一切世灯坐道場 覚眼開敷照三有 我今瑚跪先勧請 転於無上妙法輪 所有如来三界主 臨般無余涅槃者 我皆勧請令久住 不捨悲願救世間 帰命頂礼大毘盧遮那仏 「金剛界五悔 第四 至心勧請」より
いっせいせいとうさーとうちょう かくがんかいふーしょうさんゆう がきんこきせんげんせい てんにょーぶーしょうびょうほうりん そゆうじょらいさんかいしゅ りんぱつぶーよーでっぱんしゃー がーかいげんせいれいきゅうちゅう ふーしゃひーげんきゅうせいかん きべいていれいたいひ ひろしゃーだーふー
一切の世灯(せとう)の道場に座して 覚眼(かくげん)開敷(かいふ)して 三有(さんう)を照らしたまうを 我れ今 瑚跪(こき)して 先ず無上の妙法輪を転じたまへと 勧請したてまつる 所有(あらゆ)る如来三界の主の 無余涅槃(むよねはん)に臨みたまう者をば 我れ皆勧請し 久住せしめたてまつる 悲願を捨てずして 世間を救いたまへ。大悲(だいひ)毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)に帰命し 頂礼したてまつる
あらゆる世間の暗闇を照らす灯火(ともしび)ともいうべき毘盧遮那仏は、常に法界の道場にいまして、覚りの眼を開いて、迷いの世界を照らしておられます。わたしは今跪(ひざまず)いて先ずこの上ないすぐれたみ教えを説き示してくださるよう冀(こいねが)います。あらゆる如来、三界の主たる、完全な覚りの境地に臨んでおられる方々に、わたしは皆この世に久しく留まってくださるよう請い願いあげます。なにとぞすべての人々を救済する慈悲の願を捨てないで 世間をお救いしてください。大悲を具えられた毘盧遮那仏に 帰命し頂礼いたします (勝又俊教 訳)
*
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は奈良東大寺の大仏さんで有名です。全宇宙を束ねている主体者、法身仏です。ここでいう法は真如界の真如だから、形がありませんが、形がないとわれわれ凡夫は途方に暮れてしまいますから、方便として、人の形をとって現れてくださっています。真言密教では大日如来とも呼ばれます。
「この世の全てを照らす灯火としての役目をしていてくださる毘盧遮那仏は、いつも法界(全宇宙)という道場にいてくださっています」 ここを読みだけで、さぶろうは嬉しくなります。よかったよかったよかったと胸を撫で下ろします。これでさぶろうが救われることが確定したからです。
*
三有(さんう・さんぬ)は欲界・色界・無色界に存在している者、或いは本有(ほんう=現世の存在者)、当有(来世の存在者)、中有(現世と来世の中間にいる者)をあらわしています。わたしたちです。生きているわたしたち、死んだわたしたち、死んでも行き先不明の、わたしたちです。
三界は欲界、色界、無色界です。段階が上がっていきますが、この三界もまた迷いの世界です。究極の解答を得てはいないのです。ジャンプをして空高く飛び上がってもいまだに着地すべき地点が定まっていません。菩薩や諸仏がここへ導きます。究極の大安心界の中心中核に座しているのが毘盧遮那仏です。そういう設定です。この設定があって、わたしの救済が確定をしているということが嬉しいのです。
仏典のどこを開いてもここが示されています。ここに繋がっています。さぶろうは迷い子です。過去も現在も未来も迷い子です。究極の解決策を持ち合わせていません。でも大丈夫のようです。仏界、法界ではすべてが完了をしています。さぶろうは下駄を預けて利他行をする他力船に、疑いを払い捨てて、よいしょと乗船するだけでいいのです。仏典は手を替え品を替えて百万遍も千万遍もただひたすらこの安心を説法しています。