小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



今年の5月下旬、ホームカミングデーのため校内が開放された小田原高校へと出かけた。目的は明治時代に植樹された銀杏を見るためだったが、正門近くに明治時代の建造物の遺物を利用したモニュメントが小田原城内高校から移設されていた。ホームカミングデーに小田原高校へ出かけた際、正門近くに昨年は無かったモニュメントが出来ていた。石柱が6本、新しいコンクリートの基礎の上に置かれておりどこか見覚えのあるモニュメントだった。モニュメントの前には石板も置かれており文字が刻まれている。それによるとこの石柱は小田原城内高校の前身の小田原町立高等女学校の門柱とのこと。小田原城内高校の創立70周年記念として保存されることになった経緯が書かれている。そういえば旧小田原城内高校の正門近くにこの石柱のモニュメントがあったような気がする。小田原町立高等女学校の門柱が小田原高校へ移設されたとの案内は無かったので、先日、旧小田原城内高校へと確認に出かけた。小田原町立高等女学校の門柱は以前は確か旧小田原城内高校の正門近くに置かれていたように記憶している。その場所を見るとコンクリートガラが転がっているだけだった。帰宅後、一昨年に小田原城内高校を訪れた際に撮影した写真を確認したところ、正門近くに置かれたモニュメントを撮影したものがあった。やはり、旧小田原城内高校から小田原高校へ移設したのに間違いはない。後日、この門柱について調べたところ、昭和52年の小田原城内高校創立70周年の際に同校前身の小田原町立高等女学校の門柱が現存していることが分かり、所有者へ寄贈を依頼。翌年の昭和53年に寄贈を受けて、その年の9月1日に正門近くに設置され門柱除幕式が行われた記録が残っている。小田原町立高等女学校がかつて所在していた場所は、現在のお堀端の本町臨時駐車場から公共職業安定所までの範囲で、明治44年に校舎が完成し大正12年まで使われた。大正12年9月の関東大震災で校舎が倒壊・焼失したのを機に移転。4本の花崗岩の門柱は残り、跡地を買収した製薬業者の自宅の門として長年にわたり利用されていた。昭和53年に寄贈を受けた小田原城内高校では、4本の門柱のうち主柱2本にヒビが入っていたことから、そのヒビの部分で切断し計6本の門柱を彫刻作品のように配置したモニュメントを制作したとのこと。小田原城内高校で永く保存されるはずが、同校が閉校したので小田原高校へと移設されることになったようだ。

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