<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

森へ行って木を眺めた

2015年01月31日 20時56分07秒 | Weblog

さぶろうは右往左往するけど、森の木はこれをしない。しないでいられる。たいしたもんだなあ。

大地を選んでそこに生えたきり一尺一寸も動かない。地に根を張って天を目指したきりで、饒舌の恐怖を相手にしないでいられる。逃げ場を作らない。天を信じ地を信じて微動だにしない。

こうしていればいいという確信に満ちている。安心を揺るがさない。

天空からは天空のエネルギーが投射され、大地からは大地のエネルギーが湧出して来るので、木はこれをそっくり受けていればいいのである。

木は他の木を喰ったり、魚を食ったり獣を喰ったりはしない。他の生命を喰わないでいられる。木の体内には化学工場がある。元素組み替え工場がある。元素の働きをプラス、プラスに働かせることができる。こうして、木はみずからの活動に必要な全エネルギーを調達できる仕組みを完成させた。この凄腕に驚愕する。さぶろうはこうはいかない。

木は脅さない。己の不安を脅しで以て代替しない。木は偉ぶらない。木は己を蔑まない。傲慢にならない。卑下しない。騒がない。怯まない。拒否をしない。木をして木とせしめている根源の力を恃んで、じっとしていられる。静かでいられる。無為寂静を実行している。

さぶろうよりかずっとずっと向上の梯子を高く登っているように思う。さぶろうは今日、森へ行って木を眺めて、こう思った。

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毘盧遮那仏 法界の道場に座して我を待つ

2015年01月31日 20時33分59秒 | Weblog

一切衆生が迷いに迷うこの世の、灯火(ともしび)となっていてくださる毘盧遮那仏が、法界という道場に座して、わたしたちを照らして今か今かと待っていてくださっています。

そんなことを話されてもこれまでのさぶろうは馬耳東風だったが、これがそうでなくなってきた。聞いているだけで、嬉しいという気持ちがふくらむようになってきた。これを聞いて、毘盧遮那仏を思うとこころの温度が上昇をして行く。上昇して行くのが分かるようになって来た。

どうしてだろうか。どうしてだろうかと思う。結局、どうしてだかわからない。さぶろうがあまりにも迷いに迷うので、疑いに疑うので、不安がるので、その分の導きの手が強くなって来たのかもしれない。

 

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どんなコースを辿っても川の水は安心の海に流入します

2015年01月31日 20時07分02秒 | Weblog

どんなコースを辿っても最後は海に流入します。どの川の水も同じです。もともと川の水は海の水だったのです。温められてエネルギーをもらい受けて、蒸発して雲と成って、大空を動いてきて雨と成って、わたしたちはこの現世に降り注いで来ました。どんなコースを辿ってもいいのです。病気になってもいいのです。苦しんだり悲しんだり、どうしていいのか分からなくなって、ついには絶望したりしてもいいのです。それでも川の水は流れていきます。海へ海へ注いでいきます。さまざまな体験ができるように仕組まれています。雨の一滴のわれわれは、迎い入れられた大海に安堵したらそこで互い互いに冒険談をして聞かせることができます。「きみはそれを楽しんだだろうね」「そりゃあもう」海の中では互い互いにこういう会話をして楽しみ合うのです。楽しんだ分は皆成長を遂げているのです。それを感じているとわたしたちは、これまでのさまざまな冒険のこと、辛かった学習体験のことなどいつかすっかり忘れ去って、歓喜は極まり、有頂天になることもあります。この海の呼び名はさまざまです。安養界や法界、宇宙根源界、大安心世界、無条件の愛の世界などとも呼ばれています。

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わが救済 すでに確定す

2015年01月31日 18時08分14秒 | Weblog

一切世灯坐道場 覚眼開敷照三有 我今瑚跪先勧請 転於無上妙法輪 所有如来三界主 臨般無余涅槃者 我皆勧請令久住 不捨悲願救世間 帰命頂礼大毘盧遮那仏 「金剛界五悔 第四 至心勧請」より

