午後から、CTスキャンの検査を受けてきました。肝臓癌の疑いは晴れました。ほっとしました。担当医師も非番なのに出て来て診察をしてくれました。撮影画像を見ながら、時間をかけて詳しく説明をして貰いました。終わったのはもう夕方の5時半を回っていました。どれだけたくさん感謝をしても感謝しきれないほどです。一月後にC型肝炎ウイルスの検査結果を聞きに行きます。
午後から、CTスキャンの検査を受けてきました。肝臓癌の疑いは晴れました。ほっとしました。担当医師も非番なのに出て来て診察をしてくれました。撮影画像を見ながら、時間をかけて詳しく説明をして貰いました。終わったのはもう夕方の5時半を回っていました。どれだけたくさん感謝をしても感謝しきれないほどです。一月後にC型肝炎ウイルスの検査結果を聞きに行きます。
雨が降り出してきた。小雨だけど。這い胡瓜なのに、這わないで立てた3本の支柱を昇ってきて360度に蔓を広げている。たくましい。まだ胡瓜は実っていない。薄緑の葉っぱが雨に当たって艶を見せている。この世にはさまざまな生き方をする生き物が存在している。人間は人間に役に立つものを育てているけれど、人間に役立たないもの、人間に顔を加えるものも、ほんとうはそれぞれ重宝な役割を負っているのかも知れない。
ほんとは共生すればいいのだけれど、寄生だけしているのもある。人間を病気に追い込む細菌類などは、寄生をして栄養を取り込み活動をする。回虫などは、そこを凌駕して共生を図っている。こうすればいつまでもいっしょに仲良くしていられるのだから、よりよい進化を遂げているといえよう。
しかし、人間を病気に追いやりさらには殺害してしまう悪者ウイルス類も、こうすることで人間を次のステップに追い込んでくれるという利点もありそうだ。死なないと、復活も再生もできないのだから。死んで次のステージに進むとそこからまた新しい感動が始まるけれども、人は自分で喉を絞めて自分を殺すのは忍びないので、この役を悪玉ウイルス類に依頼しているとも考えられる。
生き物はそうすると結局の所互い互いに自分の役割を果たすことで大きな善のサイクルを造り上げているとも考えられる。敵だとしていたのが、そうではなかったという発見がここで生まれてくるだろう。畢竟するに、途中で何がどうあっても、究極的には悪いようにはなっていかないのである。これは楽観視すぎるだろうか。
腐敗菌だってそうではないか。これが働いてくれないと地上に落ちた枯れ葉はいつまで経っても木々を生長させてくるための栄養物への変身を遂げられないのだから。
おはようございます。今日は朝から曇っています。ナツアカネが低くすいすいと飛び回っています。夏蝉がやかましく鳴いています。もうすぐ我が家の庭の鬼百合が咲き出します。蕾がふくらんできました。昨日サイクリングで回ったときには城原川の川土手の鬼百合の群落は見えませんでした。(葦草が茂っていて見えないだけかも知れませんが)
昨日医者さんが画像を見せながら、肝臓癌の疑いがあると説明をされました。癌ウイルスはそこに血管を呼び寄せて栄養を摂取するという説明がありました。なるほど近くに血管が導かれていました。今日は午後からCTスキャンの検査を受けることになっています。わたしは椎間板ヘルニアの手術を受けたときにそこにチタン合金を埋めてありますので、MRI検査に支障があるということで、CTスキャンになりました。この検査でも明瞭にならないときには入院して直接患部から細胞を取り出して調べることになるという予告も聞きました。悪性だということがはっきり判明すれば患部の摘出手術に進むらしい。
明日から7月に入ります。そういうわけで7月は我が家にはおられそうにないようです。覚悟はほぼ決まっています。70年酷使してきた肉体ですからそろそろやすませてあげてもいいように思います。これまで元気で生きて来られたんですから、それを感謝すべきで、この後に更なる強欲を張るのは躊躇われます。
病院から戻ってきて暫くしてから、サイクリングに出ました。体調は戻ってきています。元気が漲っています。いつも回って行くコースなのですが、ことさらに今日は新鮮みを覚えました。北方に連なっている背振連山の姿も、やがて近いうちに見納めになるのだなあと思って感慨一入でした。長く生きなければ生きたことにならないということではないのですから、生きている内に生きている事実を充実させておけばいいのだろうと思います。
