時間のありったけを自分のために向けておくって随分と贅沢。だよね。だよ。時間はできるだけ人のために向けておくようにと教えられて来たのだが、今夜はそれをそうしないでおく。それをそうしないでありったけの時間をただただ自分のために向けておく。こうして時間の毛布にふかふかとあたたまる。大地の毛布、天空の毛布と毛布が三枚ある。背中と足と胸にこれを広げてあたたまる。一億年かかってやっと人間になった自分、いまここにいる自分という固形物を粗末にはしないぞ、捨て鉢にはしないぞ、疎かにはしないぞということを、こうやってデモンストレーションして言い聞かせる。
夜、ひょいと客人がやって来た。さぶろうはもう夕食をすましていた。残りの料理で客人と酒を飲んだ。元気を確かめ合いあれこれ語り合った。こうやってひょいと訪ねて来てくれる人がいることを有り難く思った。長くはいなかった。しばらくして去って行った。台所のフロアーにこぼれた笑みを集めて花束にして花瓶に挿しておきたくなった。
また雪が舞っている。風が舞っている。斜めに煽られてちらちらちらちらしてる。気温は5度を割っている。電柱工事の人たちが震え上がっている。新車のフロントガラスが雪に汚れて行く。白い雪なのに、こうして見ると穢い色をしていることが分かる。
午前中に新車を受け取りに行った。2時間ほどもいろいろ説明をしてもらった。あれこれこれまでにはない新機能が加わっていた。任意保険にも切り替えた。新しい家族が出来た。嬉しくてわくわくした。「今日からよろしくね」を車の耳元に呟いた。車屋さんが花束のプレゼントをしてくれた。
さぶろうはドライブが好き。遠距離も嫌がらない。全身麻痺をして寝たきりになったときにはすべてを諦めていた。ところがその後長いリハビリがなって、思いがけず車の運転が出来るまでになった。これは嬉しかった。活動半径が大きく広がった。新車は乗り降りがし易いように座席がうんと高くなっている。
しかし、いかんせん老人である。大事にして慎重に、愛情を込めながら、スピードは控え、注意して乗ろうと思う。障害者マークを買って来て貼り付けた。
それから市役所に行って高速道路のETC切り替え手続きをしてもらった。
大きな買い物をした。5年間返却のローンを組んだ。贅沢と言えばこんな贅沢もない。まるでこれからを生きる若者みたいだ。若者の気分に肖(あやか)ろう。これで溌剌となろう。元気を涌かす。
お昼になった。チャンポン屋さんに来ている。客がたてこんでいる。家族連れが多い。一人はボックス席だ。厨房を眺めて待つことにする。9人が働いている。そのうち女性が5人。あ、できあがっぞ。運ばれて来た。うまそうだ。
ここを楽しめばいいのだ。今を楽しめばいいのだ。自分を楽しめばいいのだ。そう言って聞かせる。頷いてみる。
楽しめるものなどないといってそっぽを向いているが、ほんとうにそうか。横柄な面構えをして嘯くことに長けて来たが、横柄なだけではないのか。
せっかく自分になったのに、その自分は軽く見て蔑んで、よそばかりに目が向いている。自分にやさしくしていればいいのではないか。自己尊重をしてやれば喜ぶのではないか。
楽しむものは未来にしかない、といってきかないが、ほんとうにそうか。此処ではない此処ではないと否定を繰り返しているが、もうそうやってどれくらい長く歩いて来たことだろう。
思い込みは捨てよう。今日は日曜日。日も射している。梅が匂ってきている。春が近い。ここを楽しめ、今を楽しめ、この自分を楽しめ。命令形で語りかけてみる。
金柑の甘煮ができあがった。砂糖たっぷりの。もちろん作ってもらったもの。食べてみる。甘すぎず、ちょうどいい。大粒である。これはさつま路の道の駅で買ったものだ。糖度18度としてあった。我が家の庭の金柑はおいしい実をたくさん実らせていたが、昨年いきなり枯れてしまった。大振りの木だったが、どうやら剪定をやり過ぎたらしい。枯れてしまうと残念なものだ。3月になると吉野ヶ里歴史公園で「花と緑の市」が毎年開催される。家内がこれを求めると何度も口にしている。
