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さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

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追儺(ついな)

2012年01月24日 10時10分30秒 | 神・仏教・民俗の話

疫鬼を追い払う俗習。 鬼やらいともいう。
元来、中国では周礼に則って熊皮を被り、黄金四目の面をつけて
玄衣朱裳をまとい、戈楯を執る方相氏が鬼を駆儺する式を演じた。

≪日本での追儺≫

陰陽道の行事としてとりいられた。
文武天皇慶雲3年(706)に疫病が流行し、百姓が多く死んだので、
その年の晦日に土牛を作って鬼やらいしたとあるのが初見。
これは臨時の行事であったが、恒例年中行事化したのは、
文徳天皇斉衡元年(854)12月30日以降のことである。

『延喜式』
  大舎人寮の舎人が鬼となり、舎人長の演ずる方相氏が黄金四目の
  仮面をかぶり、玄衣朱裳を着て右に戈、左に楯をとる。彼に従う振子
  という8名の児は桃弓・葦箭・桃枝を持ち、それぞれ鬼を打擲する。


この除夜の追儺は、やがて寺院の修正会(しゅしょえ)・修二会の時に
行われ、年頭の招福攘災的意義を民間にも拡めることとなった。

この追儺の鬼になる家は鬼株・鬼講などといって特定の家が決まっている。
鬼になるときには、シオゴリをとって潔斎する。
室町時代には、節分に豆を撒いて鬼を追う習俗が知られる。

民族的には、豆まきは節分に限らず、大晦日に行うところもある。
豆を撒くのも鬼を追い払うのではなく、神に対する散供と考えられる。
寺院の追儺も、民間の豆まきも、その折に出る鬼は必ずしも悪鬼ではなく、
むしろ悪霊を鎮圧する善鬼の性格を示しているとみられる。


【 参考リンク 】

平安神宮の節分→ こちら
方相氏の画像は→ こちら

 ≪鬼やらい≫

鬼追・鬼打・追儺(ついな)ともいう。
古代に中国の追儺が伝わり、疫鬼を追払う式が宮中で行われた。

『蜻蛉日記』に「儺(な)やらふ儺やらふ」と騒ぎののしる様がのべられている。
厄祓いの行事。
大年・節分・寺院の修正会に行うほか九州の鬼火も同類。
災厄をもたらす精霊としての鬼を追払い、豆で目玉をつぶすというのが
一般的な理解である。本来は身についた摘みけがれを豆や銭に移して
流す固有信仰と関係があった。

それは伊勢の津の観音堂の「鬼押え」の行事にみられたように、に
けがれを負わせ漁師たちが青竹で散々打ちのめし血まみれになるのを
大杓子で押さえ、うんといじめたほど豊漁とさえ考えられるようになった。

伊勢津観音「鬼押え節分会」→福豆まき参加者募集中(1/31締切必着)
尾張国府宮儺追い神事・儺追い行事一覧
大和法隆寺西円堂
追儺式
薬師寺
花会式(修二会)

≪修正会(しゅじょうえ)≫

「しゅうしょうえ」「しゅうせいえ」ともいう。
毎年正月、各宗寺院で修する年始の法会。
宮廷に、唐の内道場と同じものをもうけ吉祥悔過を催したのに由来する。

 これが、平安中期以来修正会と呼ばれ、正月の上旬ないし中旬に、
ほぼ一週間営まれる。結願には、どやどや・堂押・押合・だだおし・
会陽などが行われる。

 岡山市西大寺観音院では、旧12月24日のコトハジメ、26日餅搗き
(修正会の御供餅)、27日深夜のシンギトリと続き、旧正月1日から
14日まで修正会が開かれる。
読経の間に楊製の福枝(牛王枝)で床をたたく。
結願の14日深夜に会陽、いわゆる裸祭が実施される。
すべての燈火を消して牛王紙に包まれたシンギが投下され、
裸の人々がシンギを獲得せんともみあう。

このように修正会にはたぶんに民間の正月行事が習合されている。


 

     参考:和歌森太郎 『年中行事』(昭和32)
         
「仏教儀礼の民族性」(『仏教民族』2)
 『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照  

 

 

obiログ2012年1月20日の記事節分のお化け」は→ こちら

 

 

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