<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

加害の側も被害の側ももうすぐ死ぬ身

2017年11月30日 19時53分03秒 | Weblog

打つ人も打たるる人ももろとも如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)       良寛禅師

露のように短い一生を生きているわたしであって、あなたである。雷電のように一瞬を生きているわたしであって、あなたである。こういう考え方に立てば腹も立ちません。すべてはあっという間に過ぎたことですから。あなたはわたしを打ち据えました。わたしはあなたに打ち据えられました。ただそれだけのことだったのです。

この日、月夜の月の下、良寬様は芋畑の中をお歩きになっておられました。そこへ芋畑の主がやってきて、良寛禅師を泥棒とみて捕まえ、穴の中に落として棒で打ち据えました。良寬様は打たれるままになっておられました。そしてしまいに、その声を聞いて良寛禅師だと分かり、平謝りに謝りました。そのときの歌が此の歌です。

加害した側も被害した側もどちらとももうすぐ必ず死ぬ身なのです。それを知っていれば憎しみを湧かせても詮ないこと。良寬様は身繕いをすませるとまたすたすたすたと立ち去って行かれました。

如露亦如電 応作如是観。にょろやくにょでん おうさにょぜかん 露の如く亦電の如し。まさに是の如き観を作すべし。禅の諦観である。良寬様はご自分にそう言い聞かせられたのでしょう。

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明日はもっと明るい発想をして過ごしたい

2017年11月30日 17時26分55秒 | Weblog

無能力者さぶろうは何度も何度も赤恥の中を歩く羽目になった。その個々のシーンの一コマを思い出すだけで身震いしてしまう。そしてそのシーンが無意識的に自発して浮かび上がって来る。トラウマのようなものかもしれない。そこでストップ! もういいもういい、もう思い出したくない、そう呟く。しかし、それが執拗に頻発する。

赤恥の中を通る。それを頭を抱えてなんとかかい潜(くぐ)る。潜ることが出来てほっとする。他者のように、圧倒する力に恵まれてなかった。腕力にも智力にも体力にも剛力にも、才能にも手腕にも。弱々しい男であった。それでよくこの長い人生を渡ることが出来たものだと思う。それだけ、萎縮した、いじけた人間になった。それを撥ね返すバネは作られないで、老いた。

他を圧倒する力に恵まれていたら、と思う。圧倒する力を誇ることができないのであれば、代わって忍耐心というものが芽生えてそれが強靱になっていればよかったのかもしれない。さぶろうは、それをそうせず、逃げて退いて、暗い穴に閉じ籠もった。そして己の無力を恥じて赤面した。それをただ繰り返すだけのつまらない男であった。

・・・さぶろうは今日はそんなことをひょいひょいと思う羽目になった。理由はない。失策、失敗の連続だったように思う。明日はもっと明るくなりたい。明るい発想をして暮らしていたい。

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魚屋さんの店先で手がひゅるひゅる延び出した

2017年11月30日 16時22分15秒 | Weblog

日が落ちたらさすがに寒い。だろうねえ、明日から12月だもんね。無理もない。

昼前に畑に出た。野菜苗を、育苗プランターから、耕して柔らかくした畑に、移植した。丸椅子に腰掛けてそろりそろり。そのうち、成育して食べられるようになるだろう。途中適宜施肥をしながら、一月(ひとつき)二月(ふたつき)待つことになる。霜が下りて雪に埋もれるようになるとおいしくなる。

炬燵に入って蜜柑を剥いて食べている。こうすうるといかにも冬が来たという感じになる。

今夜は海鼠だ。魚屋さんの店先に列んでいた。手がひゅるひゅる延びてしまった。大根を摺り下ろす。酢と醤油を垂らす。箸に掬って、ちびりちびり晩酌の肴にする。日本酒の熱燗がさぞかしうまいだろう。

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ここはチャンポン屋さん 一人でぶらりと

2017年11月30日 12時34分49秒 | Weblog

ここはチャンポン屋さん。お昼を食べに来た。一人でぶらりと。お昼時だから、客で溢れている。働いていないのだから、お昼を外してくればよかったのだ。朝が軽くパンですましたから、空腹して、混雑に列んだ。見渡すと若い人が多い。

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お天道様に詫びなければならないような気がする

2017年11月30日 10時41分06秒 | Weblog

明日は12月1日。早いなあ、月日の巡りが。もう歳末なのだ。

わはは、この老爺は年中ぐうたらぐうたら。これで暮れていく。いい気なもんだ。

今日はまだ寝間着を着替えても居ない。爪も伸びている。爪の中には黒いもの。土いじりの土が残っている。

誰とも遊ばない。こちらからは接点を作らない。理由は? 面倒臭い。機嫌を伺って挨拶するのだけでも面倒臭い。オレはオレで通すのが気楽だ。だが、そういう暮らし方は決していいことには思えない。人とは協調して暮らすべきだ。仲良くしているべきだ。それができない。気難しがる。

