NJWindow(J)

モルモニズムの情報源、主要な主題を扱うサイト。目次を最新月1日に置きます。カテゴリー、本ブログ左下の検索も利用ください。

明治訳「モルモン經」の実質的翻訳は生田長江

2016-02-01 17:24:39 | モルモン教関連
  [明治訳モルモン經]

モルモン書は1909年に日本で翻訳された時、文語体(当時の「文章体」)であった。当時、日本伝道部をヒーバー・J・グラントに次いで管理していたアルマ・O・テイラーは、1904年7月からモルモン書の日本語訳に着手していたが、テイラーの訳文は言文一致体(口語と文語の混合体)で2年弱で終了し、1907年12月にその改訂も終了していた。

しかし、いくにんかの日本人に相談したところ、宗教の聖典に相応しいのは文章体(文語)であると提案され、ニーファイ第一書1章を神戸と仙台に住む日本人に見てもらったところ、やはり文語に直して返送してきた。それでモルモン書の翻訳をやり直すことになった(二コルズ論文, p. 46)。

その結果、初め早稲田大学の平井広五郎(1907.9.2-1908.3.31契約)、ついで夏目欽之介(漱石)の推薦で生田長江(本名弘治、)と契約して(1908.7.29-) 1909.4.3生田が文章語の翻訳を終了している。(平井は途中契約違背のため、契約破棄に至っているので、生田が最終稿を教会に提出したと見る。) それをテイラーが点検し、平井や河井幸三郎(号醉茗、作家、詩人)など数人の日本人の意見を聞いて、1909.7.24 原稿が完成している。そして、最終的に1909.10.10印刷を終えている。

[生田長江、1903年頃。日本の作家、翻訳家]

後に昭和訳の翻訳を行なった佐藤龍猪はこの明治訳について、「その訳はまことに立派なもので、必ず名のある専門の英学者の手によって成ったものであることを確信させられました」と語っている(「聖徒の道」1957年7月号)。この評の通り、格調高い優れた訳であって、佐藤の言葉は明治訳が日本人の手によっていることを示唆している。

[明治訳冒頭の部分] 

私は、アルマ・O・テイラーがヒーバー・J・グラントなどに比べて、語学に秀でモルモン書の日本語訳に数年の年月をかけ、努力を傾注した貢献に敬意を表する者であるが、ここで田川建三風に辛口で言えば、明治訳は彼の力量を越えたできで、実質日本人の手になるものであると考える。彼は滞日8年になるが、自由に日本の新聞雑誌、書籍を読み、文を書いたりして、聖典を邦訳できる能力を具えていたとは考えられない。研究職や大学の教職に就いていたあるいは日本語で文筆活動をしていたわけではなく、布教活動をしていた状況を考慮すべきであろう。現に彼は原稿をローマ字で書いている。* また、翻訳の自然な姿は日本語を母国語とする翻訳者が英語から日本語に訳す方向である。(まして、ヘブライ語やギリシャ語が介入せず、英語が原文であれば、日本の英学者の力量は既に十分であった。)

明治訳「モルモン經」の見開きページに、和訳主任者アルマ・オー・テイラーとあるのは、翻訳監修者と読み替えるべき肩書であろう。末尾の頁に発行者、教会の代人として自分の名前を記していることも彼の立場を表している。


*アルマ・O・テイラーが初めに翻訳を完了した言文一致体の原稿が残っていれば、是非文語訳と比較検討するべきであるが、破棄されている(高木、マッキンタイヤ、1996年、104頁)。BYUに保管されているのは、完成された原稿と印刷業者渡しの二種である。(生田が託された仕事は文体の変更であると伝えられているが、一日5時間従事するという契約で責任ある仕事をするとすれば、オリジナルの英文を把握した上で、格調ある訳文を自ら構成して作業を進めたと考えられる。)
 明治訳(文語)は委託された生田の翻訳によるもので、アルマ・O・テイラーが翻訳したとは言えないのではないか、と高木信二氏に話したところ、言下に彼(アルマ・O・テイラー)にはできない、との反応であった。(2016.11.12、於大阪)。

参考文献
Reid L. Neilson, “The Japanese Missionary Journal of Elder Alma O. Taylor, 1901-10” BYU Studies and Joseph Fielding Smith Institute for Latter-day Saint History, 2001

Murray L. Nichols, “History of the Japan Mission of the L.D.S. Church 1901-1924” (Thesis, Provo, Utah, 1957)

