
3月19日(土)午後仙台市青葉区上杉で「LDS聖研グループ研究会」が開かれた。第一部は東日本大震災5年目に当たりと題して行なわれた。予定していた講演者瀬座兄弟(東京管理本部職員兼仙台地区施設管理職員)が知人の不幸のため欠席されたので、彼から提供された動画を視聴し出席者の声を聞きながら対話形式で、震災と津波の被災を振り返った。何度も見て知っている光景であったが、見る度に息をのみ、言葉を失う。この度、瀬座兄弟の用意された動画資料によって当地のワードや支部が受けた被災の状況を始めて知った。また、動画のパート2は震災直後短時日で、東京管理本部、仙台ステークが急遽協議して震災対策委員会が仙台に設けられたこと、教会がこの未曾有の危機に際し、一致協力し力を集中して対処した姿がよく分かった。そして、組織が機能し、末日聖徒のヘルピングハンズと呼ばれるボランティア活動が機敏でかつ人数においても多数に達し、事実他のボランティアグループから注目されるほどであったという。
続いて神奈川県湘南から、被災のすぐ後、傾聴ボランティアとして約1週間被災地各所を回って活動した小林久子姉妹から、現地において何が必要とされているか情報がない場合があり、するべきことは開拓するしかない、と救援に際して心得なければならない柔軟性や覚悟を話された。そして、避難所における最前線の経験を聞いた。避難所には村やそのコミュニティと外界の間に境のようなもの(見えないが厳しい)があり、視線を感じたとのことであった。傾聴ボランティアを行なうのは容易ではない。ある女性の手を取って始めようとしたところ、「私の目をまっすぐ見て、娘が死んで葬ったところ、と言った。私は思わず涙が出るのをとめることができなかった。・・思えばこの人は私を試していたのだった。いきなり、直球を投げ込んできたようなもの。・・しかし、その後穏やかになって語り合えた。」淡々と話されるが、リアホナで読んだ時から、この人は普通の人にできないことをしてこられたと感じていたので、この度会って話を聞くことができて幸いであった。
最後に補足と質疑のための時間を私が司会した。災害時の対応は一般に、自助、互助(家族、友人)、共助(地域、市民レベル)、公助(行政による支援)という順序が考えられるが、教会の場合、自助 → 互助・共助(HT, RS, 監督会)→ 公助(東京、米SLC)と進むように思われる。この度、教会の対応は格段の迅速、組織化、教会員の協力などの対応が見事であったと思う。ただ、一点、地元における自発的な救援・支援活動に対し、個人で行なっている場合、教会管理本部は支援しないという対応で問題があったと伝え聞いている。この点について出席者に問うと、ボランティアはあくまで経費を自前の覚悟でするものという反応であった。しかし、この互助・共助 / 公助 の境(言わば「民」と「官」の間)で経費支出を巡って問題を残しているように思われる。(阪神・淡路大震災の時も同様の問題・不満が一部に残った。)同時に日本の教会員はLDS教会の組織が、いわば一大企業組織の態をなしていて、人道支援(例、赤十字への義捐金など)は災害時現地で消費できる枠とは別口の予算から出ていることを承知すべきなのであろう。下図参照。(第二部、続く)。

〝14時間前 - ... 毎日新聞が全国47都道府県と20政令市にアンケートしたところ、県として備蓄してい ない神奈川、青森など5県を除く62自治体のうち3割近い17自治体が、 ... 過去5年の 総廃棄量は全備蓄量の4分の1に当たる176万3600食に上り、有効活用のあり方が問 われそうだ。 ... 最多は東京都の88万6000食、次いで川崎市の18万5550食、相模原 市の14万8000食の順。 ... 災害時の非常食や水、買い替え時期・・・”
廃棄 非常食 自治体
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%BB%83%E6%A3%84%20%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E9%A3%9F%20%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BD%93
そこでモルモン教会が大量にランドセルを仕入れてきて『寄贈 末日聖徒イエス・キリスト教会』と書き込んで貧困家庭にプレゼントするんです。何年か前に伊達直人を名乗る人が施設にランドセルをプレゼントして喜ばれていましたね。同様のことをするわけですよ。
まぁ私ならそんな書き込みのあるランドセルは絶対に嫌ですが、世の中にはそれでもいいと言う人もいるでしょう。報いを求めた売名でも誰かが助かるならいいんじゃないですか。熱心な末日聖徒の方々、是非ご一考をお願いします!
