<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

一年のお礼を申し上げます

2016年12月31日 12時21分48秒 | Weblog

このブログに立ち寄って下さったみなさんこの一年有り難うございました。お付き合い頂いたことにお礼を申し上げます。

2016年がジ・エンドします。でも歳月年月はエンドレステープです。エンドレスっていいですね。明日からまた新しくなった1年がスタートします。スタート地点に立つっていい気持ちがしますね。

われわれはすべからく「1日1生」を生きている身の上。これを規範にすれば、1年365日来る日も来る日もお正月元旦であって、大晦日。だなんていうと身も蓋もなくなりますかね。

じゃ、潔く、お目出度く行きましょう。柏手を打って打ち鳴らしてお祝いと行きましょう。祝賀は祝って目出度くなって嬉しくなること。祝いさえすれば祝われるなら、あることないことなんでもかんでも祝ってしまいましょう。祝わないと損をしてしまいそう。

お正月は神社に行ってハライタマヘキヨメタマヘをすると己と己の見ている全世界の埃が払われて清くなる、あっさり簡単に清くなる。これっていいですよね。神社のご祭神は八咫鏡。鏡の埃は払うと清まる。鏡に映った己の埃も払われてさっさと清まる。お風呂に入って石鹸つけて身体を洗った後のように清々しくなる。溌剌となる。これでいつでも出直せる。だから日本人はとっても神社が好きなんですよね。信心も信仰もここではあっさりしているから。

これからスーパーへ。目出度いの鯛を買いに行って来ます。(小さなのにします) 鯛は安泰の泰。次の一年もまたやすけくありますように。

みなさまよい一年をお迎え下さいませ。またお会いできるのを楽しみにしています。2016年12月31日。薬王菩薩(サンスクリット語でバイシャジャラージャ。仏界のドクターを任じておられます)堂 堂守 さぶろう。(でも、堂なんてありませんよ。仏像を掛けた小さな書斎があるだけなんですけど)

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俺が大将だぞのふてぶてしさはもうお預け

2016年12月31日 10時01分11秒 | Weblog

ふてぶてしい顔をしていたら、行って仏陀に見(まみ)えるときが来た時に、どぎまぎしてしまうよ。そこへ行ってもまだでかい顔、憤然とした顔なんかしていられないよ。そうだった。では、俺がこの界隈の大将だぞのふてぶてしさは、ここら辺でお預けだ。ここでそれを閉め出したらどうだろう。さぶろうは必ず仏陀に会うことになっているので、それ以前にふてぶてしくしていることなんかぜんたい無駄なこと、不必要なことだったのだ。朝の日は中天まで昇った。隣家の屋根の上に張り付いていた霜が解け出したようだ。微かに水蒸気が上がっている。

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河原の石ころ 小さな石ころ

2016年12月31日 09時35分01秒 | Weblog

河原に石ころがある。無数にある。丸々とした小石だ。上流から流れ着いている。川床をずっと敷き詰めている。冬の冷たそうな水がその上をちょろちょろ流れている。ああ、この小さな小石は己のようだと思う。一箇の小石はそこになくてもあってもいいように見える。少しも目立たない。存在している意義なんて問えないようにしていて、寡黙だ。ひっそりしている。そこが己に共通している。そう思う。存在意義をことさらに強調しなくともいいのではないかとも思う。ふてぶてしくしないでいられるのだから、却ってこのひっそりがいいとも思う。いやそうしているしか能がないのだと己に言い含めて、この朝の審問を過ぎる。河原の石ころに日がプリズムして射している。幾分光の色に赤く染まっているようにも見える。

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餅つき器が正月餅を搗いたぞ

2016年12月31日 09時00分58秒 | Weblog

お餅を搗きました。といっても臼と杵で搗いたのではない。搗いたのは電動餅搗き機。前の晩に洗っておいた餅米をここに入れて蒸す。蒸し上がる。火気(ほけ)が汽笛を挙げる。杓文字でおこわご飯を丼に盛る。ゴマ塩で俵型おにぎりを作る。これは我が輩の役目。おこわ(=ふっくらした餅米ご飯)のおにぎりが我が家の朝ご飯になる。漬け込んで老いた白菜漬けを載せて食べる。

それから餅搗き電源をオンにする。お尻の回転バネが掻き回し始める。ごとごとごとごと音が立つ。餅が膨らむ。ラグビーボール状に立ち上がる。張り張りに張る。光輝く。出来上がる。餅桶を捻って持ち上げる。片栗粉をまぶした取り板に被せる。お姫様の股のようなきめ細やかさだ。大急ぎで両手を使って切断する。手が火傷をする。鏡餅分を分ける。丸める。家族4人が持ち分を守って働く。それから次は小餅にする。

