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NJWindow(J)



著者は宗教社会学、もっと言えば宗教心理学の視点から新宗教への回
心について、実証的調査に基づく研究を行っている。具体的には崇教
真光(まひかり)教団とモルモン教会を対象に選んでいる。


宗教が精神の健康にポジティブに寄与する可能性についてスピルカの
3点に言及している。それは、1 教義が内在化され「良きクリスチャ
ン」として生きる指針が与えられ、逸脱した思考や行為が抑制されて、
社会に受け容れられるように導かれる、2 悩める人々に人生の苦難か
らの「安全な港」を提供する、教会という社会で受容され孤立感や拒
絶感を和らげ、信仰との強固な一体化によって聖なるものに護られて
いるという感じを与える、3 いろいろな宗教的活動には直接的な精神
療法のような働きがある、例えば祈り、告白、瞑想など。これらの活
動は不安や緊張を軽減し、また「ゆるし」の感覚を与えて精神の安寧
に寄与する、という(p. 88-89)。末日聖徒イエスキリスト教会の場
合、いずれもよく当てはまっているのではないだろうか。3に「奉仕」
という活動を加えることができる。(B. Spilka はアメリカ人と思わ
れる。)


新宗教の特徴として、「社会が近代化とともに失ってきた親密な共同体
としてのあり方を再現するもの」であって、「信者は一般社会との関係
を保ちつつ、内部に親密で家族的な、いわば親戚同士のような人間関係
を形成する」という点があると書いている(p. 100)。また、参加の
動機に芳賀学の言う好奇心型が記されているが、私の場合その要素が少
なからずあったかもしれない、と思っている。(そして今でも好奇心、
好学心は続いている?!)


8章「民俗宗教と宗教性」でモルモン教会が取り上げられている。死
者のバプテスマの教えが「先祖を大切にする」という日本的な心情(民
俗宗教性の重要な要素)と合致しているので、モルモン教が日本で教勢
を拡大した要因の一つであろう、と見る。ただ、墓参については心では
拝まず、手だけ合わせるという日本的手法について興味深い、民俗宗教
からの影響はないのか、と問いかけている。入信のきっかけについて、
英会話を含めて宣教師との接触が多く、何らかの悩みを持っていたかと
いう問いには「なかった」(64%)の方が多数派で真光に比べて倍近く
になるという。(調査の実施は1994, 1996年。 仙台、盛岡、福島で
140人対象。)

入信年数がたち年齢が高くなるにつれモルモン教の信仰が強くなり、民
俗宗教性(俗信、タタリ意識と現世利益的行動)が初め根底にあったと
しても、信者としてのアイデンティティが強化されるに伴って弱体化し
ていくのを観察している。

一世と二世の比較では、二世の男性がモルモン教の信仰が現世利益的行
動に比べてやや弱く出ている、と報告している。(p. 177。「現世利
益的行動」とは「おみくじ、易、占い、祈願、お守り、お札」などに頼
ることを指す。)逆に二世の女性は一世よりモルモン教に対する信仰が
強く、現世利益的行動はやや少なくなっていた、と指摘している。二世
の信者が今後回心をへて熱心になっていくのか、教会から離れていくの
か注目される、と結んでいる。当時平均17.3歳であった二世は今では28
~30歳になっているので、実際彼らがどうなっているのか知りたいとこ
ろである。


著者の研究は宗教への心理学的アプローチを、時代の推移と洋の東西か
ら精緻に比較分析し、読者を最新の現状と現象に案内する。本書は博士
論文を基にした専門性の高い著書で、得がたい情報を提供してくれてい
る。ただ、この種の調査は都会より地方の方が様々な要因に変動が少な
いため向いているのかもしれないが、印象としては研究調査の対象が地
方(仙台は中規模都市であるが)に片寄っているのではないか、という
思いがする。大多数の会員が大都市とその郊外に集中しているからであ
る。

http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0881-8.htm

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コメント
 
 
 
モルモンに対してややリサーチ不足な気が・・・ (トゥゲザー)
2007-08-21 17:24:48
こんにちは。
いくつか違和感を持ちましたので書き込ませていただきました。

>「信者は一般社会との関係を保ちつつ、内部に親密で
>家族的な、いわば親戚同士のような人間関係を形成する」

会員同士を兄弟・姉妹と呼び合うなどの演出が外部の人の目には家族的だと映るかも知れませんが、モルモン教会の内部では役職を持った人間に対しては「監督」「会長」「長老」と呼ぶこと、彼らに対しては服従が求められ、彼らに反対することは神からの祝福を失うと言われております。結局、著者がモルモン内部の強固な階級制度を見抜けなかっただけのことではないのでしょうか?


