事情で3/19仙台における「LDS聖研グループ研究会」に来られなかった瀬座兄弟から、講演用のスクリプトが送られてきた。そのほぼ全文をここに紹介したい。(以下引用)。
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2011年3月11日の震災の被害が甚大に及ぶことから、教会はまず被災地の担当地域七十人の西原里志長老と地域福祉部長のハルヴォーソン兄弟、被災地を管轄する施設管理事務所長の瀬座の3人を仙台に派遣し、現地対策本部を設置することを決定。4日後の夜、3人は新潟に入り、翌朝バス(仙台への唯一の交通ルート)で新潟を出発し仙台に向かいました。途中、高速道路の不通箇所があり、通常よりもはるかに時間がかかりました。
当初は仙台ステークセンター(上杉ワード)に寝泊まりして、早朝から深夜まで救援物資の受け入れ、配送、被災地のニーズの把握、自治体との調整、地元教会指導者との協議を行いました。現地対策本部と言っても、3人だけのスタッフですので仙台ステークの会員と指導者の全面的かつ献身的な奉仕がとても大きな助けになりました。実質、仙台ステークの会員が実働部隊となっていました。自らも被災者であるにも関わらず、もっと困っている人々の支援のために自分の家のことはさておいて奉仕に専念した会員も大勢います。
4月になり、地元仙台ステークの会員に疲労の色が濃くなり、専属のスタッフが必要となる時期が来ましたので、教会は東日本大震災復興支援調整評議会の下に教会職員からなる支援体制を構築しました。主に①人道支援・復興支援部門、②物流部門、③ボランティア部門、④被災地の神権ラインの支援の4つの部門で組織化を行いました。
①の人道支援部門は地域福祉部が直接担当し、②の物流部門は資材管理部が担当、④の神権ラインの支援は地域七十人の西原里志長老が担当しました。③のボランティア部門は財務部トップの土門淳平兄弟がディレクターとして東京で、施設管理事務所長の瀬座がアシスタントディレクターとして現地でボランティア部門の担当することになりました。
ボランティア部門の役割は、震災直後から個人で被災地入りして支援活動をしている会員を支援し、会員によるボランティア活動を効果的に行われるよう調整することでした。現地で一人ではとてもできませんので、被災地にボランティアとして活動していた戸浪姉妹をシニアコーディネーターとして採用、自らも津波被災者でありながら献身的に支援活動を行っていた浅野兄弟を同じくシニアコーディネーターとして採用し、後に同じくボランティアとして被災地で活動していたハルヴォーソン姉妹をコーディネーターとして採用し、4人体制で日本で初めて正式な「モルモン・ヘルピングハンズ」がスタートして、モルモン・ヘルピングハンズ仙台事務局として活動を開始しました。また、後に配送の才能を持つ文屋姉妹が採用され、各被災地やボランティアセンターへの物資の支援、配送業務で大きな働きをしました。
まずはゴールデンウィークに押し寄せるであろう、教会員のボランティアとその受入先(活動先)の調整、ボランティアが活動する拠点作りから始まりました。仙台ステークの古川支部と仙台ステークセンター、盛岡地方部の一関支部がボランティアの活動拠点として必要な資材が集められました。後に、古川支部近くにボランティア用のアパート(男女1棟ずつ)を借り上げ、そこから東松島市、石巻市、塩竃市、女川町に活動区域を拡げていきました。一関支部からは気仙沼市、陸前高田市へ支援を拡げました。
この時期のボランティアは、食糧・水、寝袋持参で、一日中泥だらけになりながら活動していました。全くの自費で、献身的に働いた彼らの奉仕は最大級の称賛を受ける価値があります。
労働ボランティアだけでなく、被災者の心のケアをするための傾聴ボランティアも精力的に活動しました。ただ、自治体の体制が整うにつれて、専門の資格をもっているボランティアしか受け入れてくれないという状況が生まれ、傾聴ボランティアを被災地に送り込むことが難しくなりました。
被災地全域の社会福祉協議会および各ボランティアセンターを周り、ヒアリングし、被災地にできるだけ大勢のボランティア送り込むことが必要であることから、教会は組織的に教会員をボランティアとして被災地に送り込むことを決定しました。それにより、教会が東京から被災地までの交通費・宿泊費を負担して、全国からボランティアをつのることになり、7月からヘルピングハンズ・ボランティアツアーが始まりました。これと並行して交通費・宿泊費を教会が負担してステーク・地方部サイドのボランティアツアーも始まりました。これにより延べ6,832名のボランティアが被災地に赴き、労働ボランティアとして働きました。これは東日本大震災の支援に動いた団体でトップクラスの動員数です。別表にありますように、後方支援も含めたボランティアの総数は2万人を越え、総時間数は18万時間を越えます。これは驚異的なことです。もちろん日本の末日聖徒イエス・キリスト教会では初めてのことです。
