約聖書」(1997年) に一節を割いてこの件に触れているので、紹介したい。まず、日本のキリスト教徒の多くが漠然と抱いている思いについて厳しい。「英語の訳を読めばもっと正確に理解できるのではないか、などと言う人がよくいる。しかし、・・日本語の聖書の翻訳は今やかなり高い水準のものなのである。日本語訳では駄目で、英訳なら信用できる、などというのは、低級な英米崇拝心情以外の何ものでもない。」
聖書の翻訳について、「原典からの距離の遠さは、日本語訳だろうと英語訳だろうと大差ない」と言い、英語についてインドヨーロッパ語族の中でも最も変化(語形変化など文法項目を喪失、簡略化)した言語で、「ギリシャ語にあって英語にない時制を表現するのは厄介である。現にアオリストの訳について、英語訳聖書は非常に苦労している」と例をあげて説明している。(アオリストという時制は、未完了過去が継続的、描写的であるのに対し、瞬間的、列挙的である。あることが過去において片付いたことを表す時制。)
そして、「日本語での聖書の翻訳もすでに百年を越える歴史と経験を持っているのであり、加えて、最近の聖書学の急速な発達は世界的に翻訳の水準を高めた。だから、現在存在している日本語の翻訳は、翻訳としてはすでに十分に評価しうるもの」であると、先達を含めて仲間の聖書学者たちの業績を高く評価する。
それで、聖書の読み方として次のように提案している。「異なった翻訳が多数存在するならば、それらを相互に比較検討することによってより正しい理解が得られるのは確かである。・・現存のどの翻訳も『帯に短し、たすきに長し』であるから、どれか一つの翻訳にだけ頼るのは、本当は、やめた方がいい。従って、可能ならば、自分の知っているいくつかの言語の翻訳を読み比べる」ことを勧めている。
田川建三「書物としての新約聖書」勁草書房、1997年
関連して:
当ブログ 2010.04.28 教会の自主独立は原典理解から(玉川直重)
私も聖書について同じように感じていたので、この田川建三の言葉に賛成である。田川は「悪癖」と言う。末日聖徒の間でも何かと言うと英語ではこう書いてあります、と言う人がいる。聖書の場合、本当は背後にヘブライ語(旧約)やギリシャ語(新約)があることを等閑視しているように見える。また、日本語の聖書翻訳が立派な水準に達していることに気付いていないように思われて残念である。
田川が「書物としての新約聖書」(1997年) に一節を割いてこの件に触れているので、紹介したい。まず、日本のキリスト教徒の多くが漠然と抱いている思いについて厳しい。「英語の訳を読めばもっと正確に理解できるのではないか、などと言う人がよくいる。しかし、・・日本語の聖書の翻訳は今やかなり高い水準のものなのである。日本語訳では駄目で、英訳なら信用できる、などというのは、低級な英米崇拝心情以外の何ものでもない。」
聖書の翻訳について、「原典からの距離の遠さは、日本語訳だろうと英語訳だろうと大差ない」と言い、英語についてインドヨーロッパ語族の中でも最も変化(語形変化など文法項目を喪失、簡略化)した言語で、「ギリシャ語にあって英語にない時制を表現するのは厄介である。現にアオリストの訳について、英語訳聖書は非常に苦労している」と例をあげて説明している。(アオリストという時制は、未完了過去が継続的、描写的であるのに対し、瞬間的、列挙的である。あることが過去において片付いたことを表す時制。)