次の回はヨモギ餅だ。ふっくら蒸し上がったところへヨモギを載せて、掻き回して緑色の餅にする。その次の回は餡子餅だ。2升ずつ合計3回に分けて餅を搗く。これで終了。7時から始めて10時半に完了した。もうから正月気分が漂う。鏡餅を床の間に飾る。仏檀にお供えする。お目出度いつんの葉を仏檀の花飾りに立てる。玄関に門松を立てに行く。外を松葉箒で掃いて箒目を入れる。これで段取りが出来た。場が鎮まり清まる。

今夜は塩鰯とお蕎麦を食べる。除夜の鐘を聞く。一年が無事に過ぎたことを感謝する。皆様のお陰を被ることが出来ました。一年を閉じます。などなど一人畏まって、お布団の中で、お世話になった方々に向かってぼそりぼそりお礼を述べる。

明日はいよいよお正月だ。予報では晴れ。7時を過ぎて、東の空に初日の出も見えるようだ。

 

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わたしの小さい窓からも

2016年12月30日 23時10分04秒 | Weblog

わたしの小さい窓からも空が見える/窓を塞いでいるカーテンを/開けさえしたら/空が見える/わたしの窓が小さいからといって/空が小さくなったりはしない/大空は大空である/春の空は春の空である/

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たがいを認め合うためだったんだ

2016年12月30日 22時56分36秒 | Weblog

わたしが小さくても大空は大きい/これでいいんだ/わたしは小さくしていても大丈夫/大丈夫大丈夫/二つ合わせたら大丈夫になっている/大があるから小がある/小があるから大がある/これは互を認め合うためだったんだ/

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ヘンだぞ おかしいぞ

2016年12月30日 20時56分04秒 | Weblog

おかしいぞ。この頃、顎髭が生えて来る。白い山羊のようなぴょろぴょろの髭だけど。全身脱毛症が改善されて来たのかな。一週間に一回は髭剃りの登板になってきた。この調子で進んだらまた黒髪が頭を密林にすることもあるのかな。だったら青春が出来るぞ。美しいメッチェンにだって会えるぞ。臆せずに会えるぞ。てったって、こっちがその気でも、肝心のメッチェンはその気にはならないだろうけど。ま、いいじゃん。夢見てるだけでいいじゃん。そわそわそわそわ。いつまで経っても成長しないさぶろう。俗人さぶろう。でもこれが正体。

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小さな自己満足

2016年12月30日 20時49分56秒 | Weblog

お外の掃除が出来た。箒の目がついたらそこに清潔が居座った。鮮度がぐんと膨らんだ。これで正月らしくなってきたぞ。うひひひひ。なんてったって働いたって感じがした。寒さをものともしなかった。そういうところもいいなあ。小さい自己満足。

 

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71年を生きたさぶろうの確信

2016年12月30日 20時30分07秒 | Weblog

いずれわたしは仏陀に見(まみ)えることになる。「なるだろう」ではない。そうなる。これは確信である。71年を生きたわたしの確信である。善悪あれこれ娑婆の行を積んできたわたしの明るい予見である。

これは、しかし、わたしに限定することではない。誰もがこの道を歩いているのである。そういう方向を向いて歩いているのである。

仏陀へ仏陀へと進んで行っているのである。嬉しいではないか。仏陀はわたしを抱きしめるであろう。ここへ至り着いたわたしを抱きとめるであろう。

わたしに新しいドラマが生まれるであろう。どんなドラマか。それは知らない。今は証(あか)されていない。しかし、わたしは仏陀とともにいるのである。不安はいささかもないであろう。

永遠のいのちの仏陀の世界である。そこでは永遠を見通す力が与えられるであろう。

なあんて、さぶろうの独り言。ぶつぶつぶつぶつ。

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譲られた者は譲って行くことができる

2016年12月30日 20時13分54秒 | Weblog

わたしたちもそうだったのである。譲られて譲られてこの場を我が物としたのである。譲るということは去って行くということであった。譲られて初めて我が命の場が出現したのである。譲られた者は次には譲って行かねばならない。住みよいからといって長々と場を独占してはならない。死者は行く者である。譲って行く者である。

しかし、次へ次へと向かっているので、次の舞台でもまた同じことが起きているのだ。わたしたちは前進を続けているのだ。死んで生きて生きて死んで、そうやって場を譲り合って、新しい時へ新しい時へと進んで行っているのだ。前進をして行っているのだ。心配は要らない。いままでの馴染みの場所を譲ったからと行ってそれが損失になっているのではない。相互扶助の役目を分担しているだけなのだ。相互扶助によって互が益をもらっていく。

地球に生きて死んでここを相互扶助の実践の場としている者に永久(とわ)の栄光あれ。

死は軽率で無益で無秩序で、一見無駄な徒労に見えているが、そうではないのだ。大きなカラクリの中で大きな役割、正しい役割を目の当たりに演じているのだ。わたしが死ぬということはそういうことでもあるのだ。

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