こっちは人をおんぶしていない。人におんぶされているだけだ。そしてそれを知らない。おんぶされていることを知らない。人をおんぶしていないことを楽だと思い込んでいる。片手落ちで、ぞんざいである。

それでも、明日は12月1日かあ。なんだか済まない気がする。お天道様に詫びなければならないような気がする。

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よおし、ロングヘアにしちゃうぞ バッハのような

2017年11月30日 10時05分58秒 | Weblog

わが全身脱毛症に変化あり。顎髭の山羊鬚がこのところゴマ塩で伸びてくるようになった。カミソリを当てることもある。いい方へ向かっていると、勝手に解釈する。

この調子で、頭髪がニョキニョキ生えだして来たら、よおし、ロングヘアにしちゃうぞ。といっても、つるつるの禿げ頭にはまるっきり変化なし。つるんつるんしている。

 

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明がはっきりするための暗だったのか

2017年11月30日 09時47分39秒 | Weblog

明暗の明たらしむる暗の海 悲心といふは深き海なり       薬王華蔵

明暗。明と暗。これはセットになっている。明の単独では存在できない。暗だけでは存在できない。暗の中にしか明が見えて来ない。その逆も。明がはっきりするためには、暗が不可欠だ。暗がその暗さを増すことでしか、明に辿り着けない。暗い海の上に朝の日が昇って来る。仏の大悲心というのも、この配当を免れない。深い深い暗部の海が広がっていて、そこにお慈悲の明るさが見えて来る。とりわけ、わたしのような無明者には、明だけで明を見て取る能力はない。仏陀の慈悲だけで慈悲に感恩することなどはあり得ない。日々の我が暮らしの暗さを暗がるな。思い通りに行かぬその悲しみを悲しみとするな。その背後にあるものを忘れるな。暗の海にしか光輝く朝の日は昇ってこない。そこを経て、またそこを経て、わたしの手漕ぎのボートは進む。

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生きているよろこびを触れ合わせる

2017年11月30日 09時38分28秒 | Weblog

現在といふ時間しかありませぬ 生まれて生きて風が触れあふ       薬王華蔵

過去は現在の影に過ぎない。未来も現在の返照である。わたしに有るのは一点の現在だけである。その現在をどう生ききるか。どうよろこぶか。夏風が草原に生まれている。風が生き生きと生きて、触れ合っている。風だけではない。わたしもあなたに触れ、あなたもわたしに触れ、触れ合う。生きているよろこびを触れ合わせる。いましかありませぬ。現在のわたしには此処という現在しかありませぬ。

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仏の祈りがわたしに出遭って完了した

2017年11月30日 09時31分30秒 | Weblog

阿弥陀如来 来化(らいけ)して、息災延命のためにとて、金光明(こんこうみょう)の寿量品、説き起きたまえるみのりなり。      親鸞聖人 浄土和讃中「現世利益和讃」その第一

来化(らいけ)とは、法身仏である阿弥陀如来が、この物質世界にまで来て、人の姿を取って化(ば)けるということ。誰に? お釈迦様に、である。そして金光明経という経典を説き起こしてくださった、というのである。ただただ衆生が息災であらんことを念じて。息長く延命することを願って。それでわたしの今が実っている、という筋書きである。わたしは金光明経という経典の在処を知らない。阿弥陀経や無量寿経の経典だろうと理解していた。

仕組まれているのである。わたしがこの現世でさまざまな利益を受け取れるように、用意周到に仕組んである、というのである。わたしが現世を生きるようになるまでに、こうして現実の暮らしをするようになるまでに、実は地中深くに壮大な歴史が横たわっている、と和讃は説き起こしている。阿弥陀如来のお慈悲を頂き、釈迦如来のご苦労に与り、金光明経を説き起こさせて、その永い永い鎖をつなぎ合わせて、わたしに届いている、親鸞聖人はそんなふうに和讃を書き連ねている。

現世の利益を祈らないというのが浄土教の趣旨である。先に阿弥陀如来に祈られているのだから、こちらからの祈りをしないですむはずだ、と説いている。「仏の祈りがわたしに出遭って完了している」「それが現世の利益(りやく)だ」と受け取るのである。

 

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今朝は気分一新して グッモーニン

2017年11月30日 08時51分41秒 | Weblog

グッモーニン。今朝は気分一新して異国の言葉で朝の挨拶。異国の挨拶言葉を口にしても、でも、日本人であることには変わらない。

雨は上がっているのだが、冴えない。ぱっとしない。ぐずついている。また降り出すのかも知れない。空が鉛色だ。押し潰されそうな気さえする。

雨が降り出さないのなら、畑に出て土いじりをしたい。プランターに蒔いた種が発芽して若者に成長を遂げている。プランターの中では手狭だ。広々とした畑に植え替えてあげねばならない。数種類の野菜の種を蒔いておいたのだから、忙しい。庭も畑に早変わりしている。

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