Jiro Numano, “The Japanese Translation of the Book of Mormon: A Study in the Theory and Practice of Translation” (MA Thesis, Provo, Utah, 1976)

高木信二、ウイリアム・マッキンタイヤ「日本末日聖徒史」ビーハイブ出版、1996年


最新の画像もっと見る

33 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
明治訳収集家 (オムナイ)
2016-02-01 18:02:09
初めて明治訳を読んだ時に朗々として美しい語感に感動しました。

手に入れようと神田を古本巡りしましたが手に入らず、国会図書館へ。
(モルモンフォーラムの記事もこの時コピーしました^^)

その後ネットで2点、もらったのが2点と集まってます。
そのうち1点は初版本、1点は珍品で小サイズのモルモン經。

聖餐会のお話で翻訳の話をさせていただき文語訳を朗読したことも。

正統派では古い訳も販売していますからモルモンも是非販売して欲しいです。

著作権が切れているから勝手に販売しても良いのかも。

返信する
宗教書にふさわしいのは文語体 (ジョン・ドゥ)
2016-02-01 20:02:31
と言う見解には私も賛成。
聖書も文語体が良いですね。
私はモルモン教会伝統の『正確な翻訳』と言う観点には反対、と言うか少しでも外国語を学んだら、そんなことは無理って解ると思いますけどねぇ。
返信する
難解にて非ざるが良し ()
2016-02-02 09:23:12
文語体が良しとの意見も理解せざるわけではないが、豚のごとき無学な者には、文語体はまことに誠に難解なり。

しかして、世の者神の言葉を聞こうとするに、難解にては理解しえず、聖典を読みしも、理解せざるるなからん。

難しき言葉の聖典は、世の多くの人の理解を深めるに能わず、受け入れらるることなし。

聖典たるもの、容易に理解を得る事こそその使命と知るべし。

特に、過去の聖典にて使われし、多くの二重否定は万民に誤解を生まざる事なし。

聖典の難解なるは、世の人に聖職者の権威と特権を能うるにすぎず、万人の利益に有らずなり。

愚者はその言葉を難解にし、賢者は容易に理解しやすき言葉にて物事を語ると知る。
返信する
Unknown (教会員R)
2016-02-02 10:02:50
夏目漱石が大勢いたであろう門下生のうちから、詩人の生田長江を選んだのは当然の理由があったようです。 

生田長江は若いころから、無教会主義の内村鑑三の書籍を読み、ユニバーサル教会(原理的三位一体と対極である三位三体よりの宗教観の教会)からバプテスマを受けており、聖書の異稿を収集するなどして、クリスチャンとして聖書に親しんでいたという裏事情があったようです。 

彼の家は与謝野鉄幹夫妻の隣であり、与謝野晶子に英語を教え、成美女学校の英語教師になるなどしている。 

そのせいか典型的な男性社会であった戦前の日本で彼は女性の人権についてまじめに考えており、女性の人権と対極であると世間で揶揄されている一夫多妻主義の歴史を持つ教会の宣教師に興味を引かれたであろう。


彼はモルモン経の翻訳を完成させた後、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の翻訳に着手している。 主人公ツァラトゥストラは異教とされているゾロアスター教の司祭であり、その司祭が善人と悪人に関する哲学を語る形式である。彼がニーチェの翻訳に着手したのはその辺にあるものと思われる。


ニーチェの翻訳が終わると、マルクスの「資本主義」を翻訳し、次第に社会主義に傾倒していくようになる。

彼の到達した最終的な結論は、晩年近くに執筆した、「宗教至上」という著書で述べられていると思われる、読んだことがないので、(オムナイさんの方法にならって)図書館で勉強してみたいと思います。
返信する
豚さんが言うように文語だと意味が分かりにくい (ジョン・ドゥ)
2016-02-02 11:18:53
とは、たしかにその通りです。
一読しただけでは首を傾げることもありましょう。

聖典を人生のトラブル対症マニュアルとして考えれば、平易で明快な文体が好ましいです。しかしながら宗教上の聖典は、何度も読み返し、学び、暗証し、やがてその人の思想や行動のベースとなり、いずれは信者たちが何らかの文化を形成していくだろうと思います。

そうした流れの源泉となるべき書物の文体としてはどうかな、と私は考えます。多分に個人的な好みの問題ではありますが、文語体の聖書は格調高いです。

モルモン書の文語体は読んだことがないのでどうかは知りませんが、そもそもモルモン書においては意味が分かりやすいかどうかなんて些末な問題でしょ?だって同じ聖典から僅か数十年でまるっきり逆の解釈を言い出す人たちが・・・おっと、これ以上はやめときましょう。
返信する
ギョエテとは・・・ ()
2016-02-02 13:48:40
年末に教会でクリスマスページェントをやった時に、「ああインマニュエルよ」と言う歌を唄ったんですが、その歌詞に「ああインマニュエルよ、とく現れませ・・」と言うのが有りまして、歌ってる人のほとんどが、この意味を理解していなかったようです。

私が手にした最初の教義と聖約も文語体で、読みにくいし、理解しにくい。

はたして、今聖典を文語体にしたら、どれだけの人が理解できるか?

