弟は今死のうとしている。去年の今日。夜11時には死んでしまった。悲しい。
宿の夕食は牡蠣フライだった。おいしかった。サワラの刺身でビールを飲んだ。厚揚げで焼酎のお湯割りを飲んだ。おいしいおいしい。満足した。お酒をまるて゜飲まない友人は轟沈。寝息をかいて寝てしまった。
星がきらり。宿の窓から星が見える。部屋は三階にある。階段しかない。部屋にトイレはないので、廊下へ出る。ほかに幾つか部屋がある。泊まり客がもう一組あるようだ。山の中は静かだ。友人の寝息が聞こえる。いま四時半。朝湯は六時半から。夕食は鮎の塩焼き料理一式だった。珍しく部屋食。僕はビールと焼酎を飲んだ。彼はお酒はやらない。その後今日二度目の湯に浸かった。湯壺は夜9時でも賑わっていた。
弟は死んで何処へ行ってしまったんだろうかなあと思います。弟は60を過ぎてから己の疑問を解くべく浄土真宗系の仏教大学(短大)に通って勉強をしました。京都の本山にも行って僧侶の資格ももらえたようです。行くところは、だから、ちゃんと見つけたはずです。安らかな最後でした。行くところは決まっているから、葬儀は無用といってそれを遺言していましたので、その通り、僧侶も呼ばない家族葬になりました。
われわれの行くところはいのちの故郷、仏陀のお浄土だとわたしは思います。そう思っていたいのでしょうね。呼び名はいろいろあるでしょうが、戻って行くところはいのちの出発地点、そこしかないのではありませんか。これはわたしの想像です。途中で物見遊山などをしているかもしれませんが、弟はいまは仏陀の国に到着してそこで仏陀の弟子として忙しく立ち回っているはず。
弔辞では「やすらかにお眠りください」などというけれど、眠ってはいないでしょう。元気いっぱい活躍をしているはず。そういう明るい元気な弟をイメージしています。「兄貴さん、おれのことは心配いらないよ」「ここはなごやかで賑やかでいいところだよ」「会う人会う人みんなが仏陀なんだよ、びっくりするよ」などと言っているでしょうね、きっと。
昨年、弟の遺体の棺(ひつぎ)の中に我が家の庭の山茶花を敷き詰めてやることができました。その山茶花が今年も咲いています。薄いピンク色をした八重咲き山茶花です。
おはようございます。気温は20度を下回っています。寒くなりました。炬燵を出す時機が到来しているようです。足先に薄い布団をぐるぐる巻きにして耐えています。山鳩が近くの樫の木あたりに来ています。ごうごうぶうぶう鳴いています。今日から友人と一緒に湯治に出かけます。2泊します。
弟の命日が明日の10月31日です。一年前の今日はまさにいのちの風息が消えかかろうとしていました。今朝も台所に貼ってある小さなスナップ写真を眺めて感慨に耽りました。「弟よ、お前は兄よりも先に行ってしまったなあ」と何度も声を掛けます。4歳年下です。昨日弟宅へ行って仏壇にお詣りをしてきました。11月5日に一周忌が執り行われます。親戚中が集まって来ます。喧嘩ばかりしていたくせに、いないとさみしいですね。
ここまで書いてここまで読んで来て、さぶろうはもう嬉しがっている。この説諭に出遭えただけでもう嬉しがっている。なにしろ空中の声を聞けるのである。
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えへへ、えへへ、嬉しい。
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では、日敬師の解説解釈文を参考にして、さぶろうが合点が行くように自己流に編集して書くこととする。
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修行者は空中の声に向かって問いかける。「では、どういう心も持ち方をしたらいいのでしょう、懺悔の法を行じるためには?」すると空中の声が応えてくる。
「釈迦牟尼仏は久遠実成の仏ですから、何処にでもおいでになられるのです」「そこは常に光明に満ちています」「ここへ至るには、無常なものへのとらわれから離れて常住のものを把握する修行に依ったのです」「小我から離れて大我に目覚めることによって安らかとなったのです」「自他の差別を捨ててきよらかなこころとなったのです」「心の平和を得て苦しみや悩みから解脱したのです」「有るとかないとかの判断を超えて来たのです」「ここは仏の智慧が完全に成就したところです」
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「仏の世界は、変化することのない絶対永遠のところであると観じて、懺悔の法を行じることが大切です」空中の声は修行者に答えた。
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仏の世界は常寂光土である。常に「変化することのない光明」で満たされているところである。そこへさぶろうも帰って行くことができる。嬉しい。懺悔(さんげ)はおのずからに成されるであろう。常寂光によってこころが清らかになるであろう。
爾(そ)の時に、行者、此の語を聞き已(おわ)って、空中の声に問いたてまつる、我は今何(いず)れの処にしてか懺悔(さんげ)の法を行ぜんと。
時に空中に声、即ち是の語を説かん。
