一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかいの他力本願とは申すなり。 蓮如聖人「御文章」より
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わたしさぶろうは智者の振る舞いをしているのでこれがなかなか信じられない。信じようとすればするほど遠退いて行ってしまう。弥陀も弥陀の誓いもわたしの力を遙かに遙かに超脱しているのに、そこまで網を打とうとする。網などが届くはずがないのである。わたしの自力の及ぶところなどには弥陀はいないのである。弥陀の本願は、しかし、このさぶろうのように無駄な大網を投げる人のためにある。わたしの智が弥陀の智を知るほどにはないのである。わたしの智くらいが仏の智を捕まえるくらいだったら、そんなものは偽者である。
だから「みなみな一人残らず御助けあるべし」と高を括っていればいいのである。
それが難しい。疑ってしまう。わたしの智が仏の智よりも正しいと思ってしまう。これほどの傲慢ぶりなのである。疑っても疑ってもなおなお「わたしの後生が助かる」のである。
それで他力の本願なのである。