美しいものもたくさん見させていただきました。感動もたくさんさせていただきました。名残は尽きないとしても、吾は唯(ただ)足るを知るなり、です。有り余るほどのよろこびを十分頂いて来ました。後は報恩と感謝のときを過ごしていければいいのかもそれません。
楽しくしていていいのだ。楽しくしていよう。今このときを楽しくしていよう。たとい楽しくないときであっても、楽しくしていていいのだ。楽しくないときには何があっても楽しくしていてはいけないということはないのだ。そうなのだ。そうだったら、楽しくしていよう。見境もなく、あるいはお構いなしに、条件を付けずに、拘束されずに自由に、ということがあっていいのだ。
気分一新を図って、サイクリングに行って来ました。なんでも目盛りをゼロにすれば、快くスタートできます。いつものコースよりももう少しだけ長めのコースを走りました。三日坊主というのは三日しか続かないことを言います。今日はその2日目でした。あちらの屋敷こちらの屋敷に、オレンジ色をしたノウゼンカズラがこんもりこんもり咲いていました。
なんでも目盛りをゼロにすればいいのです。一旦これまでのあれこれの条件を全部ゼロにしてしまうのです。「こうであるから、こうしかならない」の図式をほどいてしまいます。すると、これに制限されることがありません。着ていたものをジャブジャブ洗い流したときのように、颯爽とします。
なんでも目盛りをゼロにすればよかったのだ。今日ただいま生まれた、ということにすれば、理由づけをしなくて活動ができるのだ。エネルギーというのは、そうすると、勘違いを起こしてしまって、あたかも健全な人間がするように、内側からじゃんじゃか迸り出てくるから、不思議だ。そうなんです、今日ただいまお母さんから生まれて来た、おぎゃおぎゃおぎゃと力一杯泣けば、パワーが全開になるのです。
前回の血液検査でC型肝炎が陽性反応だったので、再度診察を勧められて、エコー検査、C型肝炎ウイルス検査をしてもらった。
エコー検査で肝臓癌の疑いがあると指摘を受けた。2カ所にできもののような影があった。検査に随分時間がかかった。明日、CTスキャンで詳しく調べて貰うことになった。それで判明できなければ、今週中にも入院をして肝臓の一部を摘出して調べてみようとドクターは言った。
C型肝炎ウイルスの検査は今日には判明しなかった。もしもウイルスが活発に活動している事が分かったとしても、肝臓に癌がある場合は、ウイルス撲滅の治療はできないということであった。
癌の疑いを突きつけられてもあまりショックはなかった。ブッダンサラナンガッチャーミー、ダンマンサラナンガッチャーミーを称えてきたのだ。仏陀と仏陀の法(ダンマ)におまかせをして暮らしてきたのだから、我が身に何がふりかかろうと、それが自分の現在と自分の未来の自分の進歩向上にとっては最良最上最高のはずである。
帰りがけ、道のあちこちに今を盛りと咲いている赤いカンナの花を見た。見ることができるうちに、美しいものを見ておこうという気持ちが起こった。今日は久しぶりに真っ青な夏空が広がっているし、爽やかな夏風も吹いていた。
どちらさまにもおはようさん。空が真っ青である。昨日は久しぶりで昼過ぎからサイクリングに出掛けた。約1年ぶりかな。自転車には蜘蛛の巣が張っていた。タイヤの空気を補充し、簡単に掃除をしてから、スタートした。昼月が出ていた。上弦の月だった。左脚の膝下の筋肉がまったく削げ落ちている。ペダルを漕ぐのが辛かった。町内の地蔵堂を巡って走った。甘草の花が川土手に咲いているのが見えた。田には水が張られ田植えが終了していた。吹き渡る風が爽やかだった。帰って来てからは、7時過ぎまでトウモロコシ畑の草取りをした。
金剛界曼陀羅には五智如来がましましておいでだ。すなわち、中心にの日如来(毘盧遮那仏)、その右横の不空成就如来、左横の宝生如来、上の阿弥陀如来、下の阿閦如来である。これらの如来方が智慧と光明宇宙の、秩序と調和と活動と繁栄と安寧を担当してくださっている。
今日はこの曼陀羅図を想像して瞑想をはかってみた。すべて真似事に過ぎないが。
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お~ん、あぼきゃ、べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらだりたや う~ん
