<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

宇宙は健康である

2013年11月23日 09時24分03秒 | Weblog
 「宇宙は健康である」

病を患った人を治療することを
我が国では「手当する」と言う
手を当てて繋がることだ

個は不安定になりやすい
でも全体はいつも調和している
不安定をおぼえたらそこで 
全体の調和に繋がればいいのだ

調和の宇宙は健康である
宇宙の健康と繋がっている人が
繋がりが切れた人に手を当てる
これで繋がりが回復する
繋がったら元気になるのだ
             
爽やかな秋空が広がっている
秋空に手を当てて
自力で宇宙の健康に
繋がることもできるのだ
手は送受信のアンテナである
                                                    *

宇宙は調和をしている。秩序を保っている。従って、宇宙は全体健康である。ここへ繋がっていることができる。

ここへのアクセスを亡失して不安定になることがあるが、そういうときには再度アクセスをこころみればいいだけである。

連結すれば宇宙の健康はわたしの中へ即座に注入されるであろう。こちらが一方的に切断をしていただけなのだから。



それでそのアクセスの方法なのだが、これは意外にもシンプルなのである。その意思を形に表せばいいのである。

空に手を伸ばして空の健康に接続する。裸足になって大地に接触する。そうすれば入力と出力が同時に再開するだろう。これでいいのである。

あるいは瞑想という手段もあるだろう。「わたしは宇宙の健康に繋がります」と思想して両者の健康を思い描く。うまく運んだことを思い描いて悦にはいる。



あるいは呼吸法があるだろう。呼吸は入我我入(にゅうががにゅう)の具体策である。「入る」の主語と目的語は、宇宙の健康、宇宙の調和である。宇宙のダンマである。わたしを生かし続けているダンマ=宇宙の快適法則である。もっと簡潔表現すればこれは「ブッダ」である。

息を吸うときにはブッダがわたしに入ってきてわたしを満たしている。
息を吐くときにはわたしがブッダに入っていってブッダに満ちる。
吸って吐いて吐いて吸って、そのどちらの時にもわたしは宇宙の健康、宇宙の調和と合体をしているのだ。



これは息をすることだけにはとどまらない。

生まれて来ることは息を吸うことに相当するし、死ぬことはブッダの宇宙に生まれて行くことだから、息を吐くことに相当する。やはり入我我入の法則に変化はない。

生きても死んでもブッダないしはダンマと接続が持続しているのである。                                                                                                                                                                                                                                                                
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ふやふや ふにゃにゃ

2013年11月19日 06時58分38秒 | Weblog
「ふやふや」は、「ふわふわ」とも違う。

でも、「ふ」が軽いので、どこか浮いている。「ふんわり」に近い。

「や」はやわらかで、安らげる。

軽くてやわらかでやすらげるのが、「ふやふや」。

「ふにゃにゃ」は、にゃにしているのかわからないが、やっぱり軽くてそこらに浮かんでいる。

わたしのスピリットの今朝は、ふやふやしていて、ふにゃふにゃしている。

でも、なんとなく腑に落ちる。(腑は臓腑=はらわたであって、しかもこころである)



小雨が降っているからだろうか。秋の雨は時雨。もうすぐ止むのかもしれない。

窓の外が明るくなってきた。



ふふふ。わたしのスピリットのことが気になるのだ。

わたしとスピリットがどんな関連なのか分からないけど、ともあれふんわり包み込んで大事にしていたいのだ。
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今日おのれは永遠を生きているのだ

2013年11月17日 06時55分32秒 | Weblog
永遠を流れているいのちの帯の川は流動体なので、

今日だけの位置を限定することはできないのだ。

今日のおのれは、永遠を今日にして生きているのだ。

さもしくあるな。ひもじくしているな。寂しい目をしているな。

永遠のいのちの帯の、水に足を浸しているときには、

それはあとさきの両方の方角に足を浸していることになるのだ。

いのちを貧乏だと軽んじるな。ぶつぎれにするな。

見ないでおいて、見た気になるな。値踏みをするな。

夜が明けた。空が白々としてきた。

光が空をバタフライで泳いでくるので、光の飛沫があがっている。

それが色彩をかがやかすので、おのれはぶつぎれなんかしていない今日の、

その永遠のいのちに融け出してみる。

おのれは今日まちがいなくしたたかに永遠を呼吸しているのだ。
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あなたを口にあてる

2013年11月16日 10時41分50秒 | Weblog
ふふうふふ ふふを含める口へ手を あなたをあててをりぬ しばらく   炬撫よぶ



あなたの手をわたしの口にあてていたから、うふふになったのか。

うふふを口に含んだからあなたの手がほしくなったのか。どちらからだったかは分からない。

しばらく、わたしはそうして時を過ごした。

空虚の口を塞ぐのは人の手なのだ。
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おでいげは「淤泥華」と書きます

2013年11月08日 13時25分53秒 | Weblog
「おでいげにおいでおいで」の「おでいげ」は「淤泥華」と書きます。

「淤泥」はどちらも泥土のようです。

「淤泥華」は、ですから「泥の華」「泥土から茎を伸ばして咲く白蓮華(プンダリーカ)をあらわしています。

法華経は法の蓮華の経典です。

泥土はこの世の苦悩の実態を言っているようです。

苦悩を、むしろ栄養物として成長するプンダリーカに、仏教徒の生き様を重ね合わせているのかもしれません。

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1000年後を生きられるか

2013年11月07日 15時07分33秒 | Weblog
1000年後になれば
わたしはここにいません

今現在で偉い人もそうでない人も
豊かな暮らしをしている人も貧しい人も
威張っている人も威張っていない人も
人を恐がらせて凄(すご)んでいる人も
自信がなくて怖じけて怯(ひる)んでいる人も
みなひっくるめて
1000年後にはここにはいません

埋めてもらっておいた骨すらも
もうあらかたはなくなっています
噂話の対象にもなることは稀でしょう

でもそこに時間だけは
間違いなく流れているはずです

タイムマシーンを使って
1000年後の未来に移動して行くことが
できるようになっているかもしれませんが
たといそうなっていたとしても
それは1000年後の未来に生きている人たちに限られます

わたしたちにはいまのところ打つ手はありません
死んだという形容詞の状態を永続しているほかはありません



でも
いまこのときを
濃縮して1000年分生きるという方法は残されています

どうやって?

時間の濃くするのです

どうやって?

瞑想をすることでもって

瞑想は
死を体験する肉体ではありません
死を受け入れる物質ではありません
ですから死に絶えることがありません

1000年分の瞑想をすることで
瞑想は生き延びます



1000年分の瞑想は深い深い瞑想です

空海は
高野山奥の院で
いまも
これをやっているとされています

空海という先例があります
空海は有能であったからできたのだ
と言うかもしれませんが
これは学習できるかもしれませんし
空海もまたわれわれに学習をさせようとしているのだと考えます



ではどんな瞑想をするべきか



ふふ

これが肝心なことですが具体策を示すことはできません



時間を拒否すること

未来を現在にして包括してしまうこと

時間の概念を外してみること

個を離れて永遠と連結すること

こんなヒントを思いつきました
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