さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

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二字名と一字名

2009年08月19日 21時02分00秒 | 姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名
  二字名と一字名

 

 漢二字(その多くが道義的な意味を持った)の名が盛んになったのは、

平安期に入って、三代目の50人の皇子女がいた嵯峨天皇のとき

からである。           

 

  【 嵯峨天皇による人名習俗の新改変 】

 

① 身分の高い生家出の后妃が産んだ場合〔皇族へ〕

    皇子・・・漢二字(正負・秀良)

    皇女・・・漢一字に子(正子・秀子)

 

② 身分の低い生家出の女性が産んだ場合〔源姓を賜り臣籍へ〕

    皇子・・・漢一字(信〈まこと〉・弘〈ひろむ〉)

    皇女・・・漢一字に姫(貞姫・潔姫)

 

 唐風賛美の強かった嵯峨天皇による人名習俗の新たな改変は、

すべて唐風の模倣であった。それ以前にあっては、皇子女の名は、

おおむね乳母の生家の家の名が付けられていた。

 桓武の山部、平城の安殿(あて)、嵯峨の神野、淳和の大伴など。

 漢字二字を重ねて人の名とする習俗、またその上の一字を共通

にする行列字の習俗も古くからのものであり、現在に伝えられている。

 

 ②の場合、信(まこと)・弘(ひろむ)・常(ときわ)・寛(ひろし)・

明(あきら)・定(さだむ)らに一字名と源姓を賜うて臣籍に降ろした

のは、北魏の世祖が、同族の河西王の子、賀の人物の非凡を

認めて西平候に封じ、龍驤将軍に任じ、

 「卿と朕とは源を同じうす。事に因って姓を分かつ。

今より源を氏となすべし」(『魏書』源賀伝)

と、源姓を与えた故事にならったものである。

 

 嵯峨帝によって、創始された皇族子女の二字名・一字名の習俗

は、皇弟淳和帝が踏襲して定着し、今日に至っている。

漢二字のこの人名習俗は、後続のみならず、貴族からさらに武士

階級に及び、実名のことを「二字」とまで呼ぶまでに至った。

 下層の庶民は、長く二字名を用いることをはばかったが、、

明治維新による四民平等の社会の到来とともに誰もが二字名、

一字名を望むがままに付けている。

 

 

 

  『苗字・名前・家紋の基礎知識』監修・編者:渡辺三男 ;参考

         

          いつもありがとうございます。

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名前の習俗

2009年08月19日 19時35分00秒 | 姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名

 

   前の習俗 

 

 日本における名前の習俗も、歴史と共に変遷した。

 『古事記』の伝える伝承によれば、天皇家のこの国土における

始祖は、高天原(たかまがはら)から九州は日向国高千穂に降臨

したいわゆる天孫(日の神天照大御神の孫)にして、正勝吾勝

勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の御子、

天津日高日子蕃能爾爾芸命(あまつひたかひこほのににぎのみこと)という。

神話の時代から歴史の時代に入ると短くなったものの、身辺卑近

事物をかたっぱしから人の名としたのである。

 

 例えば、中臣必登(ひと〈人のこと〉)石川虫名(狢〈むじな〉)

土師八手(はにしのやつで)・門部金(かどべのこがね)・

藤原愛発(あらち〈爆風のこと〉)・伊余部馬飼(いよべのうまかい)

大中臣魚取(おおなかとみのなとり)・錦織壺(にしごりのつぼ)

県犬養手襁(あがたいぬがいのたすき)・榎井靺鞨(えのいまつかつ)

丹治大目(たじひのおおめ)・巨勢奈氏(なで〈撫でる〉)麻呂・

宮道阿弥陀(みやじのあみだ)・船小揖(ふねのこじか)など。

 

 

     

  『苗字・名前・家紋の基礎知識』監修・編者:渡辺三男 ;参考


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