被災地では手作業で行わなければならない作業が山ほどあり、これらのボランティアは地元にとって大きな助けとなりました。毎週のように大挙して駆けつける、黄色いベスト、黄色いTシャツを着たモルモン・ヘルピングハンズの知名度があがり、ベストやTシャツを着て歩いているだけで感謝の声をかけられるほどになりました。
陸前高田市ではヘルピングハンズのボランティアが全ボランティアのうち8%を占めるほどで、陸前高田市のボランティアセンターおよび社会福祉協議会からは感謝と称賛の声が届きました。
・・ボランティアツアーに参加した会員からかけがえのない経験を聞いたことにより、より多くの会員がボランティアツアーに参加するようになりました。と同時に課題も見えてきました。一番大きな課題は、ボランティアとして自分を捨てて人々に奉仕するという覚悟ができていない参加者もいるということです。旅館や食事について不平を言ったり、必要な装備を用意せずに遊び感覚で参加し、ボランティアセンターに迷惑をかけたり、ひんしゅくを買う会員もいました。事前にボランティアツアーについての注意事項を配布しているにも関わらず、準備をしていない参加者も少なからずいました。
しかしながら、参加者の多くは良い経験をし、本当の奉仕は何かということを体験を通して理解しました。大震災後も他の地域での洪水や竜巻の被災地にステーク・地方部単位で自発的にボランティア活動が行われたのもその良い結果と言えるでしょう。
課題はあるものの、モルモン・ヘルピングハンズが会員や教会外の人々に与えた影響は大いなるものがありました。」
(引用終わり)
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ご多忙の中、瀬座兄弟から動画と発表用スクリプトを送付いただき感謝しています。

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2011年3月11日の震災の被害が甚大に及ぶことから、教会はまず被災地の担当地域七十人の西原里志長老と地域福祉部長のハルヴォーソン兄弟、被災地を管轄する施設管理事務所長の瀬座の3人を仙台に派遣し、現地対策本部を設置することを決定。4日後の夜、3人は新潟に入り、翌朝バス(仙台への唯一の交通ルート)で新潟を出発し仙台に向かいました。途中、高速道路の不通箇所があり、通常よりもはるかに時間がかかりました。
当初は仙台ステークセンター(上杉ワード)に寝泊まりして、早朝から深夜まで救援物資の受け入れ、配送、被災地のニーズの把握、自治体との調整、地元教会指導者との協議を行いました。現地対策本部と言っても、3人だけのスタッフですので仙台ステークの会員と指導者の全面的かつ献身的な奉仕がとても大きな助けになりました。実質、仙台ステークの会員が実働部隊となっていました。自らも被災者であるにも関わらず、もっと困っている人々の支援のために自分の家のことはさておいて奉仕に専念した会員も大勢います。
4月になり、地元仙台ステークの会員に疲労の色が濃くなり、専属のスタッフが必要となる時期が来ましたので、教会は東日本大震災復興支援調整評議会の下に教会職員からなる支援体制を構築しました。主に①人道支援・復興支援部門、②物流部門、③ボランティア部門、④被災地の神権ラインの支援の4つの部門で組織化を行いました。
①の人道支援部門は地域福祉部が直接担当し、②の物流部門は資材管理部が担当、④の神権ラインの支援は地域七十人の西原里志長老が担当しました。③のボランティア部門は財務部トップの土門淳平兄弟がディレクターとして東京で、施設管理事務所長の瀬座がアシスタントディレクターとして現地でボランティア部門の担当することになりました。
ボランティア部門の役割は、震災直後から個人で被災地入りして支援活動をしている会員を支援し、会員によるボランティア活動を効果的に行われるよう調整することでした。現地で一人ではとてもできませんので、被災地にボランティアとして活動していた戸浪姉妹をシニアコーディネーターとして採用、自らも津波被災者でありながら献身的に支援活動を行っていた浅野兄弟を同じくシニアコーディネーターとして採用し、後に同じくボランティアとして被災地で活動していたハルヴォーソン姉妹をコーディネーターとして採用し、4人体制で日本で初めて正式な「モルモン・ヘルピングハンズ」がスタートして、モルモン・ヘルピングハンズ仙台事務局として活動を開始しました。また、後に配送の才能を持つ文屋姉妹が採用され、各被災地やボランティアセンターへの物資の支援、配送業務で大きな働きをしました。