そして、「日本語での聖書の翻訳もすでに百年を越える歴史と経験を持っているのであり、加えて、最近の聖書学の急速な発達は世界的に翻訳の水準を高めた。だから、現在存在している日本語の翻訳は、翻訳としてはすでに十分に評価しうるもの」であると、先達を含めて仲間の聖書学者たちの業績を高く評価する。
それで、聖書の読み方として次のように提案している。「異なった翻訳が多数存在するならば、それらを相互に比較検討することによってより正しい理解が得られるのは確かである。・・現存のどの翻訳も『帯に短し、たすきに長し』であるから、どれか一つの翻訳にだけ頼るのは、本当は、やめた方がいい。従って、可能ならば、自分の知っているいくつかの言語の翻訳を読み比べる」ことを勧めている。
田川建三「書物としての新約聖書」勁草書房、1997年
関連して:
当ブログ 2010.04.28 教会の自主独立は原典理解から(玉川直重)
受講料なしで言語学の勉強ができるのはありがたい(笑い)
モルモン教会内では特にですが、他の宗教でも、「誰が言ったか」とか、「(聖文の)どこに書いてある」と言うのを、正しさの根拠にする人が多いように思います。
ジョセフ.スイスが言ったから正しい、ブリガム.ヤングが言ったから、大管長が言ったから、イエスが言ったから・・・・。
とか、モルモン書のどこに書いてあるから・・聖書のどこに書いてあるから・・。
と、言うのですが、ほとんどの場合、それは単に自分の思いついたことに当てはまる言葉を探し出しているに過ぎないんです。
子供の頃の喧嘩で、「先生がが言ってた!」って言うと「先生が言ったら人でも殺すのか!」ってやり返すわけで。子供のころから、自分の意見を主張するのに、「権威」のバックアップを求めるのが、人間の性なのかも知れません。
ですから、聖書の一言一句について、「本来の意味は・・」って、ギリシャ語だヘブライ語だにさかのぼってしまうんですの。
勿論その様な研究は必要で、重要ですが、結局のところ、一体何が良いのか?と言う事の答えにはならないんです。
挙句の果てに、「グルが言ったからポアした」と言う様な悲劇を生みだすんですね。
とどのつまり、神様が何を言ったかなんて誰にも分らない、それより、神様がくれた、脳みそを使って考える方が良いような気がします。
誰が言ったかより、言ったことの内容を考えるべし!
って、豚が言っても、誰も同意しないんですよね。
常識を用いること、文学的コモンセンスを活用することも肝要です。⇒ 当ブログ 2014.06.05 聖書の読みづらさ(二)
単に自分の思いついたことに当てはまる聖句を探し出しているに過ぎないという指摘は、むしろ的を得ていますよ。 それのどこが背教なのでしょう。 そうならないように教会員は気をつければいいだけのことですよね。
要は、今天使の言葉で語っているかどうかが重要であり、ジョセフスミスが言ったから正しいとかブリガムヤングが言ったら正しいとかは、単なる権威に頼ってるだけですよ。
https://www.lds.org/topics/apostate?lang=jpn
豚から見るとこのような文章を、恥ずかしげもなく出しているのが背教者を生む要因だと思います。
「・・を参照してください」「でも、公式な見解じゃないですよ」
って、人を馬鹿にしてませんかね?
>自分たちを末日聖徒とかいっているので、人々を騙しているし、卑怯です。
神殿と言う重要な教義を教えないまま、バプテスマを受けさせ、会員にするというのは、騙しているのでも卑怯でも無いんですか?
30年ほど前までは、教義と聖約さえ、バプテスマの前には見せなかったのをご存知ですか?