いっせいせいとうさーとうちょう かくがんかいふーしょうさんゆう がきんこきせんげんせい てんにょーぶーしょうびょうほうりん そゆうじょらいさんかいしゅ りんぱつぶーよーでっぱんしゃー がーかいげんせいれいきゅうちゅう ふーしゃひーげんきゅうせいかん きべいていれいたいひ ひろしゃーだーふー

一切の世灯(せとう)の道場に座して 覚眼(かくげん)開敷(かいふ)して 三有(さんう)を照らしたまうを 我れ今 瑚跪(こき)して 先ず無上の妙法輪を転じたまへと 勧請したてまつる 所有(あらゆ)る如来三界の主の 無余涅槃(むよねはん)に臨みたまう者をば 我れ皆勧請し 久住せしめたてまつる 悲願を捨てずして 世間を救いたまへ。大悲(だいひ)毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)に帰命し 頂礼したてまつる    

あらゆる世間の暗闇を照らす灯火(ともしび)ともいうべき毘盧遮那仏は、常に法界の道場にいまして、覚りの眼を開いて、迷いの世界を照らしておられます。わたしは今跪(ひざまず)いて先ずこの上ないすぐれたみ教えを説き示してくださるよう冀(こいねが)います。あらゆる如来、三界の主たる、完全な覚りの境地に臨んでおられる方々に、わたしは皆この世に久しく留まってくださるよう請い願いあげます。なにとぞすべての人々を救済する慈悲の願を捨てないで 世間をお救いしてください。大悲を具えられた毘盧遮那仏に 帰命し頂礼いたします (勝又俊教 訳)

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は奈良東大寺の大仏さんで有名です。全宇宙を束ねている主体者、法身仏です。ここでいう法は真如界の真如だから、形がありませんが、形がないとわれわれ凡夫は途方に暮れてしまいますから、方便として、人の形をとって現れてくださっています。真言密教では大日如来とも呼ばれます。

「この世の全てを照らす灯火としての役目をしていてくださる毘盧遮那仏は、いつも法界(全宇宙)という道場にいてくださっています」 ここを読みだけで、さぶろうは嬉しくなります。よかったよかったよかったと胸を撫で下ろします。これでさぶろうが救われることが確定したからです。

三有(さんう・さんぬ)は欲界・色界・無色界に存在している者、或いは本有(ほんう=現世の存在者)、当有(来世の存在者)、中有(現世と来世の中間にいる者)をあらわしています。わたしたちです。生きているわたしたち、死んだわたしたち、死んでも行き先不明の、わたしたちです。

三界は欲界、色界、無色界です。段階が上がっていきますが、この三界もまた迷いの世界です。究極の解答を得てはいないのです。ジャンプをして空高く飛び上がってもいまだに着地すべき地点が定まっていません。菩薩や諸仏がここへ導きます。究極の大安心界の中心中核に座しているのが毘盧遮那仏です。そういう設定です。この設定があって、わたしの救済が確定をしているということが嬉しいのです。

仏典のどこを開いてもここが示されています。ここに繋がっています。さぶろうは迷い子です。過去も現在も未来も迷い子です。究極の解決策を持ち合わせていません。でも大丈夫のようです。仏界、法界ではすべてが完了をしています。さぶろうは下駄を預けて利他行をする他力船に、疑いを払い捨てて、よいしょと乗船するだけでいいのです。仏典は手を替え品を替えて百万遍も千万遍もただひたすらこの安心を説法しています。