煽(あお)る。おれは煽り屋。焚きつけ屋。すっかり湿ってしまった藁を、ふうふう息を吹きかけて干し上げ、それから燃やしに掛かる。これで温まろうというのだ。煽る。焚きつける。燃やしに掛かる。これで金持ち気分になろうというのだ。幸福を引きつけてみようというのだ。押し寄せる苦悩の波を乗り切って、霞立つ春の上空に跳ね上がって、天地一切を心制覇して、いきなり覇者になろうというのだ。これまでとんとご縁がなかった覇者になってみようというのだ。久しぶりに己のスケールを宇宙大に拡大して、伸び伸びしてみようというのだ。
提示されているのはアノクタラサンミャクサンボダイ。誰人にも等しく与えられている無上正等正覚。明るさあたたかさ豊かさ。高さ広さ深さ。仏陀とまではいかなくとも、<無際限に己を卑屈卑小に留めておく>こともないということだ。こころの大掃除をして、窓を開け放ち、小鳥の自己を春の空へ飛ばしてみると言うことだ。
こころの贅沢は誰にでも出来ますな。いつでも出来ますな。そんなもんしちゃならないと制止する者もいませんな。でしょうな。でしょう。
今日辺りやりますか。じゃ。もうすぐ春が来ますからな。こころに贅沢をさせますか。
こころですからな、やるのは。簡単と言えば簡単ですぞ。
「今そうしている」と実感をしていればいいんですからな。で、あなただったら「そうしている」の中身をどうします?
すべてを掌握しているのはこころだ。こいつがどう判断をするかだ。
体じゃない。体はこころの道具だ。手足だ。器官だ。こころが贅沢と貧しさを決めている。実感できるのはこころ以外にはない。
体も快楽を実感している、って。それはこころがそうさせてやっているのだ。働いてくれたご褒美に。
貧しくばかりさせてやっていては痩せてしまう。こころもからだも痩せてしまうじゃないか。
骨と皮に痩せ細った男の今朝の反逆。まだ目と手と息に力瘤があったのか。
けっけっけ。贅沢三昧してやるぞ。にたり。こころの贅沢三昧とやらをな。にやり。どうする。王さまになるのさ。宇宙の王に。どんなもんだか、なった気分を味わってやろうじゃないか。って、毘盧遮那如来になるってことかな。そうだ。その通りだ。誰にもなれるのか。その通りだ。遮る者は居ない。どうぞどうぞと勧める者は居ても押し止める者は居ない。後押しをしてくれるだろう。でかいことをするやつがいるもんだと褒めてもくれるだろう。実は誰もが一度はなってみたいことなのだ、それは。どうする、では? 簡単なことなのだ、これが。なった気分になりさえすればいいのだ。どうやって? 瞑想をするのだ。望んだこと、願ったこと、思ったことが「すべてなされた」と実感して、にやりにたり、宇宙規模でほくそ笑みを浮かべればいいのだ。でかでかと。何しろ王なのだ。それも宇宙中の王なのだ。こころもからだも意識も宇宙と同じスケールになっているのだ。決め手は「すべてがなされた」「己のためにすべてがなされた」「すべての真理が成就した」「すべての調和と美が成就した」「すべての裕福が成就した」という一点だ。こんな贅沢があろうか。めそめそ、うじうじ、へなへなを止めるということだ。
小城の先にある牛尾山の梅林に梅見に行って来ました。小雨が降る中を。山の丘陵地帯に梅林が広がっています。それも随分と年数を経た大株で大幹の枝振りがどれも見事です。溜息の連続でした。決行してよかったと思いました。屋台も出ていました。雨降りなので車の中から見物しました。帰りはわざと別の道を辿りました。後悔しました。狭くて細くて急勾配の山道をやっとやっとで通り抜けました。老人はこんな山道は苦手です。