>死者のバプテスマの教えが「先祖を大切にする」
>という日本的な心情(民俗宗教性の重要な要素)と
>合致しているので、モルモン教が日本で教勢を拡大
>した要因の一つであろう、と見る。

死者のバプテスマ=モルモン教会は先祖を大切にしているというのは、教会による一種のプロパガンダを著者が鵜呑みにしているのであって、モルモン教義に対するリサーチ不足を感じます。
モルモン教において、死者は「プテスマを受けない限り決して救われない」のであり、日本式仏教の説く来世観とはかけ離れています。
仏教に対する理解、関心の薄まってきた世代へモルモン教会がアプローチする手段として持ち出した方便が功を奏した、というのが実情だと思います。


>一世と二世の比較では、二世の男性がモルモン教
>の信仰が現世利益的行動に比べてやや弱く出ている、
>と報告している。(p. 177。「現世利益的行動」
>とは「おみくじ、易、占い、祈願、お守り、お札」
>などに頼ることを指す。)

これもどうかと思うのですが、モルモン教において神の祝福と言われるものは全て現世利益的行動の要素を含んでいるか、同等の役割を持っています。
 おみくじ=モルモン会員における聖句の実質的意味
 易、占い=祝福師の祝福
 祈願=神殿の祈祷の輪
 お守り、お札=ガーメント、灌油の儀式
著者はモルモン教義と現世利益的なものが対立するものだとお考えのようですが、その本質は全く同じものと言うことにお気づきになっていないのでは?と思いました。
 
 
 
家族的な (Wasatch)
2007-08-21 19:44:30
トゥゲザーさんへ
実際はもっと重層的だと思います。
私個人の感覚ですが実家が集う支部に帰ればそれこそ
私の親を独身の頃から知る人々がいて
子供の頃からの友人もいるわけです。
非常に家族に近い感覚です。

また最近2世同士の結婚も多く、血縁関係で家族同士が繋がっていく状態がもあります。

私からすれば監督、会長、長老も叔父、従兄弟のような感覚です。
彼らから見れば私の世代は手塩にかけて育ててきた世代であり彼らの希望でもあるわけです。
私の信仰も彼らを土台に反発したり批判したりして育ってきました。

単純な階級制度では説明できないと思われませんか?
 
 
 
短い紹介のため説明不足も (NJ(抄訳のため))
2007-08-22 23:03:28
三つの点についてコメントありがとうございます。

本文181頁のうち、モルモン教会は第8章だけであとは新宗教についての一般論と真光に割かれています。第一点は一般的に新宗教について述べたところから取っています。それにしても私もWasatch さんと同様に感じています。ほかの多くの会員もそうではないでしょうか。

死者の救いのための儀式が「先祖を大切にする」という概念と共鳴することは、誰の目にも映るM教会の特徴と言えるでしょう。杉山氏は会員の発言やアンケートの回答をもとに書いています。(この点について深くそれ以上本質的な分析をしているわけではありません。墓参についての調査が加わっていますが)。

3番目については、質問項目の中に「お守りやお札を身のまわりにおいているか」「子供に名前をつけるときに字の画数が気になるか」などがあって、教会員であるのにこういった民俗宗教性が表れているかどうかを調査したものです。

M教会そのものに現世利益的な要素があるかどうかはここでは問題にされていません。(トゥゲザーさんの指摘のような見方があることは私も承知しています。)

もし、9月15日研究会にお出でになれれば、そこで著者に直接質問していただけると思います。
 
 
 
「要約」の間違い (NJWindow)
2007-08-22 23:13:34
(抄訳のため)は(「要約」のため)の間違いでした。
 
 
 
家族的・・・ (トゥゲザー)
2007-08-23 12:02:04
会員同士の人間関係が、世間一般で常識的と言われているレベルより濃密な部分があることを「家族的」と表現しているだけではありませんか?
モルモン会員同士の交流には「濃密な部分がある」けれども「家族的」と言えるかどうかは疑問です。

神権個人面接やHTと称して行われるプライバシーへの干渉、またそうした場面で監督を信頼して相談したつもりが、その夫人の口によって翌週にはワード内に噂話がひろがるという配慮の欠如、親身になっているようでいて実は教団特有の決まり文句を繰り返すだけの無責任な助言、教団組織や指導者への疑問を投げかけたとたん手のひらを返したようにあしらわれる排斥行為、これらは今までの25年以上の会員生活で実際に見聞きしてきたものです。

モルモン教会では親睦会やスポーツ大会、ピクニックなど交流を深めるイベントが多いですし、私自身も今までそう言うものをいくつも計画・実施してきましたが、結局そうした教団主導のイベントを開かないと「家族的な」交流を持てない、悪くいえば教団からやれと言われて家族的に振る舞っているだけではないか?という見かたができてしまうのです。

今までたくさんの人がモルモンを離れていきましたが、モルモン教会が彼らにそれまでと同じような関心を保持している姿を見たことはありません。話題にすらのぼらなくなります。
モルモン教会に関しては、出席の切れ目が縁の切れ目、なのではありませんか?

