<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

我が輩はつかの間の安息を得た

2014年04月30日 17時48分25秒 | Weblog
「僕」は、肉体の僕だけではない。これは明白なようだ。



僕はいったい誰だろう? 



苦しい悲しい嬉しい楽しい痛い痒い辛い心地いい愉快だしんどい好きだ嫌いだ欲しい欲しくない

気持ちいい気持ち悪い大変だ不安だ心配だ恐い、どうしようどうしよう。

肉体氏について回る判定役の感情氏は、いついかなる時も、何処に居ても、

かくかくしかじか事態の判定を下していなくてはならない。

またっくもって忙しい。気が休まらない。

感情氏はこころ氏の邸宅に居を構えている大富豪だ。



幽体氏はこれを見て見ぬふりをしている。

自由だ。でもって、ときどきするりと肉体を抜け出てお遊びに行かれる。

肉体氏のつぶやきには一々構ってなんか居られないといったように。

山の上の上空100mくらいのところを遊覧飛行してお満悦になる。



霊体氏は、個体ではないから、これも個体の一挙手一投足にお付き合いをしてはいない。

彼は、いわば共通共同の意識体である。宇宙一杯を住み処としている巨大意識体である。

肉体氏のところにやってきて、霊体の支所支店支部ステイションを買って出ることもあるが、

完全密着型の同化同調をしてしまうのではない。むしろ、常に宇宙全体に拡大拡散してしまう傾向にある。



死んだり生まれたりするのは肉体氏だけである。

これとて死んだふり生まれたふりで、完全消滅というわけでも完全生成というわけでもない。

消滅の変化を繰り返すのみである。

したがって常に仮である。虚仮の作用である。

虚仮だから挙動不審がつきまとうが、それとて虚仮なのである。



肉体氏の活動の場とはまったく別個に暮らしができる場所がある。

ここが霊体氏の活動の場である。これはさっきも述べたように個体ではないから、「我」の意識がない。

「わたし」に関わることは皆無である。

おれがこうした、おれはああした、儂は偉いぞ、自分はつまらない人間だ、などという呟きごとはない。



個体の肉体氏は不安がる。どうなるのだろう、どうなるのだろうと不安でたまらない。



こういうときには幽体氏が幽体離脱をして霊体氏のいる全体宇宙まで出掛けて行くことになる。

そして元気の気をもらって戻ってくる。



ふふ。ふふう。ふふふふふ。

今朝はこんなことを考えてみた。

こう考えてみてそこで大自由を獲得して、我が輩の肉体氏こころ氏感情氏はつかの間の安息を得た。
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病気をするお命は頂くお命ではなかった

2014年04月25日 13時36分09秒 | Weblog
お命が頂ければそれだけで、お前、
「それで満足いたします。十分過ぎるほどでございます」と
幾度も幾度もそう言ったではないか。
あれは嘘偽りだったのか。

そのお命をお前は、
あれほど感涙にむせんで、
大事に大事に、押し頂いたではないか。

へ。その通りでございます。

「人間のお命がいただければ、これで魂の修行もかないます」
そうも言ったではないか。
頂いたお命では修行がかなわなかったということになるが、どうだ。

へ。そうなりますか。

ゴンゴロゾは顔を赤くした。

お命を頂いたときにはたしかに感涙にむせんでいた。
それがどういうことか、今は文句たらたらの暮らしぶりだった。

お命が病気をすると、
「病気をするお命は頂くお命ではなかったのに」などと不平を鳴らした。

命は生きているのでさまざな変化を内包しているはずであるが、
その変化すらも受容できなかった。
それは、しかし、初めの計算にはないことだった。

そんなに気に入らないお命であれば、お前、
すぐにでもお返しをしてもいいのだぞ。
お命を頂きたい希望者が列をなして待っているのだぞ。
お命はこちらに戻ってくればそこでもう一度真新しくなるのだ。

声が言い放った。

ゴンゴロゾは黙っていた。
長年使い古されていて汚らしくよれよれになったお命は、
嫌になるくらいみすぼらしくも見えたのだった。
次の希望者に振り向けてやればたちどころにすっかり真新しくなるお命。
もしそうであればそうしてやっても悪くないな、とも思った。

