雨。雨の日。小雨。雨の雫の音が聞こえる。寒い。コタツに足を延べて、ジャンパーを着込んで、手袋をしているのに、寒い。今日明日は雨になるらしい。畑仕事は出来ない。
新聞2紙の読者文芸に投稿する詩の作品は、4篇書き上げた、どうにか。うち2篇を投稿する。2月になってから。
退屈を覚えている。どっかに出掛けることにした。何処へ?
山の上にある佐世保世知原温泉ホテル「山暖簾」に行ってみようか。空いていたら、泊まって来ようかな。何年ぶりだろう。伊万里市経由で、2時間半はかかりそうだ。
雨。雨の日。小雨。雨の雫の音が聞こえる。寒い。コタツに足を延べて、ジャンパーを着込んで、手袋をしているのに、寒い。今日明日は雨になるらしい。畑仕事は出来ない。
新聞2紙の読者文芸に投稿する詩の作品は、4篇書き上げた、どうにか。うち2篇を投稿する。2月になってから。
退屈を覚えている。どっかに出掛けることにした。何処へ?
山の上にある佐世保世知原温泉ホテル「山暖簾」に行ってみようか。空いていたら、泊まって来ようかな。何年ぶりだろう。伊万里市経由で、2時間半はかかりそうだ。
老人のわたしには、行くところが見つからない。
温泉に行くくらいだ。
*
で、牛津の天然温泉「津の里温泉」にまた行って来ました。3日前に行ったばかりなのに。
湯の温度が熱い。56℃くらいの湯が湧いているらしい。
入湯料520円。公共温泉だから安かった。
*
わたしと同じように、行くところが見つからないのだろう、(失礼失礼!)同年配くらいの老人達が、10人ほど、湯船にものも言わずじいっとして入っていた。
わたしも体が十分あたたまるまで、じいいっとして、湯に入っていた。楽しんだ。
*
温まったら、体を洗った。湯船の客が多すぎて、もう一度湯に浸かるのは諦めて、上がって来た。
屋上に露天風呂岩風呂があるが、階段を上がらねばならないので、諦めた。
屋根の霜は解けた。10時40分。でも、室内は寒い。軍手の手袋をしてパソコンのキーを打っているが、寒くて、両手を、ときどきコタツの尻の下に敷いてあたためねばならない。
書かねばならないと焦っているが、詩の投稿作品はまだ書き上がらない。山の麓をうろうろ走り回っているって感じだ。助けのミューズ神はまだ現れて来ない。詩の赤ん坊を懐妊しない。
新聞投稿する詩分野の作品を書き始めている。月初めに投稿をする。
今日午前中いっぱい掛かって、うんうん唸って、やっと1作品を書き上げたが、満足できていない。
詩の神が、宇宙銀河からわたし目掛けて飛んで来て、乗り移って、力を貸し与えないと、書けない。だからそれまで待つことになる。待つ間が長い。長いが待つ。
神は憑依する。見えない神は、見えるものに憑依することで、力を発揮することができる。詩を書いていないときでも、それは同じだ。多かれ少なかれ、パワーをもらっている。誰もが支援を受けているのだ。
で、書き上がった作品を見て、「こんなものおれには書けない」と実感するときに、いい作品が仕上がっている。50~90%は神の力が注入されているから、まあ一種の「神がかり」作品のようなものだ。
いや、おれはおれの力で書く。などと強がることもあるが、失敗作になることが多い。傲慢になるだけだ。
*
詩を書くときに限らない。すべてがそうかもしれない。大いなるものの、大いなる力を、分けてもらって、それを我が物顔して、生きているのかもしれない、我我は誰もが。
高菜の塩漬け一夜漬けが、僕ほどに好きな人も少ないだろう。漬けてから三日四日したら出来上がる。それを水洗いして、辛い唐辛子刻みを捨て、刻んで、水を幾らか絞って塩分調節をして、一回分ずつラップに包んで、冷蔵庫保冷しておく。
それを朝ご飯の白いご飯に載せて食べる。薄く刻んだ鰹節を混ぜ、醤油を垂らして。おいしいおいしいを言いながら食べる。
一夜漬け用の容器が空になったらすぐに次の高菜を漬ける。高菜は前日に畑から抜いて来て、洗って、一日干しておく。
