<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

urasima no7

2012年05月02日 12時55分25秒 | Weblog
いっきにたくさん書いたのでこのNO7で休憩に入ります。

    *

リューグー・ワールドではセックスは戒められてはいません。修行の邪魔になるとかたくなに信じ込んでいる人は、遠ざかります。でも、邪魔にはならない自由自在遊戯三昧主義者たちは、セックスを楽しみます。

でも、前にも書いたように、色身を離れているのが好きですから、そうやたらめったらそこに没頭するということもありません。

男性女性の区別はいちおうあります。ですから、セックスは可能です。でもそれ(肉体の結合)によらないでも、子どもにめぐまれることはできます。

こどもたちは星の王子様のようにあちらの星、こちらの星から飛翔してきます。で、両親を決めます。家族を作ることもけっこう好きです。

    *

こちらの人間界のしきたりであれこれ思いめぐらしてああだこうだとその先を判断するのですが、心配は金輪際無用です。

しきたり、つまり習慣、思考の癖、生活のならいを放擲してしまえば、そこからさきには心配がつきまとってくることはありません。

わたしたちは肌身離さず付着させている<しきたりの厚着>を脱いで、<本質的なわたし>を閉じこめているボーダー(垣根)をとっぱらってしまえば、自由になって楽しく暮らせるのです。

リューグー・ワールドはここに到達した人たちが暮らしています。

って、ことをラハマ・ロ・ズッテはこのブログで書きたいのです。
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urasima no6

2012年05月02日 12時41分42秒 | Weblog
はい、わたしたちは連続しているのです。非連続ではないのです。

時間も空間も連続しています。遮断はありません。紐ではないのです。ぷっつり切れるということはありません。

もちろん、わたしたちの生命も精神も連続しています。生の端っこがあって死の端っこがあるのではりません。

永遠に連続しています。終わりはないのです。

修行もまた、したがって、連続しています。これは進化向上の実践と呼んでいいかもしれません。でも、そんなに堅苦しくはありません。遊行(ゆぎょう)、あるいは遊戯(ゆげ)といった性質が濃厚です。

だから極端な話、眠ったままでもいいのです。でも、眠ったままでは退屈でしょう? 

仕事はありません。他者のために役立ちなさいという教条は掲げてありません。したかったらしてもかまいませんが、しなかったからといって、それで裁判にかけられることなどはありません。

リュウグウ・ワールドでは、無為自然の鮹のように、ゆらりゆらり、のらりのろのろして、ともかくうっとりしているというのが一番もてはやされます。

わかりやすく言うと、ここの哲学者たちはおおむね美しいものを見て忘我の境地になっています。人間界なら、<おいおい、きみ、なにをやってんだよ>って叱りとばされてしまいそうですが。
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urasima no5

2012年05月02日 12時23分01秒 | Weblog
そうでしたそうでした。そうだったんです。

わたしの名はラマハ・ロ・ズッテ。王の身分ですから、もちろんラハマ王と呼ばれます。

現一切色身三昧というサンマヤデイーを身につけていて、この三昧(こちらの世界で言えば、まあ、一種のマジック?)によって、どんな姿にも変身することができました。というといささかわかりにくいかも知れませんが、もともと実体がないのです。実体にこだわっていない世界なのです、ここは。どの色身でもかまわないのです。仏教では空といいますね。

乙姫さまもときどきこれを使っていたのです。彼女も色身を消して音だけになっていました。それが省エネになっていたのでしょうね。わたしは音よりも光になっている時間を多くもちました。

物理の法則に従わないでいいというのは、らくちんです。従わないというのは、物質を離れてしまうという意味です。精神主義っていったらいいかもしれません。色身(物質で構成された肉体)は、重々しいので、みんなここでは肉体を脱いで軽くなってしまうです。

わたしは、そうやって、どこへでも行けるようになっていました。

わたしたちはだれも誰も、けっして<閉ざされた世界>に生きてはいないのです。どこまでも開放されていますから、拡大しようと思ったら拡大もできるし、膨張縮小もできるし、銀河鉄道に飛び乗って探検に出かけることも意のままなのです。

で、わたしは、(ああ、そうだったんです。そうだったんです)人間界に戻ってくるというのも、この気まぐれ探検に過ぎなかったんです。

ですから、わたしはまた周遊に戻っていってもちっともかまいはしないのです。
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urasima no4

2012年05月02日 12時09分56秒 | Weblog
少しずつ記憶が蘇ってきています。

乙姫さまの呼び名は、「音姫さま」あるいは「歌姫さま」「妙音さま」と呼んでいたようです。お歌をこよなく美しく歌われました。いや、ときおりは姿を消してしまってまったくの音になってしまわれていたようです。音符だけが部屋に充ち満ちて遊んでいました。わたしはうっとりしてしまって、眠り王となっていることもしばしばでした。

海の底は音の楽しみであふれていました。魚たちも音の楽しみにふけります。海草も音を聞いて揺られます。

海の底だから光が届いていないのではないかとご心配のむきもありましょうが、なんのことはありません。光孔という透明な筒が海の表面にまで届いていてそこからまばゆい光が届いてきて輝いていました。
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taro urasima no3

2012年05月02日 11時52分08秒 | Weblog
わたしと乙姫さまとの間には、こどもが7人いたようです。

たしか、女の子が3人、男の子が4人。

(もしかしたら、第二夫人、第三夫人、・・・第五夫人にもこどもが生まれていたかもしれません)

でも、あれからゆうに1000年はたっていますから、乙姫さまを母親とする7人とも見分けがつかなくなっているかもしれません。

空の上から追跡調査をしにでかけてみたいものですが、竜宮城は深い深い海の底。はたして子どもたちの姿が見えますかどうか?

もちろん乙姫さまの美しい姿ももう一度追ってみたいのです。

竜宮城は、天界と同じように、時間が進度がまったく異なっています。人間界の100年は、あちらでは1年そこら。つまり子どもたちはまだ10才そこらです。
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浦島太郎って?

2012年05月02日 11時37分24秒 | Weblog
はい、竜宮城の乙姫様にあって、ご馳走をしてもらって、王様としての歓待を受けて、美女100人をつけてもらって、毎朝毎晩遊興三昧に耽って、ふらふらになって、やにわに帰郷の思いが滾り立って、はい、亀さんの背中に乗って、ここの浜辺へ戻ってきました。

いやあ、いいことばっかしでした。

戻ってみたら、白髪。いえ、ユル・ブリンナーの王様と私になっていました。

波が寄せたり返したりしているばかりで、島影の向こうこっち、知人も友人も見当たりません。

    *

竜宮城って、ほんとに海の底にあったのでしょうか? わたしのイマジネイションの海だったのでしょうか?

乙姫様との熱烈な愛の日々が蘇ってきます。
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2012年05月02日 11時32分52秒 | Weblog
ごめんなさいね。ずいぶん、ずいぶん書かないままになってしまっていました。

浦島太郎さんになっています。いまがいつだか、ここがどこだか、わからなくなっています。

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