1991年3月12日ダリン・H・オークス長老はBYUの宗教講和(devotional address)で、いつ中国は教会の伝道に門戸を開くだろうか、という問題に触れて語った。「私は中国がすでに開かれていると私の見解を述べたい。閉じられているのは私たちの方である。・・私たちは彼らの考え方を理解しなければならない。・・中国の法律を遵守し、忍耐の面で彼らの模範に従わなければならない。私たちは彼らの友達になれるような状態にならなければならない。・・天父は・・「主の時期に、主の方法によって、主の御心に従って」(教義と聖約 88:68)かの国において主の目的を遂げられるであろう。」
私は最近の状況に鑑みて、オークス長老が現代の中国における宗教政策について大変よく理解しておられると尊敬している。20年前の聴衆は長老の矛盾してみえる発言がよく理解できなかったであろうと思う。中国にのまれてしまったのではないか、と思った人がいたかもしれない。
http://www.ldschurchnews.com/articles/58550/Country-information-China.html
On 12 March 1991 Elder Dallin H. Oaks, speaking at a BYU devotional, addressed the question of when China will be open for missionary work: "I state my belief that China is already 'open' – it is we who are closed. . . . We must understand their way of thinking, . . . observe their laws, and follow their example of patience. We must deserve to be their friends. . . . our Father in Heaven . . . will bring His purposes to pass in that great nation 'in his own time, and in his own way, and according to his own will'" (D&C 88:68).
参考 本ブログ 2009/9/19 1, 2; 2009/9/29; 2009/10/29; 2010/8/16 の記事
| Trackback ( 0 )
|
流石オークスはん!!ええ事言う!!!
献金の使い道を公開しない!
教会の歴史的資料を公開しない!
閉じられてるのは、中国じゃなくてモルモンだ!!
・・・って?話じゃない・・??んで・・??しょうか????
でも歴史資料はもうかなり公開状態ではないですか。そう言えると私は思っています。
(こちらにいると猪八戒を思い描いてしまいます。)
確かに上の方は・・・似て来たかも?
そう言えばこちらのTwitter に相当するQQでしょっちゅう仏教系の投稿が目に入り時間があるときに少し読んでいます。
部分的にですが・・・・。
中国の仏教は日本とはかなり違うのでしょうか?
法事などは盛んなんでしょうか?
仏典の引用などを見る限り、それほど変わらないように感じます。課題をありがとうございます。
通りすがりの若輩者が横やり入れて大変恐縮なのですが・・・
〉〉でも歴史資料はかなり公開状態ではないですか。そう言えると私は思っています。
本当にそうでしょうか? たとえば、教会が昔黒人に神権を与えなかったことがわかる日本語の資料は、マッコンキーのモルモンの教義のような絶版になったようなものしか無い気がします。公式の宣言2には、黒人についてもカインについても呪いについても書れていませんし、
『「・・・なぜ黒人は神権を受けられないのか。」聖書はこの質問に関してはっきりしたことを記していないし、聖典以外の一般的な歴史もこの質問に解決を与えることはできない。私たちは、高価なる真珠、ジョセフスミス、そして彼と接した教会初期の長老たちの教えから、この事柄に関するはっきりした教えを得ることができる』完成への道P78より、
当時を知る教会員も、いまだに黒人に神権を与えなかったのはジョセフスミスの時代からということになっています。
教会の資料というのは、その国の人が読めるように、その国の言語に訳さなければ、その国の人たちに対して公開したということにはならないと思いまして、コメントさせて頂ききました。
日本や他の英語以外の諸国においては資料公開とは言えない状態にあります。
コメントありがとうございました。
昔、ある人からメドゥーズ山の虐殺事件や血の贖罪などについて、このような経歴をもつ教会を信仰できるのか? と質問された事があり、私はそれに答えることができませんでした。神に(実際には教会なのですが)裏切られたような、騙されていたような気さえします。教会の歴史はどう受け止めればいいのでしょうか。
教会の批判サイトで信仰の危機にさらされる一会員としては、モルモンの教義などよりも教会の歴史資料を翻訳して、教会史を一般会員の目にも触れるようにしていただけたら幸いです。
宗教用語やそれ関連の資料の翻訳というのが、簡単なことではないとわかっているにも関わらず身勝手な要望をして大変申しわけないのですが、私のような心境の会員が教会にとどまる理由を見つける助けになるかも知れないと思いましたので・・・
その程度なら、始めから信仰などなかったと思って、あきらめた方はいいのではないですか?
