雛祭 (3) ≪立雛から座雛へ≫
≪立雛≫
庶民の母親が伝承させた素朴な紙立雛。
祖先が雛神や常世神となり、穢れを祓い守ってくれるとの考えから。
仏教・・・死後33回忌が済むと、位牌を寺に納めたり、墓地に埋めたり、弔い上げ
(頂に枝葉を残した生木塔婆=ウレツキ塔婆を立てる)が済むと、死者は
仏から神になり、祖先神の仲間に入ると信じられてきた。
神道・・・死即神であるので、雛神になり災厄祓いをすることは
当然の事実となっていたのである。
≪座雛(すわりびな)≫
手作りの雛より商品雛の派手な雛に目移りする母親が増えた。
それに雪洞(ぼんぼり)や篝火などの火によって、常世神からその家の祖先神に転生
させて、雛を依代としてそれに宿りこめ、子らの守護霊にしようとする母親が少なくなった。
↓↓ 本来の雛祭の意味が薄れてきた。
大名・公卿好みの調度品が増え、黒漆塗・牡丹・唐草模様の金蒔絵を施したり、
代々の家紋散らしだと皇室の紋までをあしらって、這い上がり者の本性をさらけ出す
ものまで出てきた。
≪徳川三代将軍家光の寛永以後≫
土雛・張子雛が座雛に適していた。
着付雛までもが大きな座雛になった。
平安期以後の公卿・武家の姿態を手本に、古今雛、座雛、
きわめて地味な直衣雛がまるで雛の色直しのように作られた。
嫁ぎ先へと持ってくる場合、それぞれの家の先祖霊の宿りこむ依代と考えると、
同一の毛氈の上に同席するのもどうかなと感じ出す頃、江戸商人の儲け根性も
加わり、「段飾り」ができた。
≪五代将軍綱吉の元録時代前後≫
江戸ではすでに七・八段飾りができていた。
【一段目】
屏風を後ろに幕・御簾を前につけた段に男雛・女雛を先祖霊の依り代として祀る。
~以下の段に迎えた先祖を祭り喜ばせて、快く幼児の厄払いをして頂ける為~
【二段目】
酒すすめ役の三人雛(官女風で中央に杯を持つ座雛・左右に酒器を持つ立雛)
~またその家の祖霊に転生させる呪術用の火として雪洞・篝火が灯される~
【三段目】
五人囃子(扇拍子・小鼓二人・太鼓・笛役・・・宮廷雅楽の真似ではない)
~先祖を喜ばせる祭りであるが故、明るく楽しい猿楽のお囃子が入る~
≪京阪地帯段飾り≫・・・宮中生活の模倣
二段で屋根なしの御殿造り
随身・衛士、左近の桜・右近の橘
≪徳川十二代将軍家慶時代≫・・・現代風の関東・関西混合型
江戸育ちの其角が京都に出向いた折、座雛・段飾りになったのに驚き、
「段の雛 清水坂を一目かな」と作っている。
★昭和三年以前は、皇室とは反対に男雛は向かって右
「記・紀」の崇神天皇(御間城入彦命)の御名が危ないと、大彦命に少女が教えた歌、
「御間城入彦命はや、己がををしせむと、ぬすまく知らに、ひめなそびすも」
「ひめなそび」は「雛遊び」の初見とするのは誤解。
昔皇族方は皇居の神嘉殿中にそれぞれの生命の象徴として、緒に結び目を
作りそこに、生命を結び込めてかけておいた。
それが盗まれたり損なわれると、当人は死ぬと信じられていた。
「その玉の緒を結びっぱなしにしている」と採るのがよい。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
≪リンク集≫
「古今雛」は→ こちら
はっきりと綺麗なわかりやすい画像です。
「御殿雛」は→ こちら
江戸時代の雛人形→ こちら (かなり詳しく載っています)
雛祭 (2)≪流し形代≫
常に身辺に置いてその者の心身の災厄汚穢を移し宿し込める、
撫でもの風の天児(アマガツ・台に十文字形に細木を組み骨とし、両手――横木から裾に
白木綿(ゆう)をたらし、白木綿を丸めて頭部にしてその頂に、黒糸の毛三本をさげる――
漫画オバQ風の立雛人形)や這子(ホウコ・白木綿の縫いぐるみで、手・足・頭それぞれ
でっぱらせ頭部の長目のもので後世の這はい人形の原型で、物によりかけたたせたり
横にしておく人形)が、古くから穢れや災厄を負わせて、流し捨てたり焼却したりした。
これが、撫で物――流し雛の系統となる。
★和歌山県粉河地域・・・泥製の頭に紙着物をきせた豆雛人形
体を撫でまわし三月三日に、紀ノ川に流し捨てる。
↓↓
それは同県加太の海に集まる。
≪加太は淡島信仰の根拠地≫
加太神社の所在地で、淡路島に背をむけた小さな社ながら、淡島願人が墨染衣に
黒布張りの笈を背負い、国中を巡歴して婦人の諸病平癒・育児祈願の代参依頼と
して、その髪・写真などを預かり、鉦をたたき国内一巡の後、社に戻り祈祷を行い
海に流す。古くは箱に雛鳥飼い持参して、鳥占いをし庶民の信仰を深めた。
社寺の縁日に山雀の御籤(みくじ)ひきがその面影を感じさせる。
≪災厄・汚穢流しの淡島縁起≫
住吉神社の姫が女の業病にかかったので、社の片扉をもぎとりそれにのせて住吉
の海へ流した。それが加太の海に流れついたので 、淡島の流雛の原型になったと
土地では伝え、神社側では、神功皇后が三韓遠征の帰途、この社に詣で大国主命