信仰箇条13条に 良い事だったらなんでも尋ね求める って有るのにね
なんか、心が狭い
この辺のところを何とかしないと、真の教会とは思ってもらえないでしょうね。
>使命感に目覚めると思います。
だから教会幹部も高給を受けているんですね。
納得です。
>金のためにやるそうです。
わたくしも元々は医療系の検査が専門なのですが、使命感がありすぎたといいますか、ミスへの恐怖心とサラリーの低さに別な道に進みました。
動機がサラリーの方が長続きして使命感に目覚めると思います。
ヘルピングハンズは社会奉仕への入り口として良いかもしれませんね。
https://www.lds.org/topics/humanitarian-service/help?lang=jpn#serve-in
次のような方法を通して地域社会で奉仕することができます――
教会指導者によって組織された地元のモルモンヘルピングハンズのサービスプロジェクトに参加する。
赤十字のような地元の機関でボランティアとして働く
貧困層を支援するふさわしい地域活動を支援する
難民支援団体を支援する
地元のホームレスシェルターで奉仕する
フードバンクや食料配給所による地元の食料品寄付活動などを支援する
作曲:どなたかお願いします
被災地からは逃げ出すけれど
人目につくからボランティア
名前を出すため頑張るけれど
売名行為じゃありません
一生懸命やるからいいのです
下心があってもいいのです
それがモルモン・ボランティア~♪
俺たちは奉仕活動のプロフェッショナルだぁー!!
報いがないならやりません
新聞載るならやりましょう
個人援助だ?甘えるな!
自己責任で対処しろ
何かおかしいけれどいいのです
何も考えなければいいのです
それがモルモン・ボランティア~♪
俺たちは慈善活動でボランティアやってるワケじゃねーゾ!!
仰るとおりですね。
そのために継続することは大きな意義があると思います。
やがて本当の奉仕が生まれてくるのでしょう。
看護婦だって使命感で始める人は少ないです。
うちの娘も来年看護婦になりますが、使命感ゼロ。
金のためにやるそうです。
日赤を受けるつもりでしたが紛争地や被災地に真っ先に行かなくてはならないと現役看護婦から聞いて、選択肢から除外されました。
でもやっているうちに、患者への愛情や使命感が湧いてくるのかもしれません。
奉仕も一緒で、いやいややっててもスイッチが入って
しまうとだれよりも大きな働きをする人も出てくると思います。
モルモンの中でもプログラムでやっているうちに奉仕の道に目覚め、天職として多くの人を救う器になる人も出てくることでしょう。
それは大いに期待できることです。
色々と学ぶところと共感できる部分があります。
ヘルピングハンズで奉仕をしている兄弟姉妹は純真な思いで携わっているでしょうし、指導者もまたそうだと信じています。
無名のボランティア団体でも色々ありますよ。
おそらく常識に従っただけでしょうね。
http://www.cyclowired.jp/image/node/134609
http://ja.mormonlady.se/2014/10/19/amerikanska-roda-korset-fortsatter-sitt-samarbete-med-jesu-kristi-kyrka-av-sista-dagars-heliga/
アメリカ赤十字は、末日聖徒イエス·キリスト教会との継続的なパートナーシップを発表しました。
〜〜〜〜
わたしは仮に落伍者さんおっしゃるような下心があっても良いと思ってます。
ボランティアに参加するのに崇高な心根でなくてもかまわないのではないでしょうか。
参加し人の役に立つに従ってボランティア精神に磨きがかかるのでしょう。
このあたり興味深いです。PBOでは災害時への援助体制がすでに構築されていたのでしょうか?
どのように対処されたか知りたいところです。
出席できず残念です。また申し訳ありません。
災害はうれしくありませんが、教会が有事の際、援助体制を布いていることは良いことだと思います。
日頃の会員の働きに感謝し、還元することも必要ですので、PBOから会員に対しての援助があるのは理想的な姿であると感じます。
赤十字の画像、拝見しました。
このようなゼッケン(正しくはビブ<赤ちゃんの涎掛けですね>)は自治会のじっちゃま連中も地域の掃除の時に身に付けておりますので、一種の連帯感を持つための道具だと捉えています。
赤十字の場合、その崇高な理念は皆の知る所であり、もはや売名の必要もない組織ですので、ゼッケンの持つ意味も違ってくると思います。
恐らくはジュネーブ条約により、赤十字のマークをつけたものは(一応)攻撃されないという決まりがありますので、その延長でどこに行くにもそのマークをつけているのではないでしょうか? よそは知りませんか・・・
問題点は、奉仕に大事なのは心の向きということで、奉仕は無私でなくてはならないというのが私の考えです。
そして純粋な奉仕というのであれば、相手の立場に立ったものでなくては・・・
何か活動をする場合、<成長する私>など青少年の訓練のためにプログラムとして行うのであれば、自分たちのためであって相手のためではないということ。
このような目的があれば、動機が純粋としてもいいのかなと考えます。特に伝道目的があればそれは明らかに奉仕の意味を取り違えていることになります。
奉仕と布教は切り離すべきと思いますが、モルモンの場合、どうしても布教のチャンスととらえる風潮があると思います。
モルモンの言うところの奉仕は果たして無私であるか?