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にやにや にやにや

2015年01月31日 17時23分24秒 | Weblog

嬉しいことがあった。今日は学校は休みである。ところが、例の小学生が2人、自転車に乗ってカジュアルルックで、我が家に遊びにやって来た。道路からは見えない西側の奥まったところで、さぶろうは玉葱畑の草取りに専念していた。肥料がよく効いているので草の勢いもいいのだ。玉葱を覆ってしまうくらいなのだ。そこへ元気よく、「こんにちはー」と挨拶をして2人が畝と畝の間の溝の小径を駆け込んできた。「おー」さぶろうは手を振って応えた。「よく来た」というと少年たちの顔がたちまちほころんだ。「今日はね、猫と遊ぶのじゃなくて、おじさんと遊ぼうと思って来ました」兄さんの方が来意を告げた。「そうか、そりゃありがとう」さぶろうは途端に機嫌がよくなって、立ち上がった。自分の家の孫ではないから、抱きかかえるのはさすがに控えたが、そうでもして歓待をしたくなった。こんな老人と遊んだって面白いことなんかなんにもないはずである。だから、きっと元気づけをしに来てくれたのである。弟の方が「僕は今朝こけてしまったんだ。で、おもいきり下腹を打ち付けちゃった」と言って失敗談をし始めた。「じゃ、泣いただろう」と聞くと、兄の方が「いや、泣かなかったよ」と弁護をした。「そりゃ、偉いね」さぶろうはすかさず褒めてやった。それから、いつものように蜜柑箱に入っている蜜柑を食べ、金柑の木から金柑をもいで食べ、ベランダの干し竿に吊している千切り干し大根を試し食いした。干し大根は櫛の目状に細かくしてあるから食べやすかった。さぶろうは椅子に腰を下ろして対応した。やがて小学2年生の兄の方が「僕、近所にいる従兄弟を連れてくるよ」「待っててね」と言って自転車に乗って戻って行った。従兄弟は幼稚園の年長組らしかったが、補助輪付きの自転車に乗れるらしかった。しかし、3人はとうとう現れなかった。さぶろうはまた畑へ行って草取りを再開した。草取りをしている間中、子どもたちがやって来てくれたことが嬉しくてにやにやにやにやしていた。

 

 

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ほんとうだよ

2015年01月31日 10時52分27秒 | Weblog

「ほんとうかなあ」 さぶろうが言うと、さぶろうの、天空の指導者が、「ほんとうだよ」と言いました。「それを言いに来たんだ」「さぶろうが心配をしているのを見て見ない振りはできなかったんだ」と付け加えました。さぶろうはやっと安心をしました。冬の日が中空高くまで昇ってきていました。朝露が椿の葉っぱに宿を取って、きらきらきらきら魚のように跳ねました。

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なんでも筒抜けです

2015年01月31日 10時39分33秒 | Weblog

はい、そうなんです。なんでも筒抜けです。筒に蓋なんかしてありません。行き来は自由です。エネルギーの入力も出力も自在です。過去も現在も筒抜けです。現在も未来も筒抜けです。みんな同時で平面で境目がありません。こちら側の世界とあちら側の世界にベルリンの壁はしてありません。植物界、鉱物界、動物界、人間界、神仏界の意識は意識の海の漣(さざなみ)です。「おーい」と呼んだら「おーい」と応えてくれます。活動のための力も共有共通です。けちを言いません。それから脅し合ったり蔑み合ったりはしていません。みんな助け合っています。いのちの感動をしまくっています。

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不死の体験トラベルは楽しいよ

2015年01月31日 10時23分42秒 | Weblog

死んでみたら不死が体験できるって凄いことなんだなあ。そうなんだ、死なないうちにはこんな体験はできなかったんだ。さぶろうも、さぶろうの仲間たちも、宇宙も、宇宙の仲間たちも、どこまでも成長をし続けて行くってことだったんだ。どこまでも向上をし続けて行くってことだったんだ。扉を閉じないで、全開放をして。後ろを振り返らないで前を向いて。立ち止まらないで先へその先へ。恐がらないで楽しんで。<不死の体験 向上トラベル>の楽しさはエンドレスなんだ。