と少彦名命との形代(黒鳥帽子・赤袍・金袴の大国主命が右胸に小さく白地に金線
模様の少彦名命を抱いた図の厚紙製)で、息子御体を撫でられ息を吐きかけ、加太
の海に流したという。
≪現在の紙雛≫
守雛として頌布されている。
三月三日に簡単な木舟二艘に、古雛を山ほど積んで流している。
すでに雛人形が常世神の呪力で、災厄・邪霊を追払う役目を果たしたことが、
雛人形がそれを吸い込み宿し、背負い込んで持ち去ってくれる役、すなわち
流し雛に転じことになる。
★鳥取県の流し雛・・・白塗り、泥首に赤紙着物・金袴の男女紙雛を竹で、桟俵ポッチ
(藁粗製)に寝させ抑え、供え物をして晴れ着の娘たちが流す。
それは元来、大きくなった折、乳が良く出るようにと祈願するものであった。
↓↓
大祓い・夏越祓の連想も加わって、災厄・穢汚を背負わせ流すものとなっている。
『鳥取県流し雛の館』様HPはこちら→ もちがせ流し雛の館
流し雛の歴史・行事・展示など詳しく載ってます。
★東京都大田区洗足池地帯・・・昭和55年頃から赤坂弁慶堀で行っていたのを移して、
人形を鳥取から取り寄せ抽選で200名(昭和56年)だけ
溜り水の洗足池に流させ、穢汚流し――流し雛とし最後に
池から拾い上げ、古雛と共に焼却する侘しい姿になっている。
『源氏物語・須磨の帖』(三月巳日)・・・流し雛
「陰陽師召して、祓へさせ給ふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見給ふ。」
『源氏物語・紅葉賀の帖』(若紫)・・・人形遊び(十才以上のするものではない)
「ひいなをすゑて――三尺のみづしひとよろひにしなじなしつらひすゑて、また
小さきやどもつくりあつめて奉給へるを、所せきまであそびひろげたまへり。」
『枕草子』・・・※「遊ぶ」
「すぎにしかたのこひしきもの、枯れたるあふひ、ひいなのあそびのてうど」
緋毛氈を敷き、立雛、調度を並べその前で遊ぶ。
※「遊ぶ」・・・本来、「神事をする・祭りをとり行う」義
★静岡県賀茂郡(伊豆半島天城山の線から南半分の地域)
昔、家々の母が、他の地方同様、木・泥・紙・布などで、娘のために造った
立雛を並べ飾り(近頃は商品化の雛が多い)、その前でママゴト・アネサマ
アソビを、山中の村でも「磯アソビ」と呼んでいる。
もちろん、蛤やさざえなどが供えられ、手に入らぬ都会などでは、
飴・餅・金花糖細工などの磯物を供えている。
古くから、七・五・三歳の厄除け(幼年戒)の行事として、海岸・磯辺・河原などに、
三月三日に出て炊事をし、一日遊びくらし、「浜降り・磯遊び」などといい水を浴び
水を飲み、身を清めて食事をする。それは、遙々と祝福に来てくれた
雛神(先祖霊・常世神)を送る作法であり、「食いわかれ」の呪法なのである。
中国渡来の上巳の節供の影響だけではなく、野遊び・山遊び・磯遊びが、
古くから行われて幼児・少年・青年戒として行われていた。
その主催者は氏の故老であり、祭られる神は、氏・家・村の先祖であり、
それが象徴化されたものとなっている。
木製・・・・・東北地方のオシラ神・コケシなど
紙製・・・・・紙人形・張子
土製・・・・・土偶
紙布製・・・押絵
金属製・・・鋳物
石製・・・・・自然石・彫刻
★鹿児島県・・・糸雛系(母親の子供の厄除け雛)
広く紙製である。黒糸の髪が黒紙で作られ、襟元を十二単風にし、胴は
思いおもいに母親が彩色し折ったり、円筒形にもする。
雛人形は東国から西へと進んだ。
その商品化したものを中心に考えると四通りとなる。
それも後に、日本橋の十軒店だけで扱い、頭・胴・手足・衣装など部分的に
各地で作られ、卸商の手によってまとめ仕上げられた。
≪着付雛(きつけびな)≫
現在の内裏雛と呼ぶようなもの。
埼玉県の岩槻・越ガ谷・尾久など。
公卿の姿態を手本に衣装・服飾をつけた古今雛・直衣(のうし)雛
≪土(つち)雛≫
土偶・塗料に赤色を多く用いるので赤物ともいう。
埼玉県今戸や東北地方。
≪押絵雛≫
埼玉県三ヶ島村や秋田県。
押絵雛:参照→ 松本市の歴史を感じる物HP様『松本押絵雛』
≪張子雛≫
千葉県柏・埼玉県粕壁・金沢・高松。
張子雛:参照→ 『手仕事や 彦兵衛』(張子の豆雛)様
張子吊り雛:参照→ select goods & gift 和のSAIT様
最初は立雛であり、庶民の母の手作り雛はごく粗末なものであったことは、
浮世絵・草双紙の挿絵・柳多留の川柳などでもわかる。
「紙びなへ棒を通してボロをさげ」(柳多留十九回・天明)
「紙びなに角力とらせる男の子」(同三十三回・文化)
「えんこしてゐなよと娘雛を立て」(同三十四回・文化)
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
東博の浮世絵展示室様→こちら(元画像をお借りしました)
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