<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死は無差別である 生きている間も無差別である

2010年03月16日 22時18分56秒 | Weblog
偉人も億万長者も賢者も死ぬ。強いのも恐いのも死ぬ。威張っているのも死ぬ。褒められて奉られて栄誉賞や勲章をもっらったのも、最後には死ぬ。死んで白骨になっている。ざまあ見ろいだ。

そんな川柳があったが、いまは思い出せない。

ざまあ見ろいと言って溜飲を下げた本人も、しかし、やっぱり死ぬ。死んで白紙に戻る。ここがいい。

スタートラインに列んでヨウイドンして、ずいぶん差がついてゴールインするが、死というラストラインは一列であって差がない。

差がないというところがすかっとするではないか。ようこそようこその死である。うまくしたもんじゃないか。

偉人も非偉人も、億万長者も非億万長者も賢者も非賢者も区別がなくなる。この無差別がなんともワンダフルではないか。

生きている間は差別があったように思えてしようがなかったんだけど、ほんとは差別はなかったんだよ、ということを死の事実で教えられるのだ。

差別なんかない。生きているときも死んだ後も差別なんかはないのだ。善人悪人の差もない。強い弱いの差もない。なかったんだ。あると思っていたのが間違っていたんだ。










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スプリングラブレター

2010年03月14日 08時48分13秒 | Weblog
道を聞かないまま100年を生きるよりも、道を聞いて、にっこりうなずいて一日を過ごすことの方がはるかにまさっている。書物にこう書いてあった。

      *

暮風は、道を聞かないままに生きている。

      *

のんべんだらりん、だ。

      *

わき起こる食欲と排出欲と睡眠欲とを満たすだけに明け暮れている。そうした明け暮れをしていることが人生だと思っている。まことに小欲の人間である。大欲を知らない。

      *

道を聞いて魂(スピリット)の腹を肥やすために生まれてきているのに、肉体の欲求を満たすだけでよしとしている。本末転倒なのだ。

      *

肉体は脂ぎってお腹を突き出しているが、何にも食べていない魂は痩せて空腹で、げんなりはらぺこである。魂の頬はこけている。

      *

肉体は魂の乗り物に過ぎないのだ。乗り物を大事にして、乗っている魂のことを忘れ去っている。魂の活動をするために乗り物を借りたのだ。
乗り物が最高級車であってもそれはただ乗り物が最高級車だと言うだけに過ぎないのだ。

      *

形有るものに止まっていてそこを越えていかない。外側に目を取られて内側を見る目を持たないでいる。それで100年を生きている。(100年とは行かないか)

      *

道を聞くのは魂の耳である。

春の三月、万物の芽吹きの時。

どうだ、暮風よ、今日の一日、魂の耳を復活させて、春雨霧雨の語ることばを静かに聞いて暮らさないか。忘れ物が届いたときのようににっこりして、スプリングラブレターのやさしい愛の言葉にうなずかないか。









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ああ、いいなあ ああ、きれいだなあ

2010年03月07日 14時06分43秒 | Weblog
ぼくにできることはなかなかありません

でも
ほめることはできます

梅の木の下に来て
「ああ、きれいだなあきれいだなあ」と言って
咲いた花をほめることはできます

ほめることしかできないので
なんどもなんどもほめます

梅の木には人間のような耳はありませんが
でも
聞こえているのだと思います

花片の色が違ってきます
やわらかになります
枝がほんのりとゆるんできます

たといそのときに
聞こえていなくってもいいのです

わたしたちはエネルギーなのですから
いつかいっしょになります
そのときに偶然隣同士になることもあるはずです

そこで
「あのときはきみにほめてもらって
嬉しかったよ」
「いえいえ、ほんとうに
あなたがきれいだったので
わたしはうっとりとなってしまいましたよ」
と会話ができるように思います

わたしは自分の無能力さがいやになることがあります
ちょくちょくあります
無能力を能力ありにすることは
できることではありません

でも
ほめるのには能力がいりません

意識してほめなくとも
自然にほめてしまいますから
能力がいりません

春は花がたくさん咲きます

ぼくはあちらへひょろり
こちらへひょろりと出かけていって
きれいな花をほめます

きれいなのは花ばかりではありません
空も地も山も海もきれいです
きりがないほどです

ぼくはほめているだけで
一日が過ぎていってしまいます

ほめるのは苦痛を伴いません

ぼんやり屋のぼくは
ぼんやりぼんやりしながら目に入るものを
「ああ、いいなあいいなあ」
「ああ、きれいだなあきれいだなあ」とほめています
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ユリの新芽をちょん切っちゃった

2010年03月06日 20時18分15秒 | Weblog
左手に鋸釜を持って、それで草の根をがさがさぐさぐさ掻き上げて、繁茂したヒヨコ草、オオイヌノフグリなどの草取りをしました。庭は見る間にきれいになっていきます。

と、ぼくは「あちゃあ、しまったあ」と大声を出しました。切ってはならないユリの芽を鋸釜で一網打尽にしていました。これはかなり珍しい黄(き)鹿の子ユリの芽です。

土の上にはまだ芽を出してはいませんでしたが、すぐそこまで這い上がってきていたところを鋸釜で切り落としてしまっていたのでした。泣くに泣けません。

すまないことをしました。これでユリにとってこの一年はなかったも同然になりました。来年まで土深く待たねばなりません。

「ごめんねえ、ごめんねえユリさん」を繰り返しました。もっと注意深く作業をするべきでした。後の祭りです。
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