上にも書きましたが、二重否定三重否定が多くて「どっちやねん!!」と言いたくなるようでした。

個人的には、単純で肩が凝らないのが良いです!

エリアプランも漫画に成ってるぐらいですからね(笑)
返信する
インマニュエルと言えば (ジョン・ドゥ)
2016-02-02 14:50:37
『・・・夫人』いや、違うって!

まぁ、それはモルモン会員が不勉強すぎるんちゃいますのん?

いくら分かり易い文体にしても不勉強は補えないと思います、あ、勿論ややこしい事柄たくさん覚えないと理解できない聖典と言うのもよろしくありませんが。

もうモルモン聖典は漫画でエエかもですね。
いや、もっと今風に『スマホゲームで読むモルモン書』とか?
返信する
わき道 (教会員R)
2016-02-02 15:32:53
あのエリアプランのアニメ化はまあ評価できるかな。

ただし、せっかく自発的に出たユニークなアイデアを、相変わらずあれダメ、これダメと頭から家長がつぶしてまわってる点で、日本モルモンがいまひとつ成長できない理由を絵に書いたような作品に終わってしまって残念であった。

猫を愛するというアイデアが想定外であり規格外なのは明らかであっても、理由を聞いて対象を広げて肯定的に動機を探れば容易に、キリストの隣人愛に到達できるだろうから、単純に否定してしまって終わりではもったいなく、日本人信者の実態がそのまんまに結局メディアを変えてみただけだったな、という後味の悪さだけが残ってしまいました。

アメリカ人モルモンのお父さんにも(あれダメこれダメいうタイプはいるけれども)、平均的にたいがいのお父さんはそのへんの機転や柔軟性は、うまいものがあるので、本気で現状から発展したければ、謙遜に学ぶべきでしょうね。
返信する
・・・・トッド ()
2016-02-02 16:24:12
「・・・夫人」じゃなくて「・・・・トッド」さんの方は一度読んでみたい。

>まぁ、それはモルモン会員が不勉強すぎるんちゃいますのん?

それは、スタートが同じ地点の場合です。

例えば、モルモン書は英語の方が理解しやすいから、と言っても、英語の分からない人には読めないでしょ?

文語体も、それなりに勉強した人なら理解できますが、そうでない人にはまず、文章が理解できない。

最近はお経でも一般の話し言葉でわかりやすくなってるようですよ。


>あのエリアプランのアニメ化はまあ評価できるかな。

私は、「アニメにしても、理解しがたい事には変わりがないな~」と感じました。(上に書いてることと矛盾しますが 笑)

一体何がしたいのか?地域幹部の意図がよく分からないですね。(たぶん、豚だからでしょうけどね)


返信する
不思議なヒト (ジョン・ドゥ)
2016-02-02 17:07:46
某さんって、自分が教会を批判するのはOKで、他人がするのは許せないヒトなんですかね?

そう言うヒトの精神構造には非常に関心があります。まぁ単に精神的に未熟なだけだったりしますが。

ところでNJさんにお訊ねしたいのてすが、ある書物を他言語に『正確に翻訳』って、実際問題として可能な作業だと思われますか?

ジョセフ・スミスはそれをしたと言ってますが?

例えば英語の Good morning は「良い朝ですね」とすべきか、「おはよう」とすべきか、Tank you は「感謝します」か「ありがとう」なのか? おそらく、文脈を考えて判断するとか、どちらでもいいとか回答されると思います。

過去の有名著書では複数の翻訳者の手によるものがあったりしますが、それって『正確』かどうかとは捉えないでしょう?

外国語を学べば学ぶほど『正確な翻訳』と言う言葉の奇妙さを感ぜずにはいられません。勿論、誤訳の有無と言う観点はありますよ。しかしモルモン教会の『正確な翻訳』はそう言う意味ではないですよね。

これはNJさんがどう考えておられるのか前から聞いてみたかったことなのです。
返信する

コメントを投稿