家内は塩分摂取を嫌ってあまり多くを食べない。僕は塩分摂取量なんかちっとも気にしていない。死ぬときはどんな病気予防をしていようと、いまいと、死ぬ。死ぬべきだから死ぬ。そんなふうに横着を決め込んでいる。
16時半、そろそろ日暮れ。もう日暮れ。風がぴたっと止んでいる。
もらって来た朝日新聞日曜版の「朝日俳壇」「朝日歌壇」を、念入りに読んで、自分に分かる平易な作品に、赤丸をつけて、しばらく作品群の中を行ったり来たりして遊びました。
俳壇も歌壇もどちらも4人の選者がいます。選んだ作品がそれぞれ違っていて、なるほど選者次第なんだなと、面白く思いました。ダブル入選は○印がありました。
*
友人宅へ我が家の畑で収穫して、保存しておいた薩摩芋をどっさり運びました。彼も栽培しているけれど、食べ尽くしたというので、運んで行きました。
それから彼の案内でユメタウンに行って来ました。彼が勧めるあったか寝具(軽めの化繊の布団と毛布)を買って来ました。3割引になっていました。今夜からこれを使用します。
1
わたしはわたしをないがしろにしたくありません。わたしは<仏様に大切にされている存在>だからです。
2
わたしは仏様に大切にされている存在だから、けっしてつまらなくはないはずです。
3
日常、つまらないことを思い、且つはつまらないことをしていますが、つまらない存在ではないはずです。
4
お日様がわたしのところまで来て、なにしろ、わたしを明るく輝かせているのですから。それだけでも価値のある存在です。
5
1月29日、月曜日、まもなく正午。春の大空が広がっています。つまらないわたしであれば、わたしはおだやかな春の大空を仰げないはずです。
6
わたしの鼻先に空気が届けられて来ます。わたしが吸うだけの空気をいつも届けてきます。届けて来るのは、わたしを大切にしているからです。肉体をもらっているのも同じ理由からです。
7
そんなことを今日は考えていました。阿弥陀仏に願われているわたし。毘盧遮那如来に加護されているわたし。ガンジス川の砂の数ほどの諸仏に導かれているわたし。そう考えていると自己肯定が深まります。元気なこころになります。
ぽっかりぽっかりになりました。みんなみんなお日様のおかげです。
地球に生命が生きられるようにしてくれているのもお日様です。
お日様に、そうしようとする意思・こころ・願いがあったから、こうなっているのではないか。そんなことをふと思ってみます。
で、お日様の意思・こころ・願いはどこまで続くのだろうか? これも疑問です。
生命がここで生きられるというそこまでの段階なのか、それともそのさきにもそれが続いているのかどうか。
つまり、生命体のわたしが死んだあとでも、なお、お日様のような大きな意思とこころと願いが、途切れなくずっとずっと続行く行く、という恩寵がありそうにも思えて来るのです。なにしろお日様はとてつもなく巨大だから。ハタラキも巨大ではないか、と。
でもいささか凭れ過ぎかもしれませんね、お日様にそこまで要求するのは。
もうすぐ午前10時になる。あんなに分厚く張り巡らしていた屋根瓦の霜が、解け出している。お日様のハタラキは偉大だ。部屋のエアコン暖房もオフにしよう。
ベランダの洗濯物干しの白銀のポールが、朝日を受けて、きらきらきらきら輝いている。目にまぶしいほど。
光の輝き単位だとどれくらいなんだろう?
暗黒の闇を、闇でなくするために光がある。光によって光の世界になれる。わたしがそこに暮らすことができている。光の貢献度合いはまことに大きいなあ。
今日はユメタウンに行く。友人が誘ったので、そうする。寝具を物色しに行く。友人曰く、軽くて柔らかくて温かくて、安い羽根布団があるそうな。友人もそれを買って使っているそうな。それでわたしにもしきりとそれを勧めている、というわけだ。
毎晩寒い寒い寒い夜を過ごしている。ふっくらした羽布団、毛布2枚、電気行火のお世話になっている。
買うかどうかはわからない。値も張るだろうし。ま、とにかく出掛けてみることにする。(我が家の大蔵省家内大臣は不要な支出には厳しい注文がつく)