ゴンゴロゾはどこまでも傲岸不遜であった。






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噛むと春がぷんと匂う

2014年04月22日 17時28分36秒 | Weblog
庭のあちらこちらに
蕗がぐんぐん成長している。
爽やかな黄緑の色をしている。
夕風に煽られて大きな葉っぱが揺れている。

これを摘んで来て、丁寧に筋を剥く。
炒り子の出しの薄醤油で煮てもらう。
噛むと春がぷんと匂う。
やわらかくてとってもおいしい。
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部屋には仏陀(の写真)がいっぱい

2014年04月22日 17時01分49秒 | Weblog
仏像写真集がカレンダーになったのを、
もう古くなって使わなくなったのを、
部屋の壁に貼り付けています。

何年分もあるので、部屋は仏像の写真だらけです。

釈迦牟尼世尊がいらっしゃいます。
阿弥陀如来がいらっしゃいます。
大日如来がいらっしゃいます。
薬師如来がいらっしゃいます。
観世音菩薩がいらっしゃいます。
地蔵菩薩がいらっしゃいます。
普賢菩薩がいらっしゃいます。
不動明王がいらっしゃいます。
その他の仏像も何体も何体もいらっしゃいます。
まるで曼荼羅界です。

ときおりその仏さま方のマントラを唱えます。

南無南無南無をします。
わたしを限りなく小さくします。

仏さまと仏さまがお話をなさるのを聞きます。

聞いている気持ちになります。

そうすると「仏さまとわたし」がそこでできあがります。

芥子粒のように小さいわたしですが、仏さまと相対しています。

仏さまに頭を撫でてもらいます。

そんなイマジネーションをします。

それからすやすや眠ります。

撫でてもらっていてもすやすや眠れないときがあります。

無仏のときにいるような苦しみを味わって朝を迎えることもあります。

ここは、しかし、無仏の場所ではありません。

カレンダーの写真集ですがわたしの部屋には仏陀がたくさんいらっしゃいます。
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新緑の安心を得たい

2014年04月22日 16時46分50秒 | Weblog
安心をしていないから
安心を得よう得ようとしている

さもさも
安心を得たような気持ちになっても
日暮れにはもう大雨大嵐になっている

愚かだ
ほんとうに愚かだ
愚かなまんまで日々が過ぎて行く
長い長い年月が過ぎて行く

いただいた人生の全部を
愚かさというクレヨンで
真っ黒に塗りつぶしてしまうことになる

これじゃ
何年を生かされようとも
真っ黒だ
墨のように真っ黒だ

たとえどんなに健康を恵まれても
たとえどんなに幸福を恵まれても
たとえどんなに豊穣を恵まれても
安心に行き着けないのなら
虚飾だ

健康も虚飾だ
幸福も虚飾だ
豊穣も虚飾だ

安心を得たい
生きている間に
絶対の安心というものを得たい

椎の木山の
椎の若葉の
滴る新緑のような
安心を得たい
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欲しがらないでもいい楽しみ

2014年04月22日 16時19分11秒 | Weblog
裸で生まれてきた。
所有するものは何もなく丸裸で生まれてきた。
というのに、その後、死ぬが死ぬまで欲しがる欲しがる。
たくさんたくさん欲しがる。これでいいということがない。
所有できるものならなんでもいいという具合に欲しがる。

両手に抱えきれないものは、貯蔵庫を広々とこしらえる。
そこにも我が物を蓄えに蓄える。
目に見えるものも見えないもの、とにかくなんでもいい。
所有の限りを尽くす。

でも、そこまで努力しても、死ぬときにはまた丸裸である。
すっからかんの一文無しにならねばならない。

どんなに強欲しても、結果的には無欲に等しくされてしまう。
昨日までの強欲の楽しみ。それも灰燼に帰してしまう。
それでやっと無欲の楽しみが始まる。

強欲の楽しみ以外に楽しみがあったと言うことを、
そこではじめて知ることになる。
強欲の楽しみが最上最高だったはずなのに、
所を変えれば価値観が逆転してしまうので、
あれはなんだったんだろうと思うことになる。