教会の方針や教義、過去の指導者の言動等に異議を唱えるのは、決してモルモン教会を潰したいからじゃない。
自分の良心に照らして、心から世の中の人に広めたいと思える教会に成ってほしいからです。
自分の良心を欺かないと続けられない信仰生活は幸福とは言えない。
2015-03-01 02:22:16
LDS聖書研究同好会
https://www.facebook.com/
聖典批判
http://en.wikipedia.org/wiki/Criticism_of_Mormon_sacred_texts
ダリン・H・オークス長老による説教
http://garyo.or.tv/michi/sinjitu/bomormon/oaks.htm
背教者
https://www.lds.org/topics/apostate?lang=jpn
(公私の別なく)教会の主要な教えに反する行いやそれを無視するような行いをした人は,背教者とみなされます。
あなたたち、自分たちを末日聖徒とかよばないで、背教者とよんでください。
自分たちを末日聖徒とかいっているので、人々を騙しているし、卑怯です。
嫌がらせになっています。
多くの人々から苦情がでています。
信仰上のことで他者を判断したり裁いたりするのは、非常に注意を要するというか、危うい側面があるんではと・・・・人それぞれということで、生まれも育ちも顔かたちも能力もみんな違うように、おんなじ信仰と言うのはありえないというのは、これ現実なわけで、鰯の頭も信心から(第三者の目からはつまらないものに見えても、信心する人にとっては尊くありがたい存在になるということ)を各教会員の信仰の程度にあてはめれるわけで・・・・信仰者としては、皆は、人生おしなべて学んでいく過程にあり信仰を練る過程にいるわけで、例えば、勉強したい人、ネットを通じての勉強も信仰のうち、信仰を深めるうちとする人、意見交換などでもっと高めたい人とか、そういった人たちの学びの場や機会を奪ったり妨げたりするのは、遺憾なのではと・・・・
基本、主イエス・キリストを信ずる信仰ということで、どういった信仰を持ち、どういった聖霊の導きを受けて、そのように裁いているということなんだろう??・・・・理想的には各末日聖徒の信仰者には、聖霊の導きということがあるわけで、その導きなしでさぁ、さらには、人間、教会幹部も含め、人への信仰に置き換わっては、その権威でもって裁いたりでは問題なのでは??どこどこに教会指導手引きにこう書いてあるとかって・・・・
例えば、背教者云々と主張してる鈴木さんが、その権威を借りてるとして、仮定の話として、権威筋のほうが、モルモン書は偽典かもとかって言うようになったとしましたら、今度は、鈴木さんが自分を背教者呼ばわりしなきゃいけなくなるわけで、(鈴木さんが一貫性のある人だとして、その都度、風見鶏のように教会幹部のオウム返し、受け売りじゃなく)モルモンの信仰というのはそういうもんじゃないってことですよねぇぇ、導き手が、人に基づくんでは欺かれますよと、聖文にあるわけで、「56 わたしが栄光のうちに来るその日に、わたしが10人のおとめについて語ったたとえは成就するであろう。
57 賢くて、真理を受け入れ、自分の導き手として聖なる御霊を受け、そして欺かれなかった者、すなわち、まことにわたしはあなたがたに言うが、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれることなく、その日に堪えるであろう。
」(教義と聖約45)・・・・
ということで、どうも納得がいかない感じなんだがなぁ・・・・大切なのは、各個人の自立した信仰、個人の受ける導きということでそういった面を擁護するのが、本来の姿なんでは・・・・そこには、寛容とか広く意見を聞く、裁きは忘れて、学ぶ姿勢みたいな、そういったことが望ましいことになるんでは・・・・
イエスもユダヤ教から見れば背教者
半導体も、不純物が有って初めてその機能が生まれたんですよね。
超伝導の世界も、どんな不純物を入れるかが勝負!
最近話題になている、腸内細菌も人間の体の中に存在する事によって、色々と良い働きをする。
青色発光ダイオードで、ノーベル賞を受けた中村氏も組織内では異端分子だった。
なんでもはじめは、異端なんです。
モルモンも背教者を大事にしないと、衰退して消滅するよ。
茶坊主みたいなのばかり残ったら未来はない!
え?末日だから初めから未来はない・・・そうですね。
19:11 イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
19:12 これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。
・・・・
19:14 ・・・・ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
19:15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
19:16 そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
」
(ヨハネ伝)
この権威、権力というのは、ある意味超曲者でっせ、でっせ・・・・
なんて言いながら、らい病を重い皮膚病に言い換えたのでは、意味が違うように思いますけど
豚さんの
自分の良心を欺かないと続けられない信仰生活は幸福とは言えない。
に大賛成です。
私は、自分の良心を欺いて教会員を続けています
どうも口語訳の「らい病」は病気が違うようで現代の何に相当するかわかっていないようです。
らい病・ハンセン病への誤解もあってのことなのでしょうね。
新改訳聖書では「ツァラアト」とヘブライ語の読みのままを採用しているようです。
やはり、聖典の翻訳は精査し続けるべきものなのでしょね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ツァーラアト