今夜の夕食はなんだろうな。
酒の肴はあるかな。
掘ったばかりの牛蒡はどんな料理になって出てくるんだろう。
筋剥きをした蕗は? 畑のスナップエンドウ豆は? もぎたてのほうれん草は?
焼き鳥にしたハツ(鶏の心臓)をわが家の柔らかいキャベツでくるんであるといいな。熱燗が楽しめそうだな。
夕食までにあと2時間半。
今夜の夕食はなんだろうな。
酒の肴はあるかな。
掘ったばかりの牛蒡はどんな料理になって出てくるんだろう。
筋剥きをした蕗は? 畑のスナップエンドウ豆は? もぎたてのほうれん草は?
焼き鳥にしたハツ(鶏の心臓)をわが家の柔らかいキャベツでくるんであるといいな。熱燗が楽しめそうだな。
夕食までにあと2時間半。
馬鹿げたことを次々に考え出しているさぶろう君がいる。
よっぽど暇なんだろうね。
彼流の、苦しみ逃れの方策かも知れないよ。
いずれ間違いなく死んで行ってしまうのに、いやそうじゃない、死なない永遠の命がある、なんて言い出しているさぶろう君。変わり者のさぶろう君。
死なない命を生きているから、今日が尊く味わわれていられるんだ、などとも言って。無理矢理、ニコニコ顔をこしらえて。
連続性と非連続性。ふたつを統一して一つにしてしまっているさぶろう君。いのちの連続性と非連続性。連続性の中に非連続性を含め込んでしまって、傷口を塞いで一つにして。
今日のこの時間に未来の全時間をすっぽり投入してしまうという算術法。そういう算術法はなさそうでありそうでもある。今日のこの時間に未来が凝縮されて、未来エンジンが呻り声を発して、それが凄まじいパワーを出現させている、だなんて。
だなんて、馬鹿げたことを考えて、それでしばらくにっこりしているさぶろう君。ついて行けないよ。
死んじまうんだものね。
だから死なない間には、それを覆すほどの代償、コンペンセイションが、たくさんあるはずだよね。
苦しんで死んで行く前段階で、よろこびをたっぷりふんだんに味わっていていいようにしてもあるんだろうね。
だろうね。
嵐の中で、芍薬が咲いているよ。嵐に負けないで、芍薬が咲いているって事もそういうことだからだろうね。
雀が何度も何度も僕の視界に飛び込んできて、愉快なダンスをして見せてくれているって事も、案外そういう理由から何だろうね。
おいしいチョコレートが僕の口の中にあるってことも、代償の一つなんだろうかね。
あの人を美しく見ているってこともそうなんだろうかね。美しく美しく見て、脳裏にそれをしっかり焼き付けておくと、人が終わりを迎えるっていう苦しみが、それでいくばくか軽減していくのかもしれないね。
いろいろに解釈していいんだよね。これ一つしかないなどと、気難しく決め込まないで。固定しないで。いろいろな方角から、いろいろに見ていいんだよね。
自由に。やわらかく。
此処を地獄としないでもいいんだよね。たとえ地獄であっても。そこで抜け出てもいいんだよね。地獄にあって、みずから恐い鬼の形相をしているときがあったとしても。それでもなお。
ときおり、にっこりしていていいんだよね。ああ、今日の大空は澄み切っているなあなどと打ち眺めて。青空に興じて。嵐の日にでも、そこに故意に大空を出現させていてもいいんだよね。
うん、そりゃそれでいいんだろうね、もしかしたら。現実逃れしていてもいいんだろうね。すっかりお惚(とぼ)けさんになって。
僕が此処にいたってこと。しばらく地球上に止まっていたってこと。苦労に苦労を重ねたけれど、でもたまのたまには、にこにこしてたってこと。不機嫌から逃れて、いい気持ちになって、その上で口笛を吹いていたってこと。1時間や2時間程度なら、夏の大空の白い雲を眺めながら、汗を流して畑仕事をしてたってこと。働いたなあなどとつぶやいて夕暮れ時のベランダで休息してたってこと。