この光明真言にその五智如来への帰依が歌い込められている。「あぼきゃ」は不空成就如来へ、「べいろしゃのう」は毘盧遮那仏へ、「まかぼだら」は阿閦如来へ、「まに」は宝生如来へ、「はんどま」は阿弥陀如来へ呼びかけた、それぞれの真言である。
最後の「じんばら はらだりたや」は「放ちたまうそれぞれの光明を我が身にいただきまする」という受領文である。さぶろうはそういうふうに現在完了形で受け取っている。これからそうしていただくのではなく、すでにすっかりその通りになっていることへの自己確認と感謝宣言である。
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光明には仏の智慧が籠もっているので、受け取っていればそれが仏智見への誘いになっている。
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はじめの「お~ん」とおわりの「ふ~ん」は、宇宙に満ち満ちているパワーのオン・オーフのスイッチである。腹の底からの唸り声を発して、宇宙パワー(宇宙エネルギー)と合一する。
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発声はやや高い声、528ヘルツの倍数がいいらしい。山中の滝場の行場では、滝の轟音がしているので、それくらい高い声を出してやっと山々や谿と響き合うことができるようだ。ひととき滝行をしていると実に爽やかになれる。さぶろうは若い頃に人真似をしてしばらくこれをやったことがあった。いまはこの老体である。やってはいない。(八天山の山奥の滝場である。本格的にお師匠さんについてしたわけではないけれど。)
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則天去私。唯仏与仏。わたしの小さな判断を去って、大きな宇宙のリズムに則(のっと)る。できるだけ大きな振動数に近づける。これは夏風に吹かれているような爽やかさをもたらしてくれそうである。
断っておくが、これは、しかし、さぶろうの自己解釈で信憑性はさらさらない。さぶろうがそういう素人実験をしているというに過ぎない。
日差しはすっかり夏である。早くもニイニイゼミが鳴きだしてきた。大木(たいぼく)になった庭の桜の、鬱蒼とした葉陰の辺りから聞こえて来る。
ご近所さんから今年の初生りの南瓜を届けてもらった。でかい。はち切れんばかりだ。
これは90才を超えた農家の方が育てられている。戦後数年を経って厳寒のシベリヤ抑留から戻って来られた。捕虜の強制労働生活をかいくぐって来られただけあって、心身共に鋼入りである。体躯もとても90才を超しているとは思えない。背中も腰も曲がっていない。生来寡黙を通しておられるが、耳がお悪いようなので、玄関先の声がすさまじく大きい。
なかんづく、この農家のサツマイモと南瓜と大根、西瓜は上等である。超がつく。真っ先に、一番おいしい上出来を届けられる。この菩薩道的布施行は、欲深なさぶろうにはとても真似ができない。さぶろうはおいしいものは真っ先に己が賞味する。世の中には淡々と布施行をやってのける方がいるものである。感心させられる。
頂いた南瓜はそのまま仏壇に供えた。せめて、ご先祖様にまずは食べて頂くためである。
日差しが強くて長くは外に出ていられない。それでも、午前中、お昼のサイレンが聞こえて来るまで、辛抱をして、汗を掻き掻き、畑の草取りをした。途中でトマトやオクラ、ピーナッツなどに化学肥料を施肥した。昨日まで雨降りが続いていたため土がゆるんでぬかるんでいたので、草取り器具に土がまとわりついて、仕事がやりづらかった。ミミズさんが土からいっぱいあふれてきて、傷つけないようにするために苦心した。午後からはちょいとばかり休憩をする。日が翳って来たところでまた再開をしよう。
小松菜や不断草がちょうどいいくらいに育ってきているので、これを間引きした。洗い場で丁寧に洗った。夏場の緑陽野菜は貴重だ。葉がつやつやつやつや光っている。ちょっと堅そうだから、煮込む時間を多めに取る必要がありそうだ。今晩、おひたしにしてもらおう。鰹節をかけて食べたらおいしそうだ。唐辛子もそろそろだ。まだ赤く色づいてはいないけれど、青臭いのもまた格別である。