真実を知らずに得た真理は、真理でもなんでもない。
だったら、真実を知って、その真実の上に信仰が持てるチャンスが来たのですから、喜ぶべきでしょう。
事実を知ろうとしないことが信仰だって思ってる人より、ましじゃないですか。
結局教会は献金の使途も教会史も公開してないことになります。教会の人に昔黒人に神権を与えなかったことを聞くと、ジョセフスミスは大統領選挙に立候補した時に奴隷制度の廃止を公約に掲げたのだから、差別ではない、と言われます。日本の教会では、まだ黒人に神権を与えなかったことが悪かったことだという認識はありません。中国は伝道の門戸を開く必要はないと思います。
豚さんの信仰って、どんなものですか、私も豚になってNJさんに飼われたいです。
私は、家畜の豚じゃ有りません。野生豚です。
昔、バプテスマを受けて間もない会員が、私にこう言いました。
「私はどうしても金版の話が信じられないんですけど・・。」
私は、「信じられない事を無理をして信じているような顔をしているのが信仰じゃない。」「信じられない事は、信じられなくて良いんです。」って答えました。
「信仰は思い込みだ」って言っても、事実で無い事を事実の様に思いこむことじゃない。
「神を信じ、キリストを信じたら、きっと良い豚肉になれるって・・・」そう思い込むのが豚の信仰です。
ほら「そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」ってあるじゃない。
せっかく自由になれるのにまた飼われるの?
自由の意味は宗教からの自由だと思うよ。
罪を規定するの宗教から自由になる。
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」
自由って言うのは、不自由なもんです。
飼われていた方が、柵で守られて安全ですし、食べ物も与えられる。楽に生きて行けます。
野生って言うのは、全部自分でやら無いといけない。
何が真実かを一つ一つ自分で検証して、その中から自分の餌になるものを見つけて、食っていくしかない。
それを止めたら、死んでしまうんです。
もう一つの囲いから残りの12の囲いの何れかに移っても良い羊飼いは「私のために働き献身し私を養いなさい」とは命じられません。
モルモンの鎧を脱ぎ指示書とLDS仕様受信機を手放すと自由意思で物事を選択したり考え行動しなければならず身軽すぎて不安でした。良くないことが起きたら「何か戒めに反したからだ(大抵はすぐに思い浮かびます)判然としなければ指導者に相談しよう」となり、良いことが起きれば「友人との付き合いを断って献金した祝福です」「貰ったインスタントコーヒーの中身を便器に流した祝福です」良いことはモルモンの戒めを守ったことに結びつけ、悪い出来事は戒めに反したからだと結論付ければ済んだのにそれが出来ないときの不安と恐怖はかなりのものでした。
モルモンは現物支給の戒律を持っていて信者はそれを受け入れます。毎月月20~30万円分の水や食物もその他の物資も、内容も決まったものを支給します。自分で考え選び買いに行く必要もありません。
もう一つの囲いではない囲いで自由を得させる真理とやらを信仰だと言われても、「このお金で必要なものを買い生活せよ」と言われても何をすればいいのか全く解らないのです。
旧東ドイツから西ドイツへ亡命した人が似たことを言ってました。
「子よ、あなたの罪はゆるされた」罪や信仰の定義が剰りに違い、今では噛み合わなくなりつつあります。
飼い犬と野良犬はどちらが自由か?
その答えは知りませんが、私が思う自由とは、そのどちらでも選ぶ事が出来る自由です。
好きで酒を飲みに行くのなら自由ですが、付き合いで仕方なく飲みに行くのなら不自由ですね。
戒めとか、戒律とか、道徳とか・・・ある人にとっては、住み心地のよいものかもしれません。
しかし、それを強要する社会は困ったものです。
モルモンを辞めても、他のキリスト教を探す。
結局何かのよりどころ、自分を縛ってくれる対象が欲しいのでしょうか?
それなら、自由を口にする必要も無い。
もし、自由が欲しいのなら、モルモンの中でも自由は得られる。
キリストの福音は、「人を罪から解放し、自由を得させる」ものですからね。
豚として、ただ毎日食って太っていれば良い。
それこそが最高の自由!!
さて、その自由をどうするか??何て考え出すから自由を手放してしまう。
人間が生きているって言うのは、ただ「食って、糞をたれて、寝る。」それだけの事、良い生き方も、悪い生き方も無い、神はそんなものを作られなかった。
神は土から人間を作り「生めよ増えよ地に満ちよ」と言われましたが、「神を礼拝しろ」とか、「良い社会を創りなさい」なんて一言も言ってない。
戒めと言うものは、神とアブラハムとの契約から始まったもので、契約に対する責任事項みたいなものじゃないかと思います。
ですから、契約を結ばなければ、責任事項も果たす必要がないんじゃないですか?