ちょっと疑問に感じるところです。
上からプログラムとして降りてきたものであれば、地元が望む奉仕ではなく、教会が望む形の奉仕しかできないということです。
それでも助かっている人はいると思いますが、教会は奉仕の意味を取り違えず、
自己満足に陥らないように気を付ける必要があると思います。
教会ほどの組織力、マンパワー、財力をもって事に当たれば、もっと素晴らしいことができるはずなのに、それができないのはなぜでしょうね。
奉仕団体ではなく布教団体だからではないかなと感じています。それは仕方ないことです。
一番の奉仕は<福音を伝えること>でありますので、世間でいうところの奉仕とはズレがあります。
教会が世界中で行ってきた善行は評価致します。
多くの寄付や援助をしてきたと感じていますが、この考えを持っている以上、奉仕団体がいうところの無私の奉仕はできないと感じています。
でも今はプログラムでやっていても、そのうち純粋な奉仕に目覚めてその道を歩む人が出てくると思います。
そのような人が出るとすれば、いまやっていることも意味があると思います。
このプログラムもだんだんと洗練されていくのでしょうから継続していくことが大切であると思いますが、
教会の名前を外せば、個々にとってもっとよい奉仕が出来ると思います。
個々の働きは立派だと思いますので、教会のやっている奉仕が意味のないことだとは申しません。
ただ奉仕の本質をよく学ぶ必要はあると思います。
Rさんの意見にあるように教会が個人の行う奉仕をバックアップすることが出来ればよい形の奉仕になると思います。
確かに。
参加する兄弟姉妹も教会の動機もキリストの教に根ざしたものだと思います。
私も教会は個人のボランティアにも支援をして欲しいと思ってます。
組織は組織、個人は個人の意味は、たとえ教会がアメリカ風の善の広報活動によって、この世の報いのみを受けてしまっていたにせよ、それは教会組織のことであって、ヘルピングハンズなど教会ボランティアに参加する者の個々の動機が純粋であれば、それは神の目から見て十分
評価されているから、変な批判にびくつく必要はないということ。
一定のルール作りは必要でしょうけど。
最近夫婦伝道や神殿での奉仕で高齢者の方が活躍していますが交通費や外食などで負担が大きいみたいですね。
ステークとか地域段階の指導者の頭の中には「宣教拡大」って思考しか無いような気がしてきます。
誰も、それが当たり前の事だと思ってしまうのが嫌ですね。
懐かしい話ですね。
あの時、NJさんが、「ただ掃除をするだけでは、ごみは無くならない、掃除をしながら、ごみを捨てない様にPRしましょう」と言う趣旨の話をして「ごみを捨てない様に」って書いたゼッケンをつけたのを覚えてます。
当時のNJさんの趣旨は純粋に社会奉仕だったと思っています。
しかしながら、日本のモルモン教会の中に、社会奉仕を伝道の手段としてとらえる向きも有るのは事実だと思います。
2月と8月に行われる「献血」活動も「受付でモルモン教会と言ってください」って言われますね。
基本的に、「宣教拡大至上主義」って言うのが、モルモン教会のどこかに有るのだと思います。
あ、この話題は、前のスレッドの「偽善売教」に書いた方が良かったかも?
赤十字なども団体を示すマークをつけています。
http://www.geocities.jp/redcross_akita_skyheart/070930.jpg
聖句の引用も妥当であると感じています。
ただ、素性を明らかにしなくてはならない場合もあり、他のボランテイアも入り混じって混沌とした現場では
識別のためにゼッケンが必要である場合もあります。
モルモンの場合、やはり伝道に繋げるという意図がありますので、残念ながら傍(教会外)から見ると奉仕に便乗して伝道しているという見方はあると思います。
教会の中でジョン・ドゥさんの考えは受け入れられないのかもしれませんが、人間としての気持ちとしては当然であり、クリスチャンの考えとしても本道であると感じます。
自分の教会堂の周囲を掃除する場合にも地元への奉仕ということでこのゼッケンを付けて清掃活動をしている場合があります。
私はその必要はないと感じています。
善行は後でわかった時に光り輝くもので下心のあるものは偽善でしかないと思います。
ただ、困っている人にとっては偽善の要素があっても
うれしいものかもしれません。
神戸の震災で、山口組が国より先に近隣に物資を配り
周囲に感謝されましたが、このような感じかもしれません。
自らや教会の名声のために行うのではなく、神だけが知ればよいというのが私の理想です。
地の塩となることは善行を世に輝かせないといけないのかもしれませんが、私はプログラムとして奉仕を行うことには疑問を感じます。
ものによりけりですが、純粋な愛は見返りを求めないものですから、<伝道につなげたい>、<改宗があればなお良い>という考えはキリスト教的ではないと思います。
良いことは黙ってやれ!