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を「毘盧遮那(びるしゃな)、遍一切処(へんいっさいじょ)」と名づけたてまつる。
其の仏の住処を常寂光(じょうじゃっこう)と名づく。
常波羅蜜(じょうはらみつ)に摂成(しょうじょう)せられたる処、我波羅蜜(がはらみつ)に安立(あんりゅう)せられたる処、浄波羅蜜(じょうはらみつ)の有相(うそう)を滅せる処、楽波羅蜜(らくはらみつ)の身心の相に住せざる処、有無(うむ)の諸法の相を見ざる処、如寂(にょじゃく)解脱(げだつ)・乃至(ないし)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)なり。
是の色常住(しきじょうじゅう)の法なるが故に。
是(かく)の如くまさに十方の仏を観じたてまつるべし。
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以上は妙法蓮華経の「仏説観普賢菩薩行法経」より抜粋した。原文を書き下し文してある。これをなさったのは庭野日敬師である。次のブログで、日敬師の解釈文のままを取り上げる。
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ここまで書いてここまで読んで来て、さぶろうはもう嬉しがっている。この説諭に出遭えただけでもう嬉しがっている。なにしろ空中の声を聞けるのである。
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次のブログで解釈文を取り上げるつもりだが、もう眠くなって来たぞ。どうしよう。
秋晴れのいい天気なので、ドライブ。福岡県大善寺にある玉垂神社にお詣りをしてきた。車で約1時間ほど。久留米市に近い。古い、いかめしい、威厳のある神社だった。此処でひとときを過ごした。樹齢千年の大楠が境内に立っていた。神社という所はなんだが清々しい。結界をしてあるからだろうか。澄み切った秋の空がそのまま地上まで降りて、あたりを爽快に澄ましているというような感じを受けた。雲のタワシでごしごし魂の洗濯をしてもらえたんじゃないかな。
おはようございます、どなた様も。寒くなりました。昨夜は突風が吹き荒れていました。現在の室内の気温は24度。やっと庭に差し込む日射しが見えています。ぐうたらが得意な僕は朝からずっと<ひとりぐうたら>と<ひっそりぐうたら>をしています。これが一番です。まずお金が掛かりません。籠もりっきりですから、人様の迷惑になりません。でもそろそろ着替えをします。外に出ていきます。庭の石蕗の花園に花虻が来ています。僕もその仲間に加わろうと思います。でも彼らから「かっちぇん」と撥ね付けられたらどうしましょう。「かっちぇん」は「加担させない」の方言です。さっき冬蜜柑を一箇剥いて食べました。秋に食べるから秋蜜柑でもいいでしょうが、なんとなく蜜柑は冬の果物のような先入観が排除できません。蜜柑剥きは<ひとりぐうたら>にぴったりします。
こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山は青き 故郷 水は清き 故郷
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これは唱歌「ふるさと」の3番である。作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一。何度歌っても歌う度にしみじみとする。名曲だ。どうしてそんなにしみじみとなるのか。みないつの日にか故郷へ帰っていくからである。われわれはいのちのふるさとを持っている。それで安心が出来るのだ。ふるさとの山はいつまでもいつまでも青く、ふるさとの水はどこまでもどこまでも清らかである。
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法然上人もまたそのような覚悟であった。死んで何処へ行くか。我々は死ぬ。死なない者はいない。でも行くところがあるから死ねるのである。故郷を持っているから死ねるのである。死んでその先に帰るべきふるさとがないなら、途方に暮れてしまうだろうが、その心配はない。われわれは死んでふるさとに帰って行くのである。ふるさとの山も空も青い。ふるさとの水も光も清らかなままである。それがそうやってわれわれを待っていてくれるのである。法然上人は帰るべきふるさとをこころの中に持っておられた方であった。
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さぶろうの覚悟はどうだ。死んで何処に行くか。行くところは一箇所しかない。ふるさとしかないのである。迷いはない。迷いが生じるはずもない。ふるさとまでは一本道である。大きくまっすぐな一本道である。
父も母もふるさとへ帰られたのである。いのちのふるさとに帰られたのである。我が弟の命日がもうすぐ来る。去年の10月の末の日だった。弟もいのちのふるさとに帰ったのである。それをこちら岸の兄が案じることはない。ふるさとはこころを安らかにしてくれるところである。
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こころざしを果たしたので帰って行くのである。皆それぞれのこころざしを果たしたのである。