その一方で、来て欲しくもないのに、「不活発会員に働きかける強化月間」などで気持ちを焚きつけられると無遠慮に訪問がなされます。これは教会側でそうしたイベントを計画したからであって、純粋に隣人への関心から行っているのかどうかは疑問です。

また観点を変えてみますと、モルモン教会においては「家族は教会を構成する最小単位」であり、「父親が家族を管理し、母親がそれを補佐する」などの言葉で表わされるように、家族とは教会組織のヒエラルキーの最下層に組み込まれている存在であり、「家族」という言葉自体の持つ意味が世間一般のそれとは乖離していることも考慮する必要があるように思われます。
 
 
 
経験と見解の差では? (NJ(経験と見解の差?))
2007-08-25 23:58:13
末日聖徒イエスキリスト教会のワード(支部)の会員同士が家族的であると感じるか否か、組織や制度のあり方を好意的に取るか、批判・冷笑的に見るかは、ひとえにその人の経験と見解の差によるところが大であると思います。意見を出し合っても平行線をたどることになりそうです。

モルモン教徒が何かあるときに自発的に団結力を示すことがあるのは本国のアメリカでメディアなどが指摘しているところです。(新宗教が家族的という特徴につながります。)

日本の教会はまだ日本的に咀嚼するにしても、十分吸収・実践するに至っていないのかもしれません。(トゥゲザーさんの2,3段落の内容)

離反者への訪問にぎこちなさ(不器用さ)が残っているのはその通りかもしれません。しかし、このスレッド冒頭の「家族的」という言葉は信者間のことで離れていった人まで含んではいないと思います。

 
 
 
平行線ではないですよ (トゥゲザー)
2007-08-26 02:35:34
新宗教の会員の人間関係について杉山氏が指摘する点を全否定しているわけではないのです。むしろ認めているので、私に言わせれば「濃密な人間関係」だと申し上げました。ただ杉山氏の使った「家族的」という表現は、調査対象とした新宗教に配慮して好意的な語句を選択したに過ぎず、それをもってモルモン教会側が、非会員の学者が公正な観点からモルモンを称賛しているがごとく受け止め、それだけならまだしも周囲に喧伝しはじめ伝道に利用するなどの思い上がった行動をとることは警戒します。

杉山氏が家族的と表現したモルモン教の人間関係の濃密さが何によるものか、より調査を続けられたならば、教会組織という狭い枠組みの中にしか救いがないという教義(要するに教義の排他性)に至ることだろうと思います。

もし家族的という語句が、家長である父親、補佐する母親、相続権を持つ長子、その二番手である二男、冷や飯食いの三男坊(笑)、良家と縁結びをさせるための娘たち、などといった階級を示すものならたしかにモルモン教会は家族的と言えると思います。

モルモン会員と話をしますと、日本とアメリカの違い、という表現をよく耳にするのですが、日本のモルモン教会は常にアメリカの下部組織であって、アメリカから指図は受けるけれども、提案も主張もできないどころか、何一つ独自の行動がとれない立場にいます。なので、日本のモルモン教会に問題点があるならば、それは本部であるアメリカの教会の責任なのです。

蛇足ですが、私の経験上、モルモン会員が話し合いの中で「アメリカの事情」を持ち出されるのは、渡米経験者が未経験者に対して議論の本質で敗北しているときに優位に立つ手段として持ち出すか、あるいはソルトレークの老人たちを神格視させるという教団本来の目的の心理的影響下にある人に多く見られます。
 
 
 
「家族的」は先行文献による (NJ(先行文献))
2007-08-28 11:29:34
杉山氏が「家族的」(あるいはムラ的な)と新宗教の信者間の間柄について述べたのは、「癒しとアイデンティティ」の項で先行文献に定着している表現を使ったのであって、著者の「好意的な語句の選択」によるものではありません。(ちなみに氏の巻末文献リストは高橋弘「素顔の・・」、高山真知子、Mauss などを含めて300件近くに及んでいます。)

米国のメディアは渡米しなくても日本にいて読めます(私の2番目の段落)。

> 「日本の教会はまだ日本的に咀嚼するにしても、十分吸収・実践するに至っていないのかもしれません。」(NJ)

これはマリンズ「メイドインジャパンのキリスト教」を読んでいて、頭に浮かんだものです。外来の宗教は広い意味の「土着」ないし、その地に根ざしたものになるには受け容れ側が自分で再解釈し咀嚼して、置かれた境遇で実践していかなければ、いつまでも周縁的な存在に終始するにすぎない、という著者の指摘を踏まえて書いたものです。

この項の意見交換はこの辺で終りにさせていただきます。なお、8.25NJ「平行線をたどることになりそう」は未来形です。
 
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