これが理想です。でも組織の繁栄を考えるとモルモンの手法も当然と思います。
合理的です。
周囲は好意的に捉えているとは思いますが、釈然としないところもありますね。
でも新聞記者に取材に来てもらうってところで教会側の意図は明白ですね。
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/0892bd4a020bcde7bb36f9b94f5d631f
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/86ebb48e88482b13d7edd2cd98de4912
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/2205a06272eb31cfaf270f9e6f3df052
ま、復興ボランテアはとても良いことではあります。でも、裏情報視点も必要では??
人目を集めろ、宣伝だ!
天に宝は積まないぜ!
だって天など無いってことを教会幹部は知ってるからさぁ~♪
イェーイ!
参加者が無私の精神であれば、本人たち個人は問題なく天に宝を積めるので考えすぎたって意味がないですね。
『ヘルピングハンズ 末日聖徒イエス・キリスト教会』とデカデカと書かれTシャツを着てやるんだそうです。当日は新聞記者に取材にきてもらうように手配しているのだと。私の友人(教会員)が、こう言う活動ってどう思う?と聞いてきました。
それで私は当時参加していた末日聖徒のメーリングリストに話題として投稿してみたのですが、まぁ今更ここで詳しいことは書きませんが、楽しい議論が展開されましたね。『右手の行為を左手に知らせない』と言う聖書の言葉に照らしても良くないし、明らかに売名行為と受け取られると、この活動に反対意見を述べたのは私だけだったと記憶しています。
その後もヘルピングハンズの活動はいろいろ続きまして、中国製の安物の車椅子を大量に仕入れてきて『寄贈 末日聖徒イエス・キリスト教会』とわざわざ書き込んで病院や介護施設に贈ってましたね。体の不自由な人に個人的に贈れないのか?との問いには、一部現金負担で可能と言われました。
何と言えば良いのか・・・教会の宣伝になることには予算を出して会員を働かせて取り組みけれども、末端の弱い立場の個人に援助したところで教会に何の見返りもないからしないと言う、会員を甘やかさないモルモン教会の素敵な姿勢に感動すら覚えますよね。
ヘルピングハンズとは会員が教会のために手を働かせることであって、教会から助けの手を伸ばしてもらえると甘えることではないようです。こう言うギブ・アンド・ギブの精神も初期のキリスト教会にあったものが回復されたのでしょうかねぇ。
ヘルピングハンズの技術向上はすばらしいと思います。
自発的な救援・支援活動に対し、個人で行なっている場合、教会管理本部は支援しないという課題については、行う側は甘えてはいけないし、教会本部側も彼らに対して、せめて隣人愛を示すことくらいはするべきと思われます。
---
この日発生したブリュッセルの同時攻撃では、ABCがツイッターで報じたところによると、9人の米国人が負傷した。これ以上の詳細は明らかにしていない。
一方、米政府とモルモン教会の発表では、負傷した9人のうち3人は、ユタ州から当地を訪れていたモルモン教の伝道師、ほかに米空軍職員と家族などが含まれているもよう。
私は瀬座兄弟から多くの教えと影響を受けました。
そうですか、仙台でしたね。
以前のホームワードから仙台ステークに転出した家族も多く、里帰り時に教会の活動状況を聞くと大変充実しているように感じました。
薩摩には城をもって城とせず、人をもって城となす 。という言葉があります。
日本4番目の神殿は仙台か?
人材は宝ですね。
「LDS聖研グループ研究会」にも素晴らしい人材が集結しつつありますね。
がんばってるんだなぁ。勇気と元気をいただきました。
関西も頑張れ!
多くのかたが命を落とした震災でしたが、来世の存在を知っているからこそ宣教師たちはあのような屈託のない笑顔でいられたのでしょうか? モルモン批判者の中には宣教師たちの態度を不謹慎だと批判している人もいましたが、信仰篤いモルモン会員のように永遠の観点に立てばそのような批判はなかったかも知れませんね。
末日聖徒イエス・キリスト教会は初期のキリスト教会が回復されたものですから、きっと初期のキリスト教会もユダヤ戦争でローマにエルサレムが包囲された時にはにこやかな笑顔でいち早く逃げ出したのでしょう。 神様の愛は偉大ですね。