ふふ、未来の未来のあるときに、ひょいとこうしたことを思い出すことがあるんだろうなあ。懐かしんで泣きたくなることだってあるんだろうなあ。
でもその時にはもう僕は此処にはいないで、地球の外に出ているんだろう。肉体は返却した後だろう。スピリットだけになっているだろう。
それでもそれでも、僕は僕をしているだろう。肉体には宿れなくなっているが、それでもやっぱり僕は、「僕が僕をしてたってこと」を懐かしく思い出したりしているだろう。
回想の幻想の中に、僕は、一人っきりのスクリーンでは寂しいので、優しい目をしたあの人をも登場させたりしているだろう。回りには罌粟の花が風に揺れたりしているだろう。
ほほ、風が止んでいる。あれほどの風がぴたりと。ほぼぴたりと。雨の音もない。
日は隠れたままだ。どんよりして、機嫌を直さない。ねずみ色だ、空が。
空も荒れるんだねえ。僕の気性のようだね。むしゃくしゃするときがあるんだろうね。
さてと、これで外に出て行ける。薙ぎ倒されてしまったトマト苗を起こして、支え棒に紐で結んであげるとしよう。
夕食の前にしばらくでも畑に出ておくと、しめしめ、不快が快に座を明けることになる。
日が射しこんで来た。だが、荒れ模様だ。強風が、畑の蔓ありエンドウ豆を薙ぎ倒してしまった。植えたばかりのトマト苗も捩じ伏せられている。
何か嫌なことでもあったのかなあ。天の気が荒れているなあ。おさまってくれないかなあ。
正午を過ぎた。そろそろ外が恋しい。
グチになる。書くことがみんなグチになる。
もう止め。
☆
椎の木がいっせいに白い花をつけている。花の森が、いのちを息づいて、こんもりこんもりしている。
八天山の山麓にこの椎の木の花の森が連なっている。美しい。
力が強い者が、力が弱い者を倒す。弱い者が倒されるのを見て、おれは力が強いのだぞ、と自己評価の認識をする。
自慢をする。どんどん自慢したくなって、どんどん力を蓄えて、ますます強い者になる。頂点を目指す。止まることを知らなくなる。
強い者は己よりもより弱そうな者を圧して踏み潰して行く。
「おれは強いんだぞ」を何処ででも誰にでも言い放つ。この魅力にとりつかれる。
立ち向かう人がいるとまず口塞ぎをする。それでも立ち向かおうとすれば、軍隊を動かして取り締まる。恐怖政治を敷く。
☆
人類の歴史は強い者の歴史だ。何処の国でもいつの時代でも、強くなれた者が戦争を繰り返してきた。強い者が弱い者を力でねじ伏せて、服従を強いて来た。
服従を強いられた側は、支配者に媚びを売って、服従する側に回ろうとしてきた。そのしのぎの方法を選択せざるを得なかったのかもしれない。
☆
力が強くなかった人たちはこの世が生きづらかっただろう。生きづらく生きたくなければ、力を付ける努力をするしかなかっただろう。
☆
今朝の新聞によるともう雲仙岳周辺に、ミヤマキリシマの花が咲き出しているらしい。花を見て癒される人もいる。
花を愛する心くらいでは、賢者のホモサピエンスのトップ集団さんは、満足できないのだろうね。
賢い賢い賢いはずの人が、その道を上り詰めてきたはずの人が、しかし、やっていることは、愚かな愚かな愚かな戦争である。
人をどれだけ殺しても、悔いない。殺された人の側に責任が有ると言って、己の落ち度も認めない。
それくらいがトップ賢者の判断の枠内だ。
行き着いたところがそこだ。
賢いっていうのは底が浅いなあと思う。
それなのに、人は賢くなりたいなりたいと言う。賢者のその道をまっしぐらに進もうとする。
そして、自己を利益するだけで終わる。
利益を蒙らないでいる人たちに向かって威張る。罵倒する。暗い冷たい視線を浴びせかける。
☆
いやいや、そういう見方は歪すぎるかも知れない。
ほんとうの賢者がいて賢い生き方に徹しているのかもしれない。