元号が改まりました。今日午前10時には新天皇が即位されます。平成の天皇様は上皇に、皇后様は上皇后様になられます。新元号は令和となりました。国中がお祝いムード一色ですね。平和でこころ豊かな時代の幕開けとなって行くことでしょう。
雨は小降りになっています。気温は低いので、あたたかい炬燵の中に入っています。
昨日夕方客人が訪ねてこられました。お祝いの赤白餡餅を届けて下さいました。新しく摘んだ蓬で蓬餅も作ってありました。でかいです。それを2パックも。さっそく、夕食においしく頂きました。
元号が改まりました。今日午前10時には新天皇が即位されます。平成の天皇様は上皇に、皇后様は上皇后様になられます。新元号は令和となりました。国中がお祝いムード一色ですね。平和でこころ豊かな時代の幕開けとなって行くことでしょう。
雨は小降りになっています。気温は低いので、あたたかい炬燵の中に入っています。
昨日夕方客人が訪ねてこられました。お祝いの赤白餡餅を届けて下さいました。新しく摘んだ蓬で蓬餅も作ってありました。でかいです。それを2パックも。さっそく、夕食においしく頂きました。
6
仏道に近づいたというが/馴染んだだけよ/終南山は仏道に励む人たちの集まるところ/そこへ行って友人の家を借りたのよ/仏道を歩もうという気が起こったら、そこへ行ってみるんだ/ところが終南山は風景がよくってね/うっとりしてしまって/水の流れる谷川へ行っては/腰を下ろして雲を見て過ごす/すると樵夫の翁が通り掛かってお喋りになるんだ/なんてことはないただのお喋りなんだけどね
王維はちっとも気負っていない。
そうか、詩は気負うことでもないのか。
5
こうして王維の詩を読んでいると、わたしは慰められる。詩を感じているのだろう。王維の詩を読んで詩を感じないとすれば、感じない方に責がある。でも、そうも言えまいけど。
何度も何度も声に出して読んでいると少しずつ、その場の風光や作者のこころの動きが滲みだしてくるようにも思えて来る。時代も、住んでいる国も違うのだが、それが違っていないような勘違いが起こっても来る。わたしは、ただ詩に馴染んでいればいいのである。
4
中歳とは幾つくらいの年齢なのだろう。三十歳あたりか。晩年はそれから十年過ぎた頃、四十歳あたりか。勝事は、自然界の勝れた処、美しい風景。南山は中国にある終南山の異称。仏道と所縁が深いところだろう。「空しく自ら知る」の「空しく」は、「ひっそりと」の意に取ってみた。
王維の詩に取り上げてあることはほぼこんなこと。書いた王維は、此処に詩を感じている。感じていなければ、詩は出来上がらない。じゃ、読んでいる人はどうか。詩を感じ得ただろうか。わくわくしただろうか。人生意気に感じて、むくむくしただろうか。詩は万人の胸を打つ。
3
壮年になってからだがいささか仏道に心牽かれるようになって、晩年には終南山の陲(ほとり)に別業の家を設けた。感興が起こるといつもそこへ独りで出掛けて行った。自然の勝れた風光を見てはひっそり自らで観賞し、ぶらぶらと谷水の流れるところまで行っては腰を下ろす。そこで雲が湧き起こってくるのを見ていると、偶然にも樵夫(きこり)の老人にばったり出会って、談笑しているともう還るときすら忘れてしまうのである。
1
「終南別業」 王維
中歳頗好道 晩家南山陲 興来毎独往 勝事空自知 行到水窮処 坐看雲起時 偶然値林叟 談笑無還期 都留春男 注「中国詩人選集6 王維」より
2
(中国詩人選集6の都留春男注を参照しながら、王維の詩を鑑賞する。)
中歳より頗る(仏の)道を好み/晩(年)には南山の陲(ほとり)に家す/興 来たれば毎(つね)に独り行き/勝事には空しけれども自ら知る/行きて水の窮まる処に到り/座して雲の起こるを看る時に/偶然にも林叟に値(あ)って/談笑しては還る期(とき)無し
4
(これはわたしの解釈です)
つまり「永遠を生きている仏」となっているのだ。阿弥陀仏のみならず、そこに生きる人民も。 空間的にも時間的にも限りがないのである。これを遮るものがないのである。妨げるものがないのである。
そういう世界を仏と我等が生きているということである。無限世界を両者が生きているというのである。無量無限の不可思議世界を生きているのが、我等であり阿弥陀仏だというのである。我等は阿弥陀仏との差別もない、平等世界を生きているのである。
3
(これはわたしの解釈です)
光の仏さまが阿弥陀仏である。十方の国を照らすほどの明るい光だから、とても我等人間の眼には見えていない。己の意識で捉えることもできない。光は万物育成の光であり、万物救済の光である。そういうハタラキを持っておられるのだ。
命の仏さまが阿弥陀仏である。命はハタラキを主宰する。光を放って万物を育成するハタラキと万物を救済するハタラキを主宰しているのが寿命の命である。このハタラキは仏にも具わっているが、この仏に生きている人民にも具わっている。
2
「シャーリプトラよ、どうしてこの仏さまを阿弥陀仏と申し上げているか、あなたは知っていますか」 そういってから、ご自分でそれをお答えになられた。
それはこの仏の放たれている光明が不可思議無量であるからだ。光明は十方の国々を照らして、これを妨げるものがない。だから阿弥陀仏(=無量光仏)と申し上げているのだ、と
「またシャーリプトラよ、このみ仏の寿命と、この仏の国に住んでいる人たちの寿命が、不可思議無量で、限りなく続いて行く故に、阿弥陀仏(=無量寿仏)と申し上げているのだ、と。
1
彼(か)のみ仏を何故に阿弥陀と号すべしや シャーリプトラよ、彼のみ仏の光明は無量にして、十方国を照らして、障碍(しょうげ)するところなし。是(こ)の故に号して阿弥陀と為したてまつる。又、シャーリプトラよ、彼の仏の寿命及び其の人民(の寿命)は、無量無辺阿僧祇劫なる故に、阿弥陀と名づけ申し上げる。シャーリプトラよ、阿弥陀仏は成仏已ってより来(こ)の方、今に於いて十劫なり。
浄土宗系統の経典「仏説阿弥陀経」より