これは「キリスト教年鑑」(2006年版)に「今礼拝を考える」
と題される対談の中に出ています。(以下一部引用。)
日本基督教団は実質的に各個教会主義によって成り立ってい
るようなところがある。・・礼拝の事柄について各個教会で判
断しなければならない。・・ことによると充分な検討が加えら
れずに、牧師個人の思いつきによって教会の礼拝が変化してい
くということもある。
ウイリアム・ウイリモンの「主の祈り」にしても、リチャー
ド・リシャーの「説教の神学」にしても、現代の信仰で最も大
きな異端は何かというと、信仰はプライベートな事柄であると
いう考えである、とはっきり言っている。
これは私たちの日本の教会の現状をも言い当てている指摘で
あろう。教会で個々人がばらばらになってしまっているだけで
なく、教会自体も各個教会ごとにばらばらになってしまってい
る。 (以上、日本基督教団代田教会牧師平野克己氏の発言)
私は'05年3月1日の当blogの「現代の異端」の視点が現実を
よく言い表していると受け止めているが、平野氏はそのような
考え自体が異端である、礼拝様式を始め信仰は統一されている
べきである、と日本の教会(日基教会)の現状に懸念を表明し
ている。
と題される対談の中に出ています。(以下一部引用。)
日本基督教団は実質的に各個教会主義によって成り立ってい
るようなところがある。・・礼拝の事柄について各個教会で判
断しなければならない。・・ことによると充分な検討が加えら
れずに、牧師個人の思いつきによって教会の礼拝が変化してい
くということもある。
ウイリアム・ウイリモンの「主の祈り」にしても、リチャー
ド・リシャーの「説教の神学」にしても、現代の信仰で最も大
きな異端は何かというと、信仰はプライベートな事柄であると
いう考えである、とはっきり言っている。
これは私たちの日本の教会の現状をも言い当てている指摘で
あろう。教会で個々人がばらばらになってしまっているだけで
なく、教会自体も各個教会ごとにばらばらになってしまってい
る。 (以上、日本基督教団代田教会牧師平野克己氏の発言)
私は'05年3月1日の当blogの「現代の異端」の視点が現実を
よく言い表していると受け止めているが、平野氏はそのような
考え自体が異端である、礼拝様式を始め信仰は統一されている
べきである、と日本の教会(日基教会)の現状に懸念を表明し
ている。

異端」は高尚に聞こえる (NJWindow) 2006-09-10 23:37:34
C.S.クリフトンという人は異端(者)という言葉について次のように書いています。
異端者という言葉はきわめて高尚に響く。(例、ガリレオ、ルター、さらにキリストの名をあげてみればわかる)。
そして次のような言葉を引用しています。
「宗教は椰子の樹のようだ。つまり頂上で繁茂するのだ。死んだ葉はすべて正統派であり、新しい葉はすべて異端者である。」(宗教研究者ロバート・インガソル)
C.S.クリフトン「異端事典」三交社 1998
これを読めば、異端は決して恥ずべきものではないし、非難に当たるものではないと思えてきます。