所有と無所有。
所得と無所得。

仏陀に帰依をしてしまうと、わが所有が無意味になってしまうに違いない。
他力に与れば、わが所得がいかに小さく粗末だったかを知るに違いない。

自力のなす所有、他力のなす無所有。
自力が拘泥する所得、他力が放棄する無所得。

仏陀の悟りの内容は「大いなる放棄」であった。

安心の世界では自力に依存しなくても暮らしていけるのだ、おそらく。



在りし日の釈迦牟尼世尊は、サンガにあってお弟子達とともに、
無所有と無所得と無住所を実践された。

無欲の楽しみとは欲しがらないでもいい楽しみである。










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いまだし朝に道を聞かず

2014年04月20日 17時43分07秒 | Weblog
僕は僕を安心させるためにこのブログを書いているようです。



2014年が明けて立て続けに僕は病気をしています。

僕は急速に年を取っているようなのです。

それでどうやら「後生の一大事」とやらが気になってきたようなのです。



若い頃に「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」を国語の教科書で習いました。

それから朝は何度も何度も僕にやって来ましたが、僕はいまだ真剣になって道を聞いていません。

ですから、夕べに死んでしまうとなれば大騒動をするしかありません。



それでは困るのです。

大騒動をして死んでしまってもよさそうなものですが、死んでしまう前が不安たらたらでは困りものです。

いや、結局は大騒動をして死んで行くに決まっていますが、これまでのことにお礼を言っておきたいのです。

わたしは、わたし以外のすべての意思、大きな大きな愛情機構によって、大事大事に育てられ守られ導かれてやっとここまで来ています。

しかしこのご恩に報いることもできません。



ご恩に報いるというのはどういうことなのか。



わたしが安心をすること、これがご恩に報いることであるに違いないという思いがしています。



わたしの老い先が短くなってきました。

ことは急を要するのです。
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安心をしろと春の雲は言う

2014年04月20日 17時29分55秒 | Weblog
「春の風景」

安心をしろ
安心をしろ
春の雲はそう言う

安心をしろ
安心をしろ
春の山はそう言う

安心をしろ
安心をしろ
春の川はそう言う

行っても行っても
こうだ
どこをどう見回しても

この安心の
声の座に
座した者が現れた

そこで
春は
静かに暮れていった



これは2014年4月4日のS新聞に載った詩です。僕の書いた詩です。



人間を
安心させるために
それだけのために
季節はあたたかい春になり
そこに雲が浮かび
そこに山が聳え立ち
そこに川が流れている

人間が
それを合点して
納得をして
朗らかな眼をして
暮らしていると
それを見た彼らも
安堵をするのだ
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山川草木みなことごとくが安心を囁く

2014年04月20日 17時25分53秒 | Weblog
余すところなくことごとくみな

山川草木が成仏を果たし終えている

余すところなくことごとくみな

花鳥風月が成仏を果たし終えている

よって

ことごとくみなが

わたしのところを訪ねて来て

わたしにやさしくするのだ

わたしに言葉をかけてきて安心を囁くのだ
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分かりづらい文章でごめんなさいね

2014年04月20日 17時11分13秒 | Weblog
これまでに書いた僕のブログを読み直してみる。

「これじゃ、日本語になっていないなあ」
「とても他人様に理解してもらえる文章じゃないなあ」
「理路整然の反対の理路不整然だなあ」
「独り合点の連続というところだな」
「読みづらい思いをしていらっしゃるだろうなあ」
「書いている内容が常識外れだ」
などと反省をする。



もしそれでも、読んでくださっている方がいるとすれば、その方はとても忍耐強い方に違いない。



人様に分かってもらうような文章を書いていない、そういうところがある。



自分がまず真っ先に安心をしたいから、人様にまで気が回っていないのだろう。

自分の不安を真っ先に解消したいというところが先になっているからだろう、きっと。



でも申し訳がないことだ。

これは謝っておかねばならないことだ。

みなさん(もしも読者がいらっしゃるとすれば)ごめんなさいね。

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