「宇宙は健康である」
病を患った人を治療することを
我が国では「手当する」と言う
手を当てて繋がることだ
個は不安定になりやすい
でも全体はいつも調和している
不安定をおぼえたらそこで
全体の調和に繋がればいいのだ
調和の宇宙は健康である
宇宙の健康と繋がっている人が
繋がりが切れた人に手を当てる
これで繋がりが回復する
繋がったら元気になるのだ
爽やかな秋空が広がっている
秋空に手を当てて
自力で宇宙の健康に
繋がることもできるのだ
手は送受信のアンテナである
*
宇宙は調和をしている。秩序を保っている。従って、宇宙は全体健康である。ここへ繋がっていることができる。
ここへのアクセスを亡失して不安定になることがあるが、そういうときには再度アクセスをこころみればいいだけである。
連結すれば宇宙の健康はわたしの中へ即座に注入されるであろう。こちらが一方的に切断をしていただけなのだから。
*
それでそのアクセスの方法なのだが、これは意外にもシンプルなのである。その意思を形に表せばいいのである。
空に手を伸ばして空の健康に接続する。裸足になって大地に接触する。そうすれば入力と出力が同時に再開するだろう。これでいいのである。
あるいは瞑想という手段もあるだろう。「わたしは宇宙の健康に繋がります」と思想して両者の健康を思い描く。うまく運んだことを思い描いて悦にはいる。
*
あるいは呼吸法があるだろう。呼吸は入我我入(にゅうががにゅう)の具体策である。「入る」の主語と目的語は、宇宙の健康、宇宙の調和である。宇宙のダンマである。わたしを生かし続けているダンマ=宇宙の快適法則である。もっと簡潔表現すればこれは「ブッダ」である。
息を吸うときにはブッダがわたしに入ってきてわたしを満たしている。
息を吐くときにはわたしがブッダに入っていってブッダに満ちる。
吸って吐いて吐いて吸って、そのどちらの時にもわたしは宇宙の健康、宇宙の調和と合体をしているのだ。
*
これは息をすることだけにはとどまらない。
生まれて来ることは息を吸うことに相当するし、死ぬことはブッダの宇宙に生まれて行くことだから、息を吐くことに相当する。やはり入我我入の法則に変化はない。
生きても死んでもブッダないしはダンマと接続が持続しているのである。
病を患った人を治療することを
我が国では「手当する」と言う
手を当てて繋がることだ
個は不安定になりやすい
でも全体はいつも調和している
不安定をおぼえたらそこで
全体の調和に繋がればいいのだ
調和の宇宙は健康である
宇宙の健康と繋がっている人が
繋がりが切れた人に手を当てる
これで繋がりが回復する
繋がったら元気になるのだ
爽やかな秋空が広がっている
秋空に手を当てて
自力で宇宙の健康に
繋がることもできるのだ
手は送受信のアンテナである
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宇宙は調和をしている。秩序を保っている。従って、宇宙は全体健康である。ここへ繋がっていることができる。
ここへのアクセスを亡失して不安定になることがあるが、そういうときには再度アクセスをこころみればいいだけである。
連結すれば宇宙の健康はわたしの中へ即座に注入されるであろう。こちらが一方的に切断をしていただけなのだから。
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それでそのアクセスの方法なのだが、これは意外にもシンプルなのである。その意思を形に表せばいいのである。
空に手を伸ばして空の健康に接続する。裸足になって大地に接触する。そうすれば入力と出力が同時に再開するだろう。これでいいのである。
あるいは瞑想という手段もあるだろう。「わたしは宇宙の健康に繋がります」と思想して両者の健康を思い描く。うまく運んだことを思い描いて悦にはいる。
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あるいは呼吸法があるだろう。呼吸は入我我入(にゅうががにゅう)の具体策である。「入る」の主語と目的語は、宇宙の健康、宇宙の調和である。宇宙のダンマである。わたしを生かし続けているダンマ=宇宙の快適法則である。もっと簡潔表現すればこれは「ブッダ」である。
息を吸うときにはブッダがわたしに入ってきてわたしを満たしている。
息を吐くときにはわたしがブッダに入っていってブッダに満ちる。
吸って吐いて吐いて吸って、そのどちらの時にもわたしは宇宙の健康、宇宙の調和と合体をしているのだ。
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これは息をすることだけにはとどまらない。
生まれて来ることは息を吸うことに相当するし、死ぬことはブッダの宇宙に生まれて行くことだから、息を吐くことに相当する。やはり入我我入の法則に変化はない。
生きても死んでもブッダないしはダンマと接続が持続しているのである。