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じゃ、笑っちゃお笑っちゃお

2015年01月31日 09時53分10秒 | Weblog

あっはっは いっひっひ うっふっふ えっへっへ おっほっほ

ア行とハ行がカップルだ。や、手を握ってら。

浮き足忍び足のデートを、タンポポが見上げて過ぎる。スミレが拍手をして過ぎる。

ほがらかな二人が春の小径を歩いて行く。どっちが男性役をしているのだろう。どっちが女性役をしているのだろう。

あっはっは いっひっひ うっふっふ えっへっへ おっほっほ

何が楽しくて 何が嬉しくて 小さく笑って 大きく笑い飛ばしているのだろう。ぽかんと口を開けて眺めていないで、あなたもいっしょにどうぞと誘って来る。

おほっほっほ うふっふっふ えへっへっへ いひっひっひ あはっはっは

笑った方が勝ちだっていうんだ。何がおかしいかだなんて理屈を捏ねるより、笑ったらそこで笑い儲けだというんだ。なんでもかんでも笑い飛ばしたらすむことだ、というんだ。ふううん、そんなもんかなあ。じゃ、笑っちゃお笑っちゃお笑っちゃお。

おほほほほほ うふふふふふ えへへへへ いひひひひひ あはははははは

ほんとは二人でいられるからなんだ。愛が芽生えているからなんだ。それ以上のどんなプラスもいらなくなっているからなんだ。ここまで来る途中に、ああでなきゃとかこうでなきゃだとか、さまざまに条件をつけていたんだけど、これが見事に吹き飛んでしまったんだ。空っぽになったんだ。

空っぽの宇宙に響き渡るのはこの響き。

あといとうとえとお はとひとへとふとほの結婚式 あっはっはいっひっひうっふっふえっへっへおっほっほの長い長い行列。エンドレスの行列。

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どんな新しい変化を遂げていくのだろう

2015年01月31日 08時23分13秒 | Weblog

2015年1月31日。土曜日。1月最後の日。明日から2月。瓦屋根に下りた霜の張り付きがぶ厚かった。日が昇って来ると、しかし、いっときで霜はうっすらとなった。裏の、よそさまの畑に菜の花の長い列ができている。春がもうすぐのようだ。

昨夜は、コンビニ店に注文して取り寄せてもらった新しい本を読んで、ついつい真夜中まで読み耽ってしまった。日が変わったところで眠りに就いた。もう少しで読み上げる。続きは1月の内にすませよう。

朝方、恐い夢を見ていた。追われて追いつかれて高いところから飛び降りるところで目が覚めた。夢でよかったと胸を撫で下ろした。目を閉じたら、この続きを見せられそうで、しばらくは瞼が閉じなかった。どうしてこうもホラー体験をさせられるのだろう。クエスチョンが残った。

6時にトイレに立った。それからしばらく布団の中でタブレットを握り、YouTubeを開き、来日したブルース・モーエンを囲む会とその関連動画を見て過ごした。朝ご飯は煮餅だった。炒り子出汁で、黄色の白菜がどっさり入っていた。汁にご飯も加わり、さらさらの粥状になっていた。隼人瓜の酒粕漬けの漬け物を副食とした。食後のデザートはカスピ海ヨーグルト。ここに、すでに堅くなっていた干し柿を切って加えてやわらかくしてあった。これがおいしかった。

よろこぼう。よろこぼう。よろこぼう。さぶろうは自分に何度も言い聞かせている。1月をよろこんだら、今度は2月をよろこぼう。よろこびが次々とページを捲って来るのだ。新しく新しく波のうねりを作って、さぶろうの岸辺に押し寄せてくるのだ。これをやり過ごすテはない。胸が受け止められる分は受け止めてやろう。しかし、どうしてこうも次々とさぶろうをよろこばせたがるのだろう。これもクエスチョンだ。よろこんださぶろうは、どんな新しい変化を遂げていくのだろう。

 

 

 

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