「ヒーナ」・・・古くは「ヒナ」は伸ばして呼んでいた
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「ヒヒナ」・・・仮名書き
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「ヒイナ」
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「ヒナ」・・・現在
≪意味はヒナタ(日向)≫
祖先がこの島国にたどり着くとそれぞれ山を背にして東南に開けた
日当たりが良く、住むにも耕作にも良い所を捜し求めて住み着いた。
そこからさらに、そうした日向の土地を探して、次から次へと移動した。
≪ヒナツメの役目≫
ヒナツメ・・・先祖に守護を乞い願いまつる女性の呼び名
男祖霊・・・ヲビナ
女祖霊・・・メビナ
ヲビナとメビナとを一対にして祭る。
子孫の為に、災厄・邪霊を追はらい祝福をもたらすものと信じていた。
次々と日当たりの良い土地を求めて移り住み、ヒナタ(日向)が
ヒナ(鄙・地方・辺土)と感じられるようになる。と、その古い祖先の
住んだ日向(ヒナ)の国を学者ぶった偉そうな方々が「ヒュウガの国」とか
「ヒムカの国」とされているが、ヒナからトヨ(豊)・ツク(筑)・キビ(吉備)・
アキ(安芸)・ナニワ(難波・ワ・倭)・ヤマト(ワ・倭・大和)などと呼び、
その部族は移動した。
日の当たりが良い土地―――――「ヒナ」
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古く遥か祖先を埋めてきた土地―「トコヨ(常世)の国」と呼んだ
日当たりの良い土地ゆえ、作物豊穣の富有、従って長寿の国、
富み足りた温暖の地であるので、人情細やかな愛情の国と信じており、
祖先の霊魂はいまだに満ち足りた生活をし、子孫を愛するあまりに、
季節の変わり目ごとに常世神として、それぞれの家を祝福に来る。
それが中国の「上巳(じょうし)の節供」の流入によって、類似の多い
ところから三月三日に期日が決まり、中国で水辺に出て、水を飲み
生命力を強化し、さらに草もちを供え食って祖先を祭る。
これは災厄・悪霊を追うはらう祭りになっている。
宮中では、曲水(ごくすい)の宴となり、盃を受け流し水を飲んだのが、
風流ぶって和歌競詠などと意味のないものにされたり、
黒酒(クロキ――果物の噛み酒―塩辛風の黒色の葉に盛れる醸酵物)・
白酒(シロキ――白米を噛み器に吐き溜め醸酵させた白色の酒で、
葉に盛れるモロミ状の物)の白酒(シロザケ・清酒に米や麹や味醂、
濁酒などを混ぜた混成酒、特有香気と甘味があり、ビールより
アルコール含量は多い)を供えて、先祖を祭る。
先祖は必然的に男女一対に考えられ、中国で考妣と呼ばれる者に
当てはめてもいた。それで、ヒナは一対のことを意味するとも。
≪ヒ≫
「日嗣」とか、「産のヒダチが悪い」とか、「ヒ弱い子」などと用いられる、
母の胎内で与えられた生命力――先天魂(タマ・ココロ・チ・キ)の
ひとつにヒを意味する。
≪ナ≫
魚・菜・名のように、成長するのにつれてその名の生命力として、
外部から身体に入って宿りこむ後天魂(タマシイ・ウブ・イツ・ザエ・
ワザ)のひとつのナとする。
≪ヒ≫≪ナ≫この二つを一括して霊魂(ヒナ)とし、その威力を年毎に
強化しに、ヒナの国から、ヒナの神(先祖霊)が来られるとし、迎えて供え
物をし祭り馳走をし、唄い、舞い、「お雛様送る、来年もまたござれ」など
と唱えて送る。来年を期待できる常世神になっている。
もともと神の姿に形を与える事は、臨時の場合の祭りに限られていた。
ヒナ祭の源は臨時のものであったと思われる。
災厄・悪霊を追払いたい時にいつでも行った。
それは、古く東国地方ではじめた。
中国の大宮(おおみやめの)祭りの形式を真似たものであった。
柱の根方に竹の枝に、布のちに紙で、三対の男女の形代(かたしろ)
(人形の姿を形どったもの=人形)と一人の従者の人形を緻(キヌガサ)
の下に吊るし(住吉踊の縁起飾り物・正月初詣での繭玉風に小判・鯛・蕪・
当たり矢・大黒・恵比寿などをビラビラ吊るし下げた縁起物風に)神職が
四手をさげた竹・榊を左右上に振って邪霊を追はらうようにやはり振って
災厄・悪霊除去をしてのち、たてかけておく。
この男女の形代を用いて災厄・悪霊駆除行う。
この現法は次第に西へと進み行われ、北九州地方ではヒメゴジョミヤノメ
と呼ばれるが、やはり人間の穢れをうつし流すものにはなっていない。
この宮祭の形代が、雛人形の原型であり、ひな祭りの源である。
そのため、雛を人間あるいは神の縮小模写=ヒナガタ・ミニチュアーの意
とする説は採らない。
≪日本の人形の初見≫
『神功紀』
「芻霊(スウリョウ・芻は乾燥した草で、霊はレイと普通よむ)」とある。
人質としていた微叱許智(みしこち)を朝貢使として来朝した三人が、
新羅に帰る時に微叱許智を忍び連れ出し、対馬を過ぎて草人形を
作り、病気だとして床に寝かしておき、人目をごまかし逃がした。
よって、新羅朝貢使を火刑にしたとある。
やはり、外来種の人形となる。
≪雛祭りの本来の意義≫
旧ヒナの国――常世国から予祝に遙々臨んでくる男雛・女雛の祖先神――
常世神に災厄・悪霊を追いはらってもらう祭りだった。
それが、子供の厄歳である七歳・五歳・三歳の時、後代になって七五三の
祝いとなる。現代風にいえば、反抗期にあたり心身ともに変化する年齢。
男女の別なく、ために雛祭をしなければならず、災厄・悪霊を除去し、その
生命力を雛人形に宿りこんだ祖先霊によって、更新してもらうことになる。
次回は 「雛祭 (2)≪流し形代≫」編です。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照