まずはゴールデンウィークに押し寄せるであろう、教会員のボランティアとその受入先(活動先)の調整、ボランティアが活動する拠点作りから始まりました。仙台ステークの古川支部と仙台ステークセンター、盛岡地方部の一関支部がボランティアの活動拠点として必要な資材が集められました。後に、古川支部近くにボランティア用のアパート(男女1棟ずつ)を借り上げ、そこから東松島市、石巻市、塩竃市、女川町に活動区域を拡げていきました。一関支部からは気仙沼市、陸前高田市へ支援を拡げました。
この時期のボランティアは、食糧・水、寝袋持参で、一日中泥だらけになりながら活動していました。全くの自費で、献身的に働いた彼らの奉仕は最大級の称賛を受ける価値があります。
労働ボランティアだけでなく、被災者の心のケアをするための傾聴ボランティアも精力的に活動しました。ただ、自治体の体制が整うにつれて、専門の資格をもっているボランティアしか受け入れてくれないという状況が生まれ、傾聴ボランティアを被災地に送り込むことが難しくなりました。
被災地全域の社会福祉協議会および各ボランティアセンターを周り、ヒアリングし、被災地にできるだけ大勢のボランティア送り込むことが必要であることから、教会は組織的に教会員をボランティアとして被災地に送り込むことを決定しました。それにより、教会が東京から被災地までの交通費・宿泊費を負担して、全国からボランティアをつのることになり、7月からヘルピングハンズ・ボランティアツアーが始まりました。これと並行して交通費・宿泊費を教会が負担してステーク・地方部サイドのボランティアツアーも始まりました。これにより延べ6,832名のボランティアが被災地に赴き、労働ボランティアとして働きました。これは東日本大震災の支援に動いた団体でトップクラスの動員数です。別表にありますように、後方支援も含めたボランティアの総数は2万人を越え、総時間数は18万時間を越えます。これは驚異的なことです。もちろん日本の末日聖徒イエス・キリスト教会では初めてのことです。
被災地では手作業で行わなければならない作業が山ほどあり、これらのボランティアは地元にとって大きな助けとなりました。毎週のように大挙して駆けつける、黄色いベスト、黄色いTシャツを着たモルモン・ヘルピングハンズの知名度があがり、ベストやTシャツを着て歩いているだけで感謝の声をかけられるほどになりました。
陸前高田市ではヘルピングハンズのボランティアが全ボランティアのうち8%を占めるほどで、陸前高田市のボランティアセンターおよび社会福祉協議会からは感謝と称賛の声が届きました。
・・ボランティアツアーに参加した会員からかけがえのない経験を聞いたことにより、より多くの会員がボランティアツアーに参加するようになりました。と同時に課題も見えてきました。一番大きな課題は、ボランティアとして自分を捨てて人々に奉仕するという覚悟ができていない参加者もいるということです。旅館や食事について不平を言ったり、必要な装備を用意せずに遊び感覚で参加し、ボランティアセンターに迷惑をかけたり、ひんしゅくを買う会員もいました。事前にボランティアツアーについての注意事項を配布しているにも関わらず、準備をしていない参加者も少なからずいました。
しかしながら、参加者の多くは良い経験をし、本当の奉仕は何かということを体験を通して理解しました。大震災後も他の地域での洪水や竜巻の被災地にステーク・地方部単位で自発的にボランティア活動が行われたのもその良い結果と言えるでしょう。
課題はあるものの、モルモン・ヘルピングハンズが会員や教会外の人々に与えた影響は大いなるものがありました。」
(引用終わり)
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ご多忙の中、瀬座兄弟から動画と発表用スクリプトを送付いただき感謝しています。

お忙しいのでしょうけど、日本中、世界中で発表し続けて欲しいです。
>もっと困っている人々の支援のために
>自分の家のことはさておいて
>奉仕に専念した会員も大勢います。
これはちょっと違うんじゃないかなと思います。なぜ被災者が自分の家をさておいて教会の動員に応じなければならないのですか?
かつて親の反対を押し切ってバプテスマを受けるとか、伝道に行くとか、駆け落ちのように神殿結婚するなどという武勇伝がモルモン教会で広まっていた時期がありました。それと同種の極めて危険な感覚を覚えます。
結局そうした周囲と軋轢を生むような行動は何の益にもなりませんでした。独りよがりなカルト宗教と変わりないのでは?
教会が主導してトップクラスの人員を動員したと誇らしげに語っても、その中には自分の家族を放ったらかしにして教会の呼集に応じた人がいたのなら果たしてその動員数に意味はあるのでしょうか?
単に数字を誇るのならあの1980年当時のバプテスマ数はどうだったか思い起こしていただきたい。
結局、ボランティアで実績を挙げたい指導者に焚き付けらた思慮の浅い会員が後先考えずに集まってきただけの印象を受けます。
なぜ被災者が自分の家をさておき、教会の呼びかけに応じなければならないのか、それは誇れることなのか、よく考えないといけないのではないでしょうか。
被災地 強姦
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%20%E5%BC%B7%E5%A7%A6
賢い方法だとか言う前にそこら辺はちゃんと考えた方がいいと思います。
うぅぅんと、被災地危険度ですが、やはり支援は男性が中心でしょうか、現地で役場、警察、自警団の責任者方々からどこで何をと割り振られる時、女性子供らはグループ行動ということでは。
ボランティアはもちろん強制ではないでしょう。
自分が被災しても、命があり、住居が助かっていたのであれば、目の前で苦しむ人を助けたいと思うのは末日聖徒に共通する思いだと思います。
食糧貯蔵をしていれば、食いつなぐこともできますので他の人を助ける心の余裕も出てくるかもしれません。
社会科学者が知っていて多くのマネージャが知らない「伝統的な報奨は我々が考えているほど有効ではない」という事実を手始めに、やる気の謎を調べます。
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ニンジンをぶら下げるとかえって効率がさがる。
モルモン書にも強いられて行うよりも喜んでやることが大切だと語られています。
「昇栄」という最大のニンジンがありながら、モルモンは栄光を求めないという思想に通じるも思いがしました。
そうおっしゃいますが、モルモン教会できちんとした組織的な働きができていたのであれば、「自らも被災者であるにも関わらず自分の家のことはさておいて」参加するようなことが無いように、控えていただくべきではなかったかと私は思います。
NJさんの記事を拝見しますと、そうした無理をした人について、いい話として紹介しようとしています。その感覚は見過ごしてよいものなのだろうかと疑問が湧きます。
たとえば皆勤賞をとるのは素晴らしいことですが、インフルエンザに罹ったにも関わらず大して苦しくないからと学校や職場にやってくるのは誉められた行為ではないと思います。周囲への影響を全く考えておらず利己的ではないでしょうか?
自分たちの教会を誉めたい、賞賛したいという気持ちの人がモルモン教会には多いように感じます。そういう気持ちは分からないではありませんが、モルモンを誉めることは外部の人に任せておいて、末日聖徒はひたすら自分たちの器の内部を磨くよう、どうすればもっと良かったのかを追及していく姿勢が教会の活動の質を向上させると思うのです。
たまWEB的には2011年9月くらいだったか有栖川の都立中央図書館で、たまたま宗教系新聞記事を目にし(生長の家だったか?)ボランティア支援を継続してやってきた内容でしたか、その時大きめ宗教団体はどこも支援活動してるんだなぁと知ったものでしたぁ・・・
ボランテア支援の人々を組織リードするといったことは全国それぞれ地元の教会指導者たちで研究されてるんでしょうかね?普段から大所高